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公開ディスカッションコミュの日本には一度も民主主義がなかった...のか(1)

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 政治は決して国民のレベルを超えることはないと言う命題からすると、日本政治の現状は、それが国民が望んでいるという意味で国民の鏡であるということになるのではあるまいか。しかし、ジャスミン革命は国民が求めれば、現代においても独裁者を打倒することもあるという証明である。

 それでは、革命の起きたアラブ地域と我が国国民の違いは何処かとうことを考えると、そこには戦後の「豊かさと自由」が一つのおおきな要素として上がってくる。経済の発展とともに日本には政治について深く考えない、考えても仕方ない状況が冷戦終結まで長く続き、多くの国民は政治に豊かさと自由、つまり現状維持的なレベルしか求めず、政治もその鏡であったのではないかと思う。

 しかし、その冷戦が終結したときに国民が望んだのは何であったか、憲法の平和主義と現状の矛盾を解消するという事さえ、積極的には望まなかった。変更を望まない、つまり、変更という選択をしない選択をしたのだ。これは「豊かさと自由」がこれまで通り維持できるかもしれないという幻想から抜け出せなかったからである。

 それが端的に表れたのが、社会保障改革であった。公明党などの福祉政策を新自由主義の中でも可能にするかの如き、百年安心の年金制度といわれるものが、予測しうる最大の合計特殊出生率に基づいていたことは、当時野党の民主党の追究ですぐわかったのは記憶に新しい。

 こうした切実な問題に自公政権では対応できないかもしれないという意識を国民が強く抱いたことが政権交代につながったのだろう。翻って沖縄と福島はどうか。
 この二つは冷戦下の産物である。沖縄の住民は同じ日本国民でありながら、その痛みや危険性から逃れたい、せめて他の国民と平等にして欲しいという願望すら省みられることがなかった。 そして、日米安保も変更不能と一般国民の意識から遠ざかった。

 原発も危険性や見かけのコストだけでなく放射性廃棄物のコストを考えること、重大事故が起きないという幻想や誤魔化しをどうでもいいことに格下げして、現状維持を追認した。変更を選ばないことを選んだのである。

 反対派がどんな闘争をしても、大多数の国民には考えても仕方ないことだったからである。それは自分が痛まないことは考えない、感じないという風潮となってきたようにみえる。しかし、今回の大震災への国民の対応を見ていると、日本人とは利他的な感受性にかけているわけではないと実感する。

 このギャップを政治学者宮台真司は「民主主義が一度もなかった国・日本」(幻冬舎新書151)で、「自明性」にいきつきやすい国民性の点から説明している。今回の大震災・フクイチ事故の前に書かれたものであるが、まさに宮台の主張の通りに現実が動いているかのごとくである。日本人がいだく「自明性」の感覚は政治を「おまかせ」するものとしてしかとらえていない、その意味で表題のように日本の民主主義は自己が参加するものとしては明治以降一度もなかったことになる。

 この自明性とは次のように説明している。
「 日本人の集合的な営みはイデオロギーに固執するよりも自明性、つまり皆がなにを当たり前と思っているかの想定に固執するだけなので、自明性が変われば、新たな自明性に一挙に適応してしまうものである。この自明性はルソーの言う一般意志みたいなもので、個人の意志の集計でも、多数意志でもなく、皆の利益に関する誰もがすでに乗っていると想定されるパラダイムである。」

「 経済人を含めて、日本人の多くが「社会は人間によって作られたものだ」という発想に欠くので、「社会がいつまでも変わらない」と思いがちである。
 社会が「慣れ親しみ」の中に埋没しがちなこうした傾向を、丸山眞男は「作為の契機の不在」と呼び、「慣れ親しみ」を害するものに否定的に反応しがちなものの、環境がかわってしまえば、やがて新しい環境に何事もなかったかの様に「慣れ親しんで」しまう。
血縁よりも地縁が重要になるのも、イデオロギーよりも事実性が重要になるのも、信念よりも空気が重要になるのも、昨日までの鬼畜米英が、今日からアメリカさんありがとうになるのもそのせいである。」

 宮台によるとこうした「治世の自明性への埋没」は17世紀以来200年以上続いた江戸幕府による治世の成功が影響しているという。

コメント(6)

所謂「西洋近代的民主主義」が無いことは自明だと思います。
ただ上も下も「空気」に支配されると言う、実に「民主的」構造は骨の髄まで確立されているように思います。
それは、「血縁よりも〜、イデオロギーよりも〜、信念よりも〜」と並列に並べられるものでは無く、はるかに根源的に思えます。
それ故に「政治」と言う概念そのものが、全く異質であり、日本では未だに「まつりごと」なのではないかと…。
「社会は人間によって作られた」と言う発想に欠く、と言うより、地震や津波と言った天災により引き起こされる禍は、より悲劇的に実感でき、それを何とか食い止める方法そのものが「まつりごと」であったのでしょうし…。江戸幕府の治世の成功より、ずっと根源的であると思えます。
シマさんは「日本の政治はまつりごとである論
」ですね。
宮台の考え方は大いに参考になるとしても、江戸幕府の治世の影響が未だに続くというのは、どうかと思います。家康が残したという「よらしむべし、知らしむべからず」というのも、日本人のもつ、政治に関する感覚を為政者の側から述べたものであり、自明性に依存する傾向はシマさんが言うようにもっと根源的な感じがするのです。

そして、明治の自由民権運動や大正デモクラシーと護憲運動などに対しては、もっと評価すべきで、江戸幕府の治世の成功だけでは説明ができないのではないかと思います。

そして、私は津波、地震などの大災害に戦争などが引き起こす民族的不幸体験に注目してみたいと考えています。
あまり意見の食い違いは無さそうです。対立が無いとディスカッションにはなりにくいですね…。
本日、管さんが明確に退陣表明をしました。大喜びしている政治家や官僚、市民が沢山いるようです。私にはその理由がもう一つ良く分からないのですが…、「野党との信頼関係が無いから〜」なんて言われる。その言そのものが、まさに民主主義とは程遠い発想に思えます。管さんが何故これほど嫌われるのか、具体的には、
? 官僚を敵にしてしまった。
? 脱原発を表明してしまった。
? 増税を口にしてしまった。
などに象徴的なように、これまでの「まつりごと」や「根回し」の政治では無い別の―「近代民主主義」的方向に踏み出したからではないか、と私には思えます。管さん擁護的発言は袋叩きにされるような「空気」さえあるように思えます。 
少なくとも、日本の民主主義を考える上で、管総理の存在はとても大きいのではないか、と思うのですが…?
シマさん、コメント有り難うございました。
日本の政治スタイルに関しては、宮台の説明をかりた方が良いと思いますので、以下はその「四象限図式」からの引用です。

       市場主義
    A    ↑     B
  権威主義 → 民主化 → 参加主義
    C    ↓     D
       談合主義

 経済・社会や政治制度の民主化が進む道筋を上のように説明すると、大まかに言ってCは旧自民党、Aは小泉自民党、Dはアメリカの政治、Bはヨーロッパの政治と考えることができる。経済的に「談合主義」で「参加主義」が進むヨーロッパの「談合主義」とはコーポラティズムと呼ばれるものですが、公開されていれば経済的「談合」を可とする考え方のようです。アメリカ型市場主義をグローバリズムとして見聞きするしかない日本ではイメージしにくいものですが、公開されていれば「談合」つまり、安い、早い以外の価値判断が容認されやすい社会(国民が許容する社会)ということと理解すると、日本はアメリカ型かヨーロッパ型かを選択する段階に、ようやく(!)きているということになるのではないかと思います。

 市場主義が正しいと思わされてきている日本では、実は「談合主義」の方が向いている。アメリカのような科学的進歩主義ではなく、八百万の神々が未だに存在する自然観を土台にした価値観を我々は色濃くもっているわけですから、バランス的には政治的「参加主義」と「談合主義」が向いている。

 菅さんの登場でわかったことは、
1. 官僚は否定すべきものではなく、「公僕」として使うものである。GHQがいじらずに温存されてきた霞ヶ関の官僚主義をコントロールする方法を考えるしかない。
2. 国民が「参加しない」おまかせ政治は国民を救えない。政治は国民を豊かにするためのものだけではなく、生命財産を守るためにも機能できないといけないが、「参加」しないとそれが十分担保されない。
3. おまかせ政治でものをいうのは「金」である。田中角栄的なものはより深く日本社会を覆っていた。
4. 原発・東電の後始末をやり終えてからでは、資金が足りないように世論が作られている。
 これらを考えると、国民は自ら「参加」しつつ、細部を委ねる政治家を育てるしかない。それはすでに政党ではないかもしれない。もし、政党でないとすれば、または政党がその役割を期待されないとすれば、日本国憲法と議院内閣制度はその存在理由を失う。菅総理は日本の政治が未だ「C」に留まっている現状をあぶり出してくれたことなのではないかと思います。
個人的体験に過ぎませんが…。

98〜99英国で暮らしていた時、子供たちを現地の公立小学校にいれました。
毎週のように「給食費を払え!」と言うような催促の手紙が来たり、募金の依頼があったり、ボランティアでの修繕作業の呼びかけがあったり…。驚くことは沢山ありましたが、日本との最も大きな違いを感じたのは、PTA総会。
全校生徒200名ほどの小さな学校ですが、総会に出席したのは僅か30名ほど…。
会議は校長の独壇場で、全てを進行して仕切る。上から目線のしゃべり方で…。そして出席者”全員に”発言を求めます。英語が殆ど話せない私にも…。

貧困層の多い地域の小学校と言う特殊性もあると思いますが、「民主主義」の在り様、現実を突き付けられたように思えました。

校長の話し方や仕切りも、インテリである証です。Identity です。
何処の教会に行くか? どんな学校に入るか? どこで買い物するか? どんな服を着るか? どんな話題、どんな喋り方…、それら全てがIdentity であり、日常的に自己確認し続けている=表現し続けている。

それは結果的に(多分?)「階級制度」を色濃く残すことにも繋がっている。
そんな風に、歴史的日常に止揚しながら作られた英国の「民主主義」

「官僚主義をコントロール」「国民が参加する政治」
日本の歴史的日常をどのように止揚したら「より良き政治」に繋がるのか?

ヨーロッパを、英国を、捨てる・脱却することで歴史を刻んできた米国。
米国の、あたかも属国として繁栄を手にした日本。

私には「Cに留まっている」と言うより、そんな「選択」を一切していない日本、つまりは「一度も民主主義が無かった日本」のフリダシに戻ったような気がします。
ヨーロッパのコーポラティズムを調べてみると、アメリカのグローバリズムにより退潮傾向にある様です。そういえば、サルコジ仏大統領も登場した時は、アメリカ流経済運営をするという触れ込みだった様な気がします。

「C」に関しては次のトピックをお読み下さい。民主主義というのは、与えられるものではなく、国民が目的として犠牲を払って勝ち取る共通体験がある時点でなされないと、根付かないということのようです。
その意味では、ジャスミン革命を起こしたアラブ諸国はその端緒についた。しかし、フランス革命やロシア革命を見れば、今後の苦難は容易に推察できる。
日本には一度も民主主義がなかった、これからどうするのかと問われていると考えるべきではないかと思います。

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