ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

ホーム > コミュニティ > 地域 > 伊勢神宮125社 > トピック一覧 > 伊勢への道

伊勢神宮125社コミュの伊勢への道

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

コミュ内全体

近代以前、各地から伊勢をめざす街道が数多く整備されましたが、主なルートは…
◆伊勢街道:
東海道の日永追分(四日市)から伊勢湾沿いに、津、松阪を経由して伊勢神宮に至るルート。
外宮からは間の山(あいのやま、古市)を通って内宮に至ります。当時、御木本道路はなかったのですね。

◆伊勢本街道:
大阪の玉造稲荷神社から暗峠(くらがりとうげ)を越え、奈良・猿沢池からは、丹波市(天理市)、三輪、初瀬、榛原を経由し、伊勢国に入って、美杉、多気、田丸を経て宮川の渡しに至るルート。
初瀬本街道、伊勢中街道とも言います。

◆伊勢表街道:
伊勢本街道の榛原から、伊賀国の名張、阿保を経由し、六軒(松阪)で伊勢街道と合流するルート。
初瀬街道、伊勢北街道ともいいます。

◆伊勢南街道:
紀州藩が整備した和歌山街道をたどるルート。和歌山から、紀ノ川・吉野川沿いに、勢和国境の高見峠を越え、途中で松阪へ向かう和歌山街道を離れ、田丸で伊勢本街道に合流します。

※伊勢に至る道について、補足、感想、紀行、あるいは、現代の参宮ルートなど書き込んで下さいませ。

コメント(260)

◆石標あれこれ
桑名市内には、「東海道」と記した石標が、要所にありますので、ほぼ迷うことはありません。
でも、右側の石標は、方向が真逆です。
「道」の字が、昔のくずし字なので、つい、撮りたくなりますが…。
>>[218]   いつも、ありがとうございます。
やはり、奈良県の皆さまは、きちんとした関西語ですね。

三重も、愛知、岐阜とは、木曽三川で分断されて来た歴史があってか、関西の言葉ですが、それでも「ささって(明明後日)」のような中部方言が、混ざっています。

最近は、名古屋の影響も強まって来たかも、です(笑)
四日市あたりは名古屋の通勤圏ですし、NEWSでも、河村市長が「どえりゃー」名古屋弁でインタビューする「もんだで」、名古屋弁に感化されましたよ(笑)
◆天武天皇社
天皇をご祭神とする珍しい神社が、桑名にありました。
壬申の乱の頃、大海人皇子(のちの天武天皇)が、吉野を出発して、今の三重県に入り、各地の郡司などに軍事協力を求めたそうです。
桑名は協力的だったのでしょうね。ですが、伊賀は反乱軍である大海人皇子に冷淡で、とりわけ名張では加勢を求めても、誰一人として応じなかったと言われています。
◆矢田立場
矢田(桑名市福江町)には、「立場」といって、茶店などが集まっている場所がありました。
江戸期の「名所図会」によると、火の見櫓があって、目印になっていたそうです。

宿場の入口なので、旅人を呼び止める者も多く、商機を窺っていたとか…。
◆「皇大神宮第一鳥居御下賜」の幟が…!

 東海道を南下していると、いきなり「皇大神宮第一鳥居御下賜」の幟が、目に入りました!
「城南神社」といって、倭姫命が巡幸の折、この地で休息したとの言い伝えがあるそうです。
◆朝日町の東芝
平成の大合併で、「村」が無くなった三重県ですが、ここ三重郡朝日町は、しっかり生き残っています。
やはり、東芝の事業所が有るため、財政力指数が高く、四日市市などと統合するメリットが希薄だったのでしょうね。

ただしかし、東芝は不正会計に続いて、米国原発の巨大損失で、経営が揺らいでいます。虎の子の東芝メモリ売却に、生き残りを賭けているようですね…。

日本の製造業よ!しっかりしろ!

東芝のそばに、近鉄名古屋線・伊勢朝日駅が、ありました。
◆朝日町の街道筋
朝日町に入ると、「一里塚跡」の石標がありましたが、その痕跡らしきものは皆無でした。やはり、道路の改修工事などで、よほどの歴史遺産でないかぎり、役割を終えた物は解体・撤去されるのでしょうね…。

江戸期から残るエノキがありました。朝日町の街道筋にも松並木があったそうですが、戦時中、松根油を取るために根っこを採掘したので、ほぼ壊滅状態になったそうです。

常夜燈がありました!やはり、これを見つけると、「参宮みち」を歩いているんだなと、実感できて、嬉しくなります。
◆富田地区
四日市市富田(とみだ)地区は、東海道五十三次の桑名宿と四日市宿の途中にある「間の宿」として、賑わったそうです。

現在は、JR関西本線、近鉄名古屋線、三岐鉄道の線路が、複雑に絡まっていて、ウォーカーにとっては錯覚し易い場所かも知れません。

写真(左)まずは関西本線の踏切を渡ってすぐ、三岐鉄道のガードをくぐります。

(中)JRと言えば、紀勢線か参宮線ですから、なんと…複線で、しかも架線までありますと、一瞬ですが、どこの鉄道なのか、分からなくなります(笑)

(下)手前青色のガードが三岐鉄道、灰色が近鉄名古屋線です。さっき三岐鉄道をくぐったばかりなのに、もう一度となると…頭の中の磁針が激しく空回りしそうです(-_-;)

三岐鉄道は、藤原岳など鈴鹿山脈への登山に重宝しましたが、もともとはセメント運搬のために敷設されたそうです。
  
余談ですが・・
天武天皇社が紹介されてましたので、明日香にある天武・持統天皇陵(檜隅大内陵)です。この陵は天武天皇とその皇后で皇位を継承した持統天皇の合葬墳墓で、直径50m、高さ6.36m。 円墳とも八角墳ともとれます。この古墳の石室は八角形で、金銅製の蔵骨器がのっている。天武天皇は古代律令国家体制の基礎を築き、持統天皇がその志を継ぎました。また持統天皇は天皇として初めて火葬された人物としても知られます。鎌倉時代に盗堀された時の記録が残されていたことから、被葬者が確実となりました。陵としては珍しい天武・持統天皇が眠る夫婦墓です。
>>[229]

持統天皇については、こちらこそ、勉強になりました。

数少ない女性天皇で、和歌が百人一首でも歌われているといった教科書レベルの知識しかなかったのですが、以前にも、頼さんのコメントで、夫の天武天皇とは近親婚(あくまでも現代人の感覚です。民法734条では禁止されていますね(笑))だったことを知りましたよ。

ツタンカーメンの妻は、実の妹だったそうですから、それに比べれば、少しは離れていますけど…。
◆力石
富田(とみだ)から20分ほど歩くと、傍らに「力石」が置いてありました。
昔の若者が、これで力比べをしたという話しは、各地に伝わっているようですが、ここの力石は大小、二通りが用意されています。120kg(32貫)と19kgです。

小さいのは「子供」用らしく、両手でスッと持ち上がりますが、大きいのはビクともしません(笑)

それにしても、旅人には役立ちそうにもない物が、なぜ、街道筋に於いてあるのでしょうか。
力自慢の村だぞとアピールしたかったのでしょうか。
◆不思議な石標
更に道なりに進むと、「左 四日市、右 いかるが」と記した不思議な石標を発見しました。

「いかるが」と聞くと、法隆寺で知られる奈良県の斑鳩町しか、思い浮かびません。
県内で「いかるが」なんて、聞いたことがないですね…(私が不勉強なのかも(^_^;))。

調べてみましたら、四日市市に統合された町村に、鵤(いかるが)村というのがあったそうです。新しい住居表示には見当たりませんが、はるか昔、法隆寺の寺領があったそうです。
◆かわらずの松
まだ四日市市の都心には、ほど遠い羽津という所ですが、嬉しいことに江戸期からの松が一本だけ残っていました。
樹齢二百年ほどですが、他の松はマツクイ虫の被害のために枯死したそうです。
このあたり、昔は川原津と呼ばれていたので、「かわらずの松」と名付けたとか…。
◆四日市宿
四日市市の北町に差し掛かると、銘菓「なが餅」笹井屋さんの本店があります。

この辺りが、東海道五十三次の四十三番目の宿場・四日市宿なのですが、戦災のため、本陣や脇本陣は残っておらず、ちょっと味気ないです。

僅かに、文化七年(1810年)の道しるべ「すぐ江戸道」が、往時を偲ぶ縁(よすが)になっているようです。
◆東海道が商店街に
いよいよ四日市市の都心に入り、諏訪神社に一礼して、先へ進むと、東海道はアーケードの商店街になっていました。
幟の坊やは、ゆるキャラ「こにゅうどうくん」です。この子の舌に触れると、願い事が叶うとか…。

この近所に「岡田屋」創業の地がある筈ですが、先を急ぎます(笑)
岡田屋が、ジャスコ、そしてイオンへと発展していきます。
◆窮屈な日永への旧街道
四日市市の都心を離れて、ほぼ四日市あすなろう鉄道と並行し、日永の追分めざしてフィニッシュですが、この辺りの旧街道は幅員が狭く、無理やり、片側一車線のような形でクルマがすれ違いますと、ウォーカーとしては快適ではありません…。

側溝がすべて暗渠ですから、暗渠蓋を歩行すれば、危険はありませんけれど…。

ですが…、この街道筋にも名残りの一本松が、ありました!江戸期から、ずっと旅人を見守ってくれたのかと思いますと、この松が、いとおしくなってきました…。
◆日永の追分
ついに、日永の追分に到着しました。桑名駅から25kmほどです。
やはり、ここの湧き水は人気があるようで、ポリタンク持参の方々を何組か、見かけました。

さて、ここから、伊勢参宮街道が分岐します。
以前、ここから内宮さんまで、3回に分けて歩いてみて、投稿もさせていただきました。
よろしければ、ご参照ください。

直ぐ近くの「追分」駅から、小型電車に揺られ20分ほどで、近鉄四日市です。
◆安永餅
桑名銘菓と言えば「安永餅(やすながもち)」でしょうか。

四日市の「なが餅」と似てまして、長〜いお餅に、粒あんです。
あっさりしていて、とても食べやすい美味しい餅菓子でした。
>>[239] 食べやすく、ついつい食べ過ぎる餅ですね。友人から良く戴く餅でもあります(^^)
>>[240] よくご存じですね。
これからも三重の産品を、ご愛顧くださいませ…(人''▽`)☆

慶祝 新天皇陛下ご即位exclamation ×2 ですが…、
このまま、女性皇族の即位も認めず、旧皇族の復帰も不可とすれば、いずれ皇位継承者不在にならないのか、不安を禁じえません。

頼さんが、以前に、持統天皇の話題を提供された頃は…、皇室典範さえ改正すれば、女性皇族も即位可能なのに…と思っていました(笑)

ですが…、過去の女性天皇は、すべて未婚か寡婦だったのですね!
この妙な伝統がネックになっているようです…。
>>[241] お疲れ様です(^^)

将来的に皇室の安泰は中々難しくなりそうです。側室の制度を避けられてる限りプレッシャーとなって、より一層危ぶまれそうですね。また、皆さんで論議されることで良い方向に進められることを願ってます。今日は令和元年の挨拶に初代天皇が眠られる神武天皇陵へ挨拶に出向きました(笑)
>>[242]
そうですね。皇位継承の先行きも不安ですが、このところ日本の存在感も薄れてきたような気がします。

外為、株式、商品などの取引額で、東京は、香港やシンガポールに追い越され、アジアのなかでさえ、ローカルな市場になりつつあります。

ご即位、改元を機に、活況を少しでも取り戻してほしいと願っています。

さすが、「磐余」の里の頼さんですね…。
神武天皇は「磐余彦尊」ですから、磐余の里と何か深い繋がりがありそうです。

私は、宇治山田の方角に向かって、神々に、令和の世の弥栄を、お願いしました。
◆斎王群行の道
2日、ほんの一部ですが「斎王群行の道」を歩いてみました。
斎王に選ばれた未婚の内親王(または女王)は、三年間も斎戒(ものいみ)してから、伊勢へ群行されたそうです。

平安期は、都を出て、勢多、甲賀、垂水、鈴鹿、壱志の五か所の「頓宮(仮の宿所)」に泊まり、水辺で禊をされながら、計六日で斎宮に入ったと言われています。

しかし、垂水頓宮(滋賀県甲賀市土山町)を除いて、頓宮(とんぐう)の場所や、具体的な「群行」道も、つまびらかになっていません。

そこで、垂水頓宮跡を起点に、鈴鹿峠を越え、関(三重県亀山市関町)まで、群行道らしきルートをたどってみました(^^

行程は…
JR草津線・貴生川 →バス→ あいくるバス・白川橋 → 垂水頓宮跡 → 甲可日雲宮 → 土山宿(五十三次の49番)→ 田村神社 → 鈴鹿峠 → 片山神社 → 坂下宿(48番)→ 関宿(47番)→ JR関西本線・関
…でした。
【写真】左:国道1号沿いに「史跡 垂水頓宮跡」の石柱がありました。
中:鈴鹿峠。手前が滋賀県、奥は三重県ですが、急峻な山道を下ります。
下:関宿。銘菓「関の戸」で知られる深川屋(ふかわや)さんです。
◆垂水頓宮跡
9世紀、鈴鹿峠を越える新道が開かれたとき、新たに置かれた頓宮で、所在地が判明している唯一の頓宮跡です。
周囲は茶畑ですか、鎮守の森のような雰囲気があり、昭和19年には国の史跡に指定されています。

森の中は広々としていて、若宮神社(滝原宮の所管社です)の社殿を移築した遥拝所が、ありました。
◆甲可日雲宮(こうかひくものみや)
頓宮跡の近くに、倭姫命が巡幸した「甲可日雲宮」の石標が、ありました。
ほかにも、候補地があったのですが、甲可日雲宮にも群行随行者の宿所があったという伝承に基づいて、昭和56年、この地に土山町教育委員会(※)が石標を立てたそうです。

奥には、日雲神社が鎮まっていました。

※平成16年、土山町は他の町と統合して、甲賀市になりました。
◆田村神社
土山宿の一角に、大きな神社が鎮まっていました。

その昔、鈴鹿峠は、山賊が出没して、伊勢神宮に向かう勅使も襲われたそうです。

そこで、征夷大将軍の坂上田村麻呂をお祀りして、旅人は無事に難所を越えられるよう祈願するようになったそうです。
現在でも厄除けの神様として信仰されているとか…。

石柱の「田村神社」は、東郷平八郎が揮毫したそうです。
◆鈴鹿峠
新道が開かれ、初めて鈴鹿峠を群行されたのは、光孝天皇の御代、繁子内親王だそうです。
国道は少しずつ上り坂になりますが、途中から茶畑の中の遊歩道を進むと、あっけなく峠に着きました。

ですが、三重県側は急勾配で、遊歩道は、国道の下をくぐったりします(笑)
◆坂下宿
峠から40分ほどで坂下宿です。
本陣跡の石標がありましたが、あまり宿場らしい雰囲気はありません。

ですが、このV字谷のような地形からすると、斎王も、「近世東海道」を群行されたように思います。
狭い場所ですから、他に選択の余地はなさそうです。

もし、近世東海道とズレているとすれば、より河床に近い所を群行され、禊をされたのではないでしょうか。

◆赤坂頓宮
関の小学校、幼稚園の裏山に、赤坂頓宮跡がありました。
藤原広嗣が乱を起こした折、聖武天皇が難を避けた頓宮と伝えられています。

その後、斎王群行の「鈴鹿頓宮」として使われたとする有力説があるそうです。
◆関宿 東の追分
関宿の東の入口は、東海道と伊勢別街道の分岐点です。
大鳥居が「伊勢別街道」の起点で、津・江戸橋で「伊勢街道」に合流します。

大鳥居は、宇治橋の東側(ご神域側)の鳥居が下賜されたものです。
桑名・七里の渡の大鳥居とは兄弟ですね(^^
◆関宿
坂下宿から70分ほどで、関宿の西の追分に到着します。
国の重要建造物保存地区に指定されているだけあって、見ごたえがありました。

牛馬を繋ぐ環金具も、残されていました。

◆JR草津線の忍者列車
関西本線・柘植〈つげ〉(三重県伊賀市)で、草津線に乗り換えましたら、なんと忍者列車でした!

三重県内の伊賀鉄道(かつての近鉄伊賀線です)は、松本零士さんデザインの忍者列車で有名ですが、草津線の忍者列車には、初めてお目にかかりました。

写真の「左」「中」は草津線、「右」は伊賀鉄道です。
>>[258] お疲れ様です(^^)

私も仕事柄、奈良県と三重の上野や名張が管轄となってますので、伊賀鉄道の忍者列車を見る機会があります。確か三種類の色違い忍者列車がだったと思いますが(笑)
>>[259]  いつもありがとうございます。
伊賀鉄の忍者列車、たしかにピンクやブルーの車両も、走っていますね(^^

久し振りの伊賀鉄でしたが…、なんと車内アナウンスが、日・英・中・韓の4か国語でしたね〜♬♪

(近鉄大阪線でさえ、始発駅こそ4か国語ですが、あとは2か国語だっていうのに…。)

そしたら、なんと上野市で、中国人のカップルが乗り込んで来たので、二度ビックリしましたよ(笑)

ログインすると、残り225件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

伊勢神宮125社 更新情報

伊勢神宮125社のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。