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ほうじ茶サロンコミュの【雑談】下書き用紙をそっと置く。

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 書いてたはいいけど、あー、なんかこれ違うなあって思ったり。
 そういうことって、あると思います。
 でもそんな文章のなかに、大事なことがひそんでいたりします。

 いったん書いた文章は、極力みんなで共有しましょう。
 いまはジャンクな文章であっても、いつかその真の価値を発揮するかもしれません。
 哲学者ヘーゲルの思想体系は、メモの断片からできあがったというくらいですから。

 下書き用紙を、サロンのすみの机のうえにそっと置いておきましょう。
 ごみくずにしか見えないその山は、しかし宝の山かもしれません。


【ルール】
・この場所のために文章を書き起こすことはしないでください。ほかのところで書いていて、つかえなくなってしまった文章のみを投稿してください。
・投稿する文章は、なんのために書いていた文章であるかを軽く説明してください。
・ここに投稿された文章に関しては、文法、文章の巧拙、論理性など、その質に関する意見をいっさい投稿しないでください。
・ここに投稿された文章の内容に関して、軽く感想を述べる程度のことはありとしますが、深く突っ込んだりはしないでください。
・ここで議論をしないでください。議論にもっていきたい場合は、文章の主と相談したうえで「テーマ」トピックを新しく立ててください。

コメント(6)

 社会において個人が個人として成り立つのに必要な条件とは、「替えがきかない」ことだと思います。
 社会というのは、「全」です。「全」を維持するために、社会はさまざまな役割を「個」に与えます。この役割というのはなにもそんなにすごいものじゃなくて、たとえばいちばん多く存在している役割とは、「大衆」という役割です。

(「社会において個人とは」トピックのための文章)
 まあでも、主観的な答えっていうのもけっこう大事だったりするので。主観というのには、必ずある種の客観がひそんでいるから。

(「社会において個人とは」トピックのための文章)
 去年のいまは高校生であった、その事実がもはや驚愕に値する。

(自ブログ「ブロックバター革命。」の記事のための文章)
これはトピック「社会において個人とは」のために書いていた文章からこぼれ落ちたものです。
個人の方に書くと言いましたが、ルールを見て、こちらに投稿しました。

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社会は放っておくと、悪くなる性質があります。これは感覚的なことですが、確実なことだと思います。放っておいたら、簡単に無秩序になっていくことは、容易に想像できます。
できるだけそうならないために、全体の均衡を保つために、人が力を貸し続けることで、どうにか正常らしき状態を保っている。

そもそも正常とは何かと問われると、いまは、僕自身がそれなりに生きられていることでしか、それは証明できないのですが。

日本における社会の正常性から見れば、総理大臣が誰だとか、些細なことだと思います。社会にとって重要なことを些細なことにしてしまっている、今の社会は異常なんだと考える人がいると思いますが、僕はそれに違和感があります。見方を変えれば、日本は、社会は異常だと思いながらも正常に生きられる、異常に正常で幸せな社会なのです。

1人がさぼっても、たとえ1万人がさぼっても、またそれ以上がさぼっても大丈夫なように、社会を作り上げてきました。それだけ、社会の中の1人の力を弱めてきました。

1人の力を弱めるためには、出る杭は打たざるを得ない。学校の教室のように、たった2,30人程度の集団でも、目立った行動をすれば、その人は沈められ、なかったことにされるのです。教室は小さな社会とも言えますが、それだけ個人は認められないのです。つまりは日本では国策として個人を認めない教育をしているのだから、社会がそうなるのは当然とも言えます。
もちろん、1人が影響のある人はいますが、それは例外です。影響力の範囲もまちまちで、その影響力がおよぶ範囲は、その範囲のことが好きな人、関わっている人ということになります。

と、考えていくと、飛躍するかもしれませんが、そもそも個人とは、社会という枠の中に存在する概念ではないのかもしれません。社会は、個人の集団が作り上げているのであって、個々の人ではないということです。

社会では、構成要素となる個人が、ある特定のレベルでの包括的な条件を共有している。
学校のクラスルームや職場の部署といった小集団レベル、学校や企業全体、市町村といった中集団レベル、国家のような大集団レベル、プロレタリアやブルジョアジーまたは貧民から富豪といった階級レベル、ちびっこからアラフォーに団塊の世代といった年齢レベル、そして宗教レベル、これら量的および質的レベルの異なった条件を、各社会はもつ。
社会はひとつだけではない(広義には?)。
幸福追求権に対する公共の利益の確保(個人の力を弱める一例)
その社会において公共の利益も加味した、言ってしまえば自己の理性をもって妥協を受け入れた個人が、それを踏まえて自分の意思を表示する。←理性とはなにか。発達の過程で社会に教育された結果身に付くものでは。←(個人の意思は固有のものであるという前提において)社会の中で表明できる固有の意思は、無意識的にあるいは知覚経験的に限定されたものなのではないか。←質も量も限定されていたとして、固有の意思そのものが、それは自分以外の何者でもない自分を知覚すること、主観的な個人の知覚者であり、
それを第二者(?伝える対象が自分以外にいること)に表示できることは、その固有の意思を認知する存在が自分以外にいることで、いわば仮客観的な個人の知覚者のお墨付きをもらうことである。
(成り立つとはなにかについて定義したうえで、以上をどう思考するか)

(社会において個人とは 下書き)
歴史はいまでも動いています。

(「民主代表選について」のための文章)

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