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JCFN聖書通読!コミュの1列王記20章

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イスラエルのアハブ王は、同書16章33節で書かれているようにとてつもなく主の怒りをかう行いをしているにも関わらず、主のプランの前に戦(いくさ)での勝利を与えられている。しかも大アラム帝国の王と32の王達と大軍を敵にしながら。神はアハブ王の心全てをお見通しということなのか。21章29節でへりくだるアハブ王の心をすでに知っていたのだろう。

この章の戦で主は、ベン・ハダテ王の立ち返りを勝ち取ったのだろうか。なぜ彼の命をとらず契約を結ばせて帰らせたのか。アハブ王はさも神のみ旨にそう人(イエスはまだ出てこないのでクリスチャンという言葉は適当でないでしょう)かの様にベン・ハダテ王の弱っているところに和解を持ち出し、契約を結び、去らせる。なんで。なぞ多すぎ。

全く僕のような一人間には予測のつかない場面が多いこの章。ひとつだけいえそうなことは、「誰が戦いを仕掛けるのでしょう」と問うアハブに「あなただ。」と言い切る神の人ナタン(僕の聖書の注ではナタンとなっている)から感じ取れる神の偉大なる計画。神の偉大で完全なる計画には、果たして僕らが認める神の人であろうが、神の道からそれるものであろうが、彼が思うように使われるのではないかということ。そしてその彼に使われるとてつもない大きな理由はただ一つ、その栄光を現す事。大アラム帝国の王と32の王達と大軍 vs. イスラエル7千人(15節)でのイスラエルの勝利はまさしく神の栄光としかいえないでしょう。

果たして僕らは神の偉大なる完全なる計画に使われているのでしょうか。私は週に何日教会行ってるからとか、一日に何回聖書読んでるから、神の計画の中に入っているとは思ってないでしょうか。私らが神の計画を知りたいと願って彼に近づこうと思ってもその分彼が私らに歩み寄ってくれると思うのは間違いでしょう。もちろん僕もギルティな時があることは否めません。

果たして私らがどう思っている、願っている、分かろうとしていることは神の計画を知ることにはつながらないんじゃないでしょうか。だって神は神ですもの。私らが、私らの努力を惜しまないのはそうすることによって感じられるかもしれない恵みのため。たくさん神のために努力して、願って、彼の名によって苦しめられることが、私らの恵みです(ローマ5:3,4,5)。イエスの「行け」(マタイ27:19)と言われている指示に従って、私らが私らの理屈では理解できない所へ「行った」時、そしてそこで神の愛が実践できた時、彼の計画の一部に使われると心から言えるのではないでしょうか。

ということで、アハブ王についていろいろ非難したり、追求してみたりしてたら、そんな思いに駆られました。

35節から後の預言者のアハブ王への言葉は、あまりにも深く僕には理解不可能。「イスラエルが聖絶出来なかった者、、、」果たしてこの「聖絶」の意味を真に分かる人は、神意外にこの世界にいるのだろうか。もしいたら一言聞きたい。神が今のクリスチャン社会に聖絶せよといわれているのは何?核爆弾?遺伝子操作?それともインターネット?

コメント(6)

20章のアハブを見ていると「中途半端」という感じだ。

一旦、ベン・ハダドに従うようなことを言っておきながら(4)、国中の長老に「承諾しないでください」と言われると意見を翻す。

そして、主によって勝利させてもらったのに、自分の考えで中途半端なあわれみを見せて、ベン・ハダドを滅ぼさずに協定を結んでしまう。

後に預言者を通して主から
「わたしが滅ぼし去るように定めた人物をあなたは手元から逃がしたのだから、あなたの命が彼の命に代わり、あなたの民が彼の民に代わる」(42)
と言われると、怒って帰ってしまう(トホホ)。

私のうちにある「このくらいなら・・・」という想い、「いいじゃん。だって、いいことなんだから・・・」と自分で決めてしまう心を滅ぼし去りたい。
アハブとイザベルというと、本当に歴代のイスラエル・ユダヤ史の中でも、悪名高いカップル。
でも、そのアハブに、神様はアラムとの戦いにおいて勝利を与えられた。
アハブは、本来だったらアラムの王を殺すべきだったけれど、慢心したのか、自分がアラムを制することができる、と思ったのか、殺さずに、盟約を結んで返してしまう。それが後の日の災いの種になった。

神様の計画(イスラエルを諸国の光とする)っていう中で、神様は、御心にかなわないアハブとか、他の色々な人を用いて計画を実行することがある。

何回も出てきているけど、「神様に用いられる」は、「神様と愛の関係を持っている」とはイコールじゃない。

祈りが聞かれたからって自分が御心のうちを歩んでいるとは限らない。

大切なことは自分のAgendaで動くことではなくて、神様の御心を求め、その中に自分をゆだねていくこと。
"My lord, O king, just as you say, I and all that I have are yours."(4)

ここは、アンドリュー・マーレーの『完全な明け渡し』の中で引用されている箇所。これこそ私たちが持つべき「完全な明け渡し」の姿勢である、と。
なるほど、なんだけど、この文脈で読むと、結構out of contextな引用だったんだなーと思ったり。


>何回も出てきているけど、「神様に用いられる」は、「神様と愛の関係を持っている」とはイコールじゃない。

これ、ほんとにそうだ。尊いことに用いられる器もあれば、卑しいことに用いられる器もある… 
悪名高い王アハブ。でも神様が勝利を与えてくださる、という言葉を聞くと、「ほんとに?」って感じで、神様のことばに耳を傾ける。
結局人は、自分に都合のよい言葉を言ってくれる人(神)なら誰でもいいんだよねー、と改めて思う。

この章でも、預言者たちが不思議な役をおおせつかる。
"hit me and wound me. Do it for God's sake."

うーん。なんだよ、これ。
この時代の預言者たちって大変だなあ、って思う。(いや、いつの時代でも預言者たちは大変だけど。)

従順であること、時には、意味がわからなくても。
難しいよね、これ。
神様がアハブに勝利をもたらさせたのに、アハブは全然それがわからず、慢心し、シリアの王ベン・ハダデを生かし、そのことを預言者に指摘されると、怒り出す。

どうしてこのとき、アハブはベン・ハダデに憐れみの心をかけたのか?多分、それは本当に慢心だったのだと思う。
人間は、自分に余裕のあるところを見せて、自分をよく見られたい、という思いが働くから。

もし、アハブが、この2回の勝利は神様によるものだと本当に思っていたのなら、こういう心の油断は絶対になかっただろう。

それにしても。
預言者に対しては相変わらず厳しい神様。
神の御心を行う、ということがどれほど厳格なものなのか、前回のヤロボアムの章に引き続き、背筋がぞっとするような感じがする。

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