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ユルガルレコミュの劇中劇の知

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>トポロジー的に、内部の内部は外部である。
  福岡伸一(2007)『生物と無生物のあいだ』講談社現代新書、p.201

これは、「敵の敵は味方」と相似か。

>我らの芝居はもう終わった。この俳優たちは、先にも言った通り、すべて妖精、だからこの大気に、薄い大気に、とけ去ってしまった。そして、影だけで織りなされたこの幻さながら、雲を頂く塔も、豪奢な宮殿も、荘厳な神殿も、大いなる地球そのものも、いやそこにあるものはひとつ残らず、やがて消え失せ、今しがた消え去ったはかない見世物同様、後には雲ひとつ残さないのだ。人間とはつまり夢の材料、そして我らの短い生涯は、眠りから発して眠りへ帰るのだ。
  喜志哲雄(2008)『シェイクスピアのたくらみ』岩波新書、p.199


>人間にとっては自らの生活は現実そのものであって劇ではない。この生活において、人間は主体的な意志に基づいて行動している。だが、これは錯覚ではないのか。『真夏の夜の夢』の若い恋人たちが、妖精という他者によって操られながら、そのことに気づかないように、我々も自覚してはいなくても、他者によって操られ、他者によって笑いの対象にされているのではないか。
 劇中劇という手法は、現実が虚構であるかも知れないこと、人間の主体性は幻想にすぎないかも知れないことに、我々が思いを致すように仕向けるのだ。
  (前掲書)p.170

夢はどうか、夢は。


>私たちは自分自身の人生を自分の手で生きていると思っている。しかし実のところは、私たちが自分に人生と思っているものは、だれかによって見られている夢ではないのだろうか。夢を見ている人が夢の中でときどきわれに返るように、私たちも人生の真只中で、ときとしてふとこの「だれか」に返ることができるのではないか。このような実感を抱いたことのある人は、おそらく私だけではないだろう。
 夜、異郷、祭、狂気、そういった非日常の時々に、私たちはこの「だれか」をいつも以上に身近に感じとっているはずである。夜半に訪ねる今日と昨日のあいだ、昨日と今日のあいだ、大晦日の夜と来年のあいだ、去年と今年のあいだ、そういった「時と時のあいだ」のすきまを、じっと視線をこらして覗きこんでみるといい。そこに見えてくる一つの顔があるだろう。その顔の持主が夢を見はじめたときに、私はこの世に生まれてきたのだろう。そして、その「だれか」が夢から醒めるとき、私の人生はどこかへ消え失せているのだろう。この夢の主は、死という名をもっているのではないのか。
  木村敏(1982)『時間と自己』中公新書、p.191-192


パソコンのこちら側とあちら側。
本のこちら側とあちら側。


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