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伊勢神宮125社コミュの伊勢への道

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近代以前、各地から伊勢をめざす街道が数多く整備されましたが、主なルートは…
◆伊勢街道:
東海道の日永追分(四日市)から伊勢湾沿いに、津、松阪を経由して伊勢神宮に至るルート。
外宮からは間の山(あいのやま、古市)を通って内宮に至ります。当時、御木本道路はなかったのですね。

◆伊勢本街道:
大阪の玉造稲荷神社から暗峠(くらがりとうげ)を越え、奈良・猿沢池からは、丹波市(天理市)、三輪、初瀬、榛原を経由し、伊勢国に入って、美杉、多気、田丸を経て宮川の渡しに至るルート。
初瀬本街道、伊勢中街道とも言います。

◆伊勢表街道:
伊勢本街道の榛原から、伊賀国の名張、阿保を経由し、六軒(松阪)で伊勢街道と合流するルート。
初瀬街道、伊勢北街道ともいいます。

◆伊勢南街道:
紀州藩が整備した和歌山街道をたどるルート。和歌山から、紀ノ川・吉野川沿いに、勢和国境の高見峠を越え、途中で松阪へ向かう和歌山街道を離れ、田丸で伊勢本街道に合流します。

※伊勢に至る道について、補足、感想、紀行、あるいは、現代の参宮ルートなど書き込んで下さいませ。

コメント(336)

(その8)
◆元三(もとさん)の旅籠
これが本当に旧街道なの?と言いたくなりそうな、か細い道をたどると、元三(もとさん)の集落に出ました。
「三本松」地区の小字のようですが、「ますや」「ぬしや」といった表札を掲げる昔の旅籠が立ち並んでいました。

「上ぬしや」さんは建て替えていますが、それでも表札や講札を掲げていらっしゃいます!

(その9)
◆三本松
このあたりの地名の由来となった「三本松」に立ち寄りました。
かつては根元から三又に分かれていて、天然記念物だったそうですが、枯死したため、植え替えたそうで、今は「一本松」でした(笑)

でも、見晴らしはとても良かったです。なかなかの銘木ですし、一見の価値はあると思います…。

ただ、この辺り、近鉄「三本松」駅から、10数kmほどあります。
(その10)
◆子安地蔵菩薩
夜間、近鉄の車窓から、照明看板が目に留まりますので、どんなお寺なのか気になっていました。
この安産寺は、「三本松」駅の近くにあります。

お寺ですが、公民館分館も兼ねていて、子安地蔵の拝観希望者は、自治会に連絡するよう表示されていました
(その11)
◆長瀬の鏝絵
三本松地区ですが、駅を過ぎて500mほど県境寄りにある長瀬は、旧街道の雰囲気を感じさせてくれるように思いました。

なかでも、食料品店の二階の壁には、見事な鏝絵(こてえ)が施されていました(【右端】の写真です。)。
桔梗紋と扇ですね。
(その12)
◆鹿高神社
県境は電車で越えましたが、鹿高(かたか)神社も、外してはならないポイントです。

初瀬街道は、壬申の乱の折り、吉野で挙兵した大海人王子が、近江京を目指して進軍した重要な経路でもあります。ご存じの方も多いと思います…。

隠(なばり、三重県名張市)に差し掛かったところ、大雨で増水した宇陀川を渡れなくなりました。
そこへ、何処からともなく、二頭の白鹿が現れて、皇子の渡河を助けたという「白鹿伝説」です。

皇子は、これに感謝し、大友皇子軍を平定後、この地に神社を建てたと言われているのです。

ですが、かなり県境寄りにあるため、往復に1時間ほど掛かってしまいました。(;^ω^)

最後の石段は、かなり急峻でした(写真【右】)。


(その13)
◆名張旧町へ
赤目口駅あたりから名張旧町へは、県道567号を歩きますが、途中に石標やお堂があるものの、旧街道の趣きは、ほとんど感じられません。

名張川に掛かる新町橋を渡ると、旧町です。

「隠(なばり)」は、『古事記』『万葉集』にも登場するので、古い地名のようです。
旧町は、大きな戦災は無かったのですが、本陣、脇本陣は見当たりませんし、昔の屋号を表示した旅籠も見当たらず、やや期待外れでした…。

町内に入ってすぐ、「旧細川邸 やなせ宿」がありました。
江戸末期、奈良県宇陀の薬商・細川家の支店として建てられたようです。
今は、名張市のまちなか再生プロジェクトに沿って、日替わりシェフによる昼食などの事業を行っているそうです。
やなせ宿といっても、宿泊施設ではなさそうです…。

(その14)
◆隠市守宮(なばりいちもりのみや)はどっち?
元伊勢に関わる書籍のなかで、倭姫命の巡幸先が最も多いのが『倭姫命世記』です。
この書に記された「伊賀国隠市守宮」というのが、はたして宇流冨志禰(うるふしね)神社か、それとも蛭子(えびす)神社なのか、定説がありません。

式内社である宇流冨志禰神社に軍配が上がりそうなものですが、確かなエビデンスは無く、蛭子神社は負けじとばかりに「隠市守宮」を名乗っています。

(写真)左:宇流冨志禰神社
    中:蛭子神社
    右:名張の、えべっさんは2月7日です。西宮や大阪の十日戎の約ひと月遅れですね。
(その15)
◆一の鳥居と街道名残の一本松
17世紀、伊予国今治から初代藤堂高吉(たかよし)が入封して、名張の街づくりに取り組み、宿場町として賑わったと言われています。
その名残でしょうか…、中町という処に宇流冨志禰神社の「一の鳥居」と一本松が残っています(写真【左】です。)。

写真【右】は、名張藤堂屋敷跡です。
初代藤堂高吉は、織田家重臣・丹羽長秀の実子でしたが、築城の名手・藤堂高虎の養子にされたのです。
ところが、高虎に男子が生まれると、手の平を返すように、高吉を邪魔者扱いし、挙句の果てに高吉が秀吉、家康から拝領した領地までも、我が物にしたのです。

やがて、高虎の実子が藩主となるや、高吉の地位を一家臣に引き下げ、名張の地に入封したのです。

高虎関連のお祭りが盛んな津の皆さんから異論が出そうですが、名張での高虎さんは、強欲、狡猾、阿漕といった悪いイメージが拭えません(笑)

(その16)
◆夏見廃寺跡
名張旧町をあとに旧街道を東へ進みましたが、街道の名残はあまり感じません。
途中で中断して、旧街道からは往復50分ほどですが、夏見廃寺跡を訪ねることにしました。

最初の斎王・大伯皇女ゆかりの初瀬街道歩きには欠かせないポイントかと思います。
ちと、街道から、離れすぎですが…(笑)

平安期に掛かれた『薬師寺縁起』によると…、大伯皇女が伊賀国名張郡夏身(夏見)に昌福寺を建立したと記されているのです。

ただし、反対説があります!
「薬師寺縁起」によると、寺が建立されたのは725年(神亀2年)ですが、この時すでに大伯内親王は亡くなっているのです(701年(大宝元年))!

また、生前に、あらかじめ誰かに建立を委ねるほどの政治力は、彼女には無いだろうと云うのです。

なぜなら、彼女は、25歳で帰京しましたが、これは実父・天武天皇崩御のみならず、同腹の実弟・大津皇子が謀反の疑いで賜死に処せられたことが、大きく影響したためと考えられているからです。

さて、廃寺跡の一角には小さな展示館があります。
館内では、金堂の一部復元した部分を展示していました。

金箔の塼仏(せんぶつ・仏像をレリーフした焼き物です。)をもとに、塼仏壁を復元したそうです。
(その17)
◆謎のアンダーパス???
名張旧町を離れて、しばらくすると、近鉄大阪線をくぐる立派なアンダーパスがありましたが、幅員というか車線が、田舎道と一致していません!

これは、一体、何のための構築物でしょう?

正解は…名松線との立体交差計画があった場所なのです。
名前どおり、松阪から名張まで鉄路建設が目論まれていたのですね。
現状は、ご存じのように伊勢奥津(いせおきつ)が終点です。名張へは、一日一便の三交バスしかありません…。
(その18)
◆消滅した初瀬街道!
旧街道とされる道を辿って行きましたが、ビジネスホテルの敷地に呑み込まれていました。

では、里道(公図の赤線)として通行可能な気もするのですが…、現状では、どう考えても無理があります。不法侵入で、一本取られてしまいます(笑)

では、その背後に、旧街道の続きがあるはずですが、これも、桔梗が丘の宅地開発によって、完全に消滅していました。

やむなく適当に桔梗が丘五番町の住宅街を抜けて、その向こうに連なる旧街道を目指しました。
(その19)
◆再び旧街道へ
桔梗が丘の末端部に「フラワーランド」という花卉・種苗店があります。
桔梗が丘を東西に貫く国道のすぐ近くです。

このお店の前から、再び、旧街道に入ります。電柱のそば、「南無阿弥陀仏」と刻まれた石標が目印です。

これまでとは打って変わって、素敵なウォーキング・コースが眼前にありました。
(その20)
◆観阿弥創座の地
猿楽師の観阿弥が、妻の出生地である名張市小波田(おばた)でに初めて猿楽座を建てたことから、「創座の地」として「観阿弥ふるさと公園」が作られていました。

坂道を登ると、能舞台がありました。

観阿弥は、息子の世阿弥とともに、能楽を大成したことで知られていますね…。
(その21)
◆新田の常夜燈
すでに4時を回りましたが、まだ名張市域から脱出できません(笑)
そこで、もう一つの併走する旧街道に入って、近鉄美旗駅にゴール・インすることにしました。

この旧街道には、如何にもそれらしい雰囲気が、色濃く残っていました。

                                      (終り)
>>[293] お疲れ様です(^^)
昨年、この鳥居がリニューアルされたところです。長い間、足場が組まれてました。きっと私の友人が足場を組んだと思いますが(笑)
>>[301]  国道165線際から、行なり石段がある、中々しんどいじんじゃですね。何度かお詣りしましたが、体力的にきつかったです(笑)
>>[303] 宇流冨志禰には奈良の鹿(青銅製)がお出迎えしてくれますね。夏には藪蚊の多いところです。宮司さんは気さくなお方で、その娘さんも同じくです。また蛭子神社はこじんまりしていて、何故か近代的に感じます(笑)
>>[311] いつも、ありがとうございます。

たしかに、篠畑神社の鳥居は、真新しいですね。
頼さんのお友達が工事に関わってゐたとは…つゆ知らずです(^^


昔からの鹿高神社の石段は、国道で分断されたそうでして、本来の参道へは、宇陀川沿いの旧道から入るようです。

[301]左の写真が、宇陀川に面した「一の鳥居」です。ただ、ここから上がると、横断歩道が無いので、ちょっと怖いです(^^

さりとて、県警交通部やドライバーからすると…、横断歩道は、少ないに越したことはないのでしょうね。


宇流冨志禰神社の鹿さん、やはり奈良と繋がりがあるのですね!
奈良・春日大社と同じように、ひょっとして神様の使いかなあ…とは思ったのですが…。
>>[313]
さすが、名張のことも、お詳しいですね(^^

たしかに、蛭子神社のほうは、境内が狭いですね。
石柱のほか、社殿にも「隠市守宮」と記されていました。
よほど自信がお有りなのか、それとも単純に早いもん勝ちなのか、よく分かりません(笑)
◆夜の伊勢本街道(伊勢奥津⇒外宮)
やや場違いかも知れませんが…(閉鎖も近いので泣き顔)8月に伊勢本街道を夜間行軍した時の模様を書かせてください。

伊勢奥津から外宮さんまで60kmほどですが、この時期、日中に歩くのは熱中症のリスクが高いので、夜間行軍に挑戦しました夜
なんと物好きな!と失笑を買いそうですが、各地で「100km歩け大会」が開催されていますので、完歩するには、真夏であっても、歩行訓練が必要と考えました。

行程は…
JR名松線・伊勢奥津駅 → 飼坂峠 → 上多気 → 櫃坂峠 → 柿野神社 → 大石宿 → 大石バスターミナル → 都留の渡し跡 → 伊勢自動車道アンダーパス → 相可(おうか)高校前
→ 池上(いけべ)→ 伏拝坂峠 → 棒原神社下 → 田丸神社 → 渡会橋 → 筋合橋(すじかいばし) → 外宮北参道入口 → JR・近鉄伊勢市駅
…でした。
◆夜の伊勢本街道(その2)
13時過ぎに松阪を出る伊勢奥津行で、久々に名松線の旅を楽しみました。
一輌だけの気動車で、のんびりと雲出(くもず)川を遡って14時33分到着。

集落を外れて山道を辿ると、国道368号を横切ります。目の前のトンネルをくぐりたい衝動に駆られますが、額に汗して飼坂峠を目指します。
◆夜の伊勢本街道(その3)
その昔、難所と言われた険しい山道をたどります。
山賊に斬り殺された旅人を慰めるために村人が建立したという「腰切地蔵」さまに、ご挨拶しました。
やっとの思いで飼坂峠に着くと、あずまやがあります。

江戸時代には茶店があって、「ちから餅」という小豆餅を賞味できたそうです。
◆夜の伊勢本街道(その4)
飼坂峠を下ると、多気(たげ)宿です。

黒猫ちゃんが、出迎えてくれました(=^・^=)

明るいうちに、もう一つの難所とされる櫃坂峠を下りたいので、先をいそぎます。
◆夜の伊勢本街道(その5)
津市(旧美杉村)と松阪市(旧飯南町)の行政界を過ぎると、櫃坂峠の急坂を下ります。

どうにか明るいうちに険しい道を脱出して、仁柿(にがき)の集落を進み、柿野神社を目指します。

柿野では、仁柿川(支流)と櫛田川(本流)が合流します。
◆夜の伊勢本街道(その6)
7時30分頃、柿野神社到着です。
すっかり陽が落ちましたが、神社の石段で軽食…松阪駅で仕入れた牛肉そぼろ煮の巻き寿司を、頬張りました。いやあ、美味かったこと…。

ここからは、櫛田川に沿って、国道166号(和歌山街道)を進みます。
やがて、大石(おいし)宿を通過し、三重交通・大石バスターミナルです。 
◆夜の伊勢本街道(その7)
大石の少し先、ファミマがあります!!!伊勢奥津から7時間も歩いて、やっと出会った貴重なコンビニです。
よく冷えたチューブ入りゼリー、アリナミンなどで、水分、糖質をチャージしました。
この先、コンビニと言えば…相可(おうか)のミニストップです。3時間近くかかります。

この先、松阪市茅原と言って、れっきとした松阪市ですが、薮の中から「ゲホッ、ゲホッ」と不気味な鳴き声が響いてきました。

眼を凝らすと、イノシシが子連れで、県道を歩いているではありませんか!!!

カメラを向けましたが、フラッシュを光らせると、興奮して、こちらへ突進しかねず…、イノシシどもは写っていません。

イノシシと、おさらばして、都留の渡し跡の鉄橋を渡りました。

◆夜の伊勢本街道(その8)
都留の渡し跡から1時間半で、伊勢自動車道アンダーパスを通過します。10時30分頃でした。

四疋田(しひきだ)の常夜燈を過ぎて、深夜12時、やっと相可(おうか)高校前に着きました。

まだ先は長いですが、相可宿に着くと、ホッとします。

夜間ですが、湿気がひどくて、体中、汗でネチャネチャです(;^_^A

正直、リタイアして、JR相可駅で始発を待とうか…と思ったりしました(笑)

でも、5時間もの間、ひたすら待ち続けるのも苦痛なので、ヨタヨタと歩くことにしました。

まずは、紀勢線の黒田山踏切を渡って、池上(いけべ)の集落を目指します。
◆夜の伊勢本街道(その9)
池上の集落に入ると、常夜燈がありますが、台は四角ですが、笠石は円形という珍しい形状です。

集落の末端、参宮線の池上踏切を渡ります。

ここから先、長い道のりで、所々、人家はあるのですが、真っ暗でヘッドランプが頼りです。
◆夜の伊勢本街道(その10)
真っ暗な農道を進むと、いつしか棒原神社(神宮百二十五社ですね。)の山すそに到着します。
「伊勢本街道(初瀬街道)」と記した茶色い道標が、目印になります。

ここからは、玉城町の住宅街を進み、田丸神社に到着します。時すでに深夜2時30分でした。

更に30分ほどで、狭田国生神社(同じく百二十五社です。)です。
◆夜の伊勢本街道(その11)
いつしか伊勢市域に入り、参宮線の上地踏切を渡りますが、まだまだ先は長く、4時過ぎ、ようやく渡会(わたらい)橋西詰に到着。

宮川を渡ってこそ、伊勢に着いた!という実感が湧いて来ます!

4時20分頃、筋合(すじかい)橋を通過。

あと一息で、外宮さんです(;^ω^)
◆夜の伊勢本街道(その12)
4時38分、待望の外宮北参道に到着しました!!!
我ながら、よく頑張ったと思います。道中、何回も、投げ出したくなったのですが…(笑)

予定では内宮まで行くつもりでしたが、とにかく体中、粘っこい脂汗がまとわりついて、もう勘弁してくれよ…というのが正直なところでした。

外宮は、まだ開門前でしたので、入り口で神々にお礼申し上げ、伊勢市駅へと向かう私でした。
(終り)
>>[327] お疲れ様です(^^)
 今回は60Km、驚かされる行程ですね。私には毎度の事ながら真似が出来ないことで、車でお詣りする私は頭が下がる思いです。
 9月に入っても高温多湿、熱中症になりやすい状況ですので、あまり無理をなさらぬよう頼みます。また新型コロナウイルスの影響で、今までのように軽く県外に出向けない状態ですので、こうしてレポートを見せて頂けるのは有り難いことですが。。感謝。
>>[328] いつも、いや、これまで有難うございました。

お蔭様で、百二十五社参りのほか、ひょんなことから参宮街道にも関心を持つようになり、さらに100kmウォークも視野に、歩けるようになりました…。

また、知識欲旺盛な頼さんから、大いに学ばせて頂きましたし、それが刺激になって、私自身も様々な気づきがあり、十分とは言えませんが、このコミュに反映させてきたつもりです。
頼さんのご厚情に厚くお礼申し上げます。

どうか、くれぐれもお体を大切になさって下さいませ。


>>[329] ほんまにお疲れ様でした(^^)

このコメントの投稿数字を見て頂ければ分るように「330」になりました。全てが「bigcatさん」の足跡であり、共に神宮へ旅をさせて頂けたという数字だと思ってます。このトピックは皆さんに楽しんでいただけるよう、半永久的に残りますよう頑張りたいと思います。
おおきに〜 m(_ _)m
◆驚くほど庶民に身近だった伊勢信仰!?

新刊の岩波新書を手に取ると、江戸期のまじない書の絵図が引用されていました!
「咒詛調法記(じゅそちょうほうき)」という版本ですが…、この人型の手に『伊勢』とあるのです!
驚きましたよ!

だって…、これ、実は…堕胎のまじないなのです。
堕胎される胎児に見立てた人型に『伊勢』と記せば、妊婦の心は、多少なりとも救済されたのでしょうか???

まじないの方法は、かなり具体的で「ほうづきの根を一束に切って、この符(人型)を中に入れ、綿糸をもって巻き、開(かい)の内へ入れて抜き差しすれば、必ず血に成りて下る也…」と…おぞましい内容です。

参宮街道を歩いていますと、かつての宿場を通過しますが、旅籠のほか、遊女屋もあったと聞きます。望まない妊娠に直面した遊女は、どのように対処していたのか、ふと、気になっていたので、早速、買い求めました。

ふらりと立ち寄った大和郡山の書店で、この本を見つけましたが…、
書名は「沢山美果子『性から読む江戸時代』 岩波新書 新赤版1844」です。

ほかに、52歳で妻を迎えた俳人の日記、夫婦間の「不義の子」紛争、難産に立ち会った医師の記録など、古文書を丹念に調査した成果が、盛りだくさんです。
>>[331] 気になる呪いですね(^^)

また人形に伊勢の文字、こういう歴史があったとは驚きです。
>>[332]
その後…、明治政府によって神格化が進展し、国家神道の中枢、中心となった伊勢神宮の姿からは、ちょっと信じられない絵図ですね…!?

戦後、国家神道の解体を目論んだGHQの意向で、数少ない官立の旧制大学であった「神宮皇学館大學」が廃校に追い込まれました。
伊勢神宮の神職も、官吏待遇ではなくなりました(かつて神宮祭主は親任官でした。)。

それでも、伊勢神宮には、国家神道の残滓が、色濃く残っています。

それだけに、本書を手に取ったときは、強い違和感を覚えましたね。
◆中山道の伊勢みち追分
その昔、出羽、越後の人々が、お伊勢参りをするには、善光寺街道で信濃に入り、中山道に合流するのが一般的なルートでした。

ただ、中山道は美濃に入ると、岐阜、関ケ原と進み、やがて近江に出てしまいます!
どこかで、尾張名古屋への脇道に入って、東海道に合流しないと、伊勢には行けません。

そのための「伊勢みち追分」を2か所、ご紹介します。

◆鏡岩の碑(岐阜市加納八幡町)
「東海道いせ路」と記された道標です。すぐ右が中山道、左が名古屋への街道です。
この道標を立てたのは、鏡岩という力士で、横には鏡岩の碑もあります。

また、名古屋へ向かう街道は「鮎鮨街道」とも呼ばれ、長良川の鮎で調理した「なれ鮨」を城軍家に献上するための主要路だったそうです。
(つづく)
◆延命地蔵堂(岐阜市領下)
読みにくいですが、「伊勢名古屋ちかみち」と記されています。お堂の右が中山道、左が名古屋への街道です。

名古屋から、あと少しで東海道最大級の宮宿(熱田宿)です。
宮宿から七里の渡しで桑名宿…、ついに伊勢國です!それでもお伊勢さんまで、まだ二十里以上もあります。
(終わり)

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