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ニール・ドナルド・ウォルシュコミュのご意見お願いします

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すいません、否定から入ります

題名からして硬い本かとおもってましたが、よんだら本当、神様と話しちゃってて、賛否両論があるはずだと思いました

この本で筆者と対話している神が本当に神なのか、はたまた作り物なのか?その一点が問われるのではないでしょうか?

イントロから、”この本が作り物だと疑う人達もいるだろう”などと書いてあり、先に伏線をはって 否定することを愚かなこと、神との対話は本当に起こった事である と読者を導いているように感じてしまいました


もし本当に神との対話が起こったなら、すべてをも超越している神はすべてのことが可能でしょう

シェークスピアや歴史に名を残す作家達よりもすばらしい詩文をかく、まだ発見されていない数式などを使ってこの世の心理を明かす、遠い過去のもう誰も分からなくなった歴史的謎を明かす。など

しかしそれらはなく、この対話の中で語られる神の引用は やっぱり作者の知識のからの引用としか考えられません。

宗教を勉強した作者の知識の結集、または催眠状態での人格分離のようなものかなと考えてしまいます。

クリスチャンの作者が書いた、クリスチャン的な感情も感じられるとも思いました。

こんな事言ったら沢山のこの対話をすばらしいと思っている方達のヒンシュクをかうかもしれません。

この対話によると、この神との対話は運命ずけられていた。読者とこの本の出会いにもそれはあてはまるとなります。

しかし、疑ってしまって信じられない自分がここにいます。


対話が本当に起こったかどうかに関係なく、僕はこの本に書かれている内容は好きです。しかし、言葉遊びのように感じる部分もあります。

過去に、特定の宗教の手引書、バイブルなどを読んだこともあって、さらに悪く考えると もしかしたらいろいろ宗教哲学をまねて、誰でもこの本と運命的な出会いがあるといって窓口を広げて、ビジネスライクにこの本を沢山売ろうとしているのではないかとも考えてしまいます

僕もこのニール・ドナルド・ウォルシュさんの本はすばらしい内容があるとおもっています。

コミュニティーにきて否定的な事を書くなんて場違いかもしれませんが、どうしても意見を聞きたくてかきました。

それは自分の中で、いったいこの対話は真実なのか?とこの本をほうっておくことができないからです。



僕の見解に対して、「バカやろう」でも「それは違う」でもなんでも結構です。なにか意見をいただけたらうれしいです!! お願いします

コメント(48)

みなさん、本当にたくさんのご意見ありがとうございます。

対話が神かどうか証明するすべはなく、自分に良いものだと感じるものを受け入れればよい。というご意見には本当に共感します。実際に僕も目から鱗の落ちるような感動を何回もこの本を読んでしました。

僕は特定の宗教には属しませんが、生きる目的や方向、真実を知りたいと思います。それは自分が若いながらもこれからどのように生きていけばよいのか、自分自身最善を尽くしたいという願望があるためだと思います。皆さんのご指摘のとおり、対話が真実であると証明することは不可能、または無意味であるということに同感です。

しかし、それでもさらに考えてしまうのは 神という存在(または概念)は長い間、本当に長い間、人々に対して沈黙してきたということです。または個人個人それぞれが感情や経験などを通して答えをえたのかもしれないですが・・・

本当に沢山の人達が人生に答えをもとめて、神に呼びかけてきたのではないでしょうか

こんなにすばらしいご意見をいただいてさらに猜疑的な態度をとることはかなり失礼かもしれませんが、キリスト教をふくむ多くの宗教も、キリストの行った奇跡、復活など、一番最初に人智を超えた奇跡のようなものが起こり、そのご長い沈黙がつづくわけですよね。そしてそれでもそれを受け入れて人々は信仰をもって生きてきた

僕自身、無宗教ですが生きる道標をもとめて良いものを取り入れて生きたいです。

すばらしい本や言葉、またはご指摘のあったように偉大な自然にふれても、結局自分自身に奇跡が起こらなければそれを信じることができないなんてドライで虚無で盲目かもしれません。

自分なりの理論理屈で考えることが今まで僕ができた最大の世界にたいする理解でした。自分の感情、感覚で正しいと判断することは、そのときそのときの精神状態に左右されてしまうと考えてきました。今もその考えは捨て切れません。

そして、この神との対話は僕の考えられる範囲を超えていて、ありえない と疑ってしまったのは事実です。それが善い物悪い物に関係なく、自分なりに疑いを持って真実を求めてしまいます

ですが自分よりはるかに巨大で理解を超えるものは存在すると僕自身も思っています。

ぜひこの対話も自分へのプラスとしていきたいです。

みなさんに本当に感謝です。
>すばらしい本や言葉、またはご指摘のあったように偉大な自然にふれても、結局自分自身に奇跡が起こらなければそれを信じることができないなんてドライで虚無で盲目かもしれません。

私自身は、
いわゆる「超常現象」という意味での「奇跡」は経験ないですが、
どう考えても「奇跡」としか考えられないようなことが、
身の回りで起きた経験はあります。
って言うか、今も起きてます。

皆さんもちょっと見方を変えれば、
実は「奇跡」としか言えないようなことが
起きた経験があるんではないですかね?

>自分なりの理論理屈で考えることが今まで僕ができた最大の世界にたいする理解でした。自分の感情、感覚で正しいと判断することは、そのときそのときの精神状態に左右されてしまうと考えてきました。今もその考えは捨て切れません。

全然それで構わないのであって、
なぜ捨てるとかって話になるのか?
が理解できないです。

>そして、この神との対話は僕の考えられる範囲を超えていて、ありえない と疑ってしまったのは事実です。それが善い物悪い物に関係なく、自分なりに疑いを持って真実を求めてしまいます

真実というのは自分の外には無いんです。
自分の内側にあるものです。
それだけ理解していればいいと思います。
>この本で筆者と対話している神が本当に神なのか、はたまた作り物なのか?その一点が問われるのではないでしょうか?

はっきり言って証明は不可能だと思います。神曰くニール氏の経験と意識を通して対話していると言っていますので…。先にもあった数式等で分かる証明をするのも不可能と。。ダイチさんから見れば、先に伏線をはってるとしか思えないでしょうが。

正直形而上学的な事に対しては「どちらとも言えない」と言うスタンスしか取れないと思います。信じるか信じないかは自分で決めれば良いのでは?

>ビジネスライクにこの本を沢山売ろうとしているのではないかとも考えてしまいます。

とありましたが、出版社を通して本を売るにあたって確実にそういう戦略はあったと思います。ニール氏の神から言えば、「たくさんの人に読ます為に私がそうさせた。」と言うかも知れません(^^;

神は沈黙していたとありましたが、本の中でもニール氏自身対話が途切れてしまい神に問うていました。
「何故話しかけてくれないのですか?」と
「実は神はいつも語りかけているのだがアナタがたが聞こうとしない(聞く準備が出来ていない)だけだ。」
と言うような内容がありました。

どちらにしろ、証明は不可能だと思います。神の存在については「どちらとも言えない」と言うスタンスで良いのでは?
私は信じますけどね(ちなみに僕も無宗教です)。
3冊とも読みましたがかなり良い内容の本でしたよ。それでいいじゃない。
>マシュマロさん その他皆さんへ

暖かいご意見ありがとうございます。正直非難の的になるのを覚悟していたので、マシュマロさんや他の方の暖かさに僕も感動しました^^

河合隼雄さんという方、名前は本とか見たことあります。おもしろそうなかたですね

このコミュニティーでみなさんに真剣に意見してもらえてうれしいです。

これからも神との対話をよんでよく分かるところ分からないところを含めて、自身が向上できたらいいなって思いました

マシュマロさんやみなさんの真剣な意見や感想を聞いて、これがあの神様がいってた愛なのかな なんて思いましたw

僕がこの本で好きなところは、”より多くの栄光を経験するのが人の目的”というところです ホント実際によいことを行動して経験していけたらいいなぁって思います


変な形から入りましたが、いろいろ意見もらえてうれしかったです。

それではこんなヤツですがこれからもよろしくお願いします^^
ダイチさん、

Michiさんが書かれていることが的を得ていると思います。

>「神」という言葉にはいろんなイメージ(悪いものも)が
>ついてしまって、各自がいろんな色眼鏡で見てしまうため、
>ニールさんの伝えたいとおりには伝わらないでしょう。
>でも、それもまた良いのではないでしょうか。

>私は、神は存在する、私の中に、あなたの中に、全ての中
>に。そう思います。

この辺りにつして、最もわかりやすいのは、Mixiのコミュもありますが、故・津留晃一さんの著作や講演集・講演録です。

私の知り合いで、丁度「神との対話」が出版された頃に、神との対話が始まった人がおりました。彼はその全てをパソコンで記録し、あるメルマガに投稿していました。

また、建築家の足立育郎さんは、質問を投げかけるとある日突然、勝手に手が動き、筆記する、ということです。

だから、ニールが神と対話したというならそれは実際にあったことだろうと思います。但し、それは従来の宗教で語られている神ではなく、Michiさんが書かれているように、自分の内に存在しているものだと思います。

それから、私の知り合いで、いわゆる超能力のある女性がおりますが、最初は、自分の過去世の映像をずっと見せられ、ビッグバンの前まで遡ったということです。その後、ヨーロッパに行った時に、女神やキリストに会ったとのことです。女神はキリストにこの世を託したけれど、期待したようにはなっていないので、がっかりし、キリストもしょんぼりうなだれていたおということです。現在は、手で触れることにより、病気のヒーリングができるようになっており、それが何と、アメリカで特許が下りて、次なるステップへと、進めている段階です。こうした超常現象を特許で保護してしまうアメリカという国の抜かりの無さにはびっくりしますね。

まだまだ科学では理解されていないことの方がたくさんあるのだろうと思います。
ダイチさん、すばらしい問いかけに感謝します。

はじめまして、HT(Humanity's Team)町田の秦と言います。
私も、真摯な質問にもっともだと思いました。

この質問に、私が感じたのは、「この本は、信じなくていいんだよ。」「ただ、他に良い方法があるかい?」「自分が良いと思ったところを実践してみなさい。」というようにあったと思います。

これまで、みなさんがおしゃっていることと同じですが、自分の素直な心で感じたことを大切にするのが良いと思います。

宣伝ですが、HT(Humanity's Team)というものをご存知でしょうか。

http://humanitysteamjapan.com/events_b.html

私は、HTで町田を主催しているものです。
これは、2004年6月(日本)から活動をはじめたのですが、ニールの呼掛けで、世界中で活動がはじめられました。

「新しい啓示」がわかりやすいのですが、これからの世界を光のあるものにする為にどのように活動していけば良いのか、実践としてそれに関わることを決めた人々の草の根運動です。
(サンマーク出版より、もう直ぐに「明日の神」と言う本が出版されます。これは、HTのことが中心に書いてあります。)

この「草の根運動」が、大切なところで、一切会費がありません。なぜなら、会費とか会員制になると、組織になるからです。(これぐらいにします、説明する為に書いているわけではないので・・・。)

一度、気が向いたら、上記のホームページを見て頂けるとうれしいです。

もし、関東圏にお住まいなら、下記で1/18(水)におこないますので、多くの仲間がいますので、覗いてみてくれるとうれしいです。ご参考までに。

http://blog.goo.ne.jp/ghotd/e/ad8c52cd02af9813ad0fc9540255a619
ダイチさん

はじめまして。
私はまだ二冊目の途中です。

もし仮に、すべてフィクションだとしても、
これを小説として読んでも、大変すばらしい
小説だと思います。

しかし、本当のことだったら、もっと
すばらしいと思います。

今まで、自分に対していかに多くの
ものが与えられてきたかを
考えるきっかけにもなりました。
本当かどうかの問いに関しては
確か3巻目に書いてありますよ。

是非読んでみてください。



まぁ、自分の感じた事が一番の真実ですよね。
この宇宙の中でどこを基準にして判断をするかも難しいと思うので、
それでいいんですよ、私は。
>ダイチさんへ
真実を求める情熱の強さにとても共感しました。私なりに見つけた答えを書かせていただきます。

私も昔は完全な無神論者で理論のみを信じる人間でした。それは、神がいないことを証明できる(と思っていた)一つの真実があるからです。

「世界には想像を絶する苦しみや困難が沢山あり、それらは救われずにそのままにされている。」ということです。

戦争、飢餓、貧困、、、いくらでも見つけ出すことが出来ると思います。このひどい状態を放置しているわけだから、神がいるはずがない。万能の神がいるなら、世界の苦しみを一瞬で消し去ればいいじゃないか、と考えていたわけです。
人間とは偶然生まれてしまって、世界という恐ろしく複雑かつ不安定な世界で、翻弄されながら生きていく悲しい存在、という見方です。

間違っていました。
私は上記の内容が真実でないことを見つけ、本当に救われました。より真実に近いと思われる見方は以下の通りです。

人は幸福になるために生きています。仕事をするのも、勉強をするもの、人を助けるのも、人を裏切るもの全て幸福になると考え選択し、行動しています。幸福は全ての目的の最終形(階層構造の一番の根本)ということができると思います。(何を幸福と感じるかは、その人の世界観に大きく左右されますが、この部分は長くなるので省きます)

その幸福を作り出すにはどうすればよいか。考え続けてたどり着いた答えは驚愕でした。幸福を支えているのが実は 困 難 だったのです。言い方を変えれば、困難無くして幸福は作れないのです。

これは精神の話なので証明はできません。でも、自分がどう感じるか実験はできます。自分が幸福を感じる手軽なものを、大量に味わってみてください。ケーキを食べることが好きなら、死ぬほど食べてください。寝ることが幸福なら、死ぬほど寝てください。そうすると分かるのですが、幸福感はいずれ苦痛になります。いろんなことで実験してみてください。私はこの見解がおかしいというものは、一つも見つけられませんでした。
ということは、もし困難がこの世界から一瞬で無くなってしまえば、同時に幸福も無くなるのです。この世界が困難であふれているということは、幸福の種が無限にあるということです。

神の存在は、直接的には私はまだ知りません。でも、世界が今の状態であることが、「適切」だと感じます。そのような世界を造りかえることこそが、人生の意味=幸福だと考えられるからです。(どのように困難に接すればよいかは大切な部分ですが、これも長くなるので省きます)

同じように、いろんな分野で幸福を追求してみてください。この本に書かれていることのほとんどが機能することが分かると思います。より多くの条件で機能する見方(世界観)が真実に近い、と考えるならば証明は必要ありません(元々できませんし)。

この本にも散々書かれていましたが、生きていく上で重要な知識は一つだけのような気もします。それは、 観察と改良 です。知識を鵜呑みにしないで試してみれば、証明しようとするより遥かに得るものがあると思います。

長々と失礼いたしました。何かの参考になればよいのですが。
神様は、私たちに創造する自由を与えてくれていると思います。

そして、愛と忍耐で私たちのそばにいつもいて見守ってくれている。

ただそのことに気付いて、助けを求めればいいだけだと、私は思います。
>その幸福を作り出すにはどうすればよいか。考え続けてたどり着いた答えは驚愕でした。幸福を支えているのが実は 困 難 だったのです。言い方を変えれば、困難無くして幸福は作れないのです。

少しばかりずれているような気がします。

>ということは、もし困難がこの世界から一瞬で無くなってしまえば、同時に幸福も無くなるのです。この世界が困難であふれているということは、幸福の種が無限にあるということです。

幸福であることを体験するには幸福でないものがなければならないという意味では、
ご意見はごもっともだと思います。
「この世界」が地球だけなのか?宇宙も含むのか?
がわかりませんが、
地球という意味でおっしゃってるのなら、
おっしゃるところの「困難」はなくても
私たちは幸福を感じることができるはずです。
>殿下さん
言葉はかなり間接的にしかお伝えできないので、私が言っている困難と殿下さんが言っている困難は違うかもしれません。
ここで困難は、幸福でないもの(幸福の対極)という意味で使いました。おなかが減っているなどの小さいものから、死にそうな思いなどの大きなものまで、同じカテゴリーで話しています。

困難無くしての幸福は、完全に深い世界(さとり?一般的な幸福と困難が統合された状態?)までいけば存在そのもだけで幸福だと思います。

でも私も含め、真実を求めている多くの人たちはその状態ではないと考えているので、困難をただ嫌なもの、切り離せばいいもの、価値など何もなく無くなればいいもの、という扱いになっているだろうなと思い書きました。

神の存在が気になると言うことは、この世界に不満がある、天を信頼できていない、ということだと思います(地球の責任者出てこ〜い!という状態ですね)。それは私の場合、困難の位置づけが不適当なため起こりました。

困難が必要なもので、ドラマの悪役のように人生劇場を盛り上げてくれている(幸福を支えている)と考えられるようになったとき、私は天を信じることができるようになりました。この世界に不必要なものなど無いという視点です。

ダイチさんが、理論にとらわれ天を信じられなく苦しんでいた昔の自分に重なったので、繊細は分野を強引に言葉にして書いてしまいました。お気を悪くしたのなら申し訳ありません。私の文才のなさのため、確かに不適切な表現が含まれていると思います。
すみません。今、自分の21の書き込みを良く見直したのですが、幸福とははかないもので、困難こそがこの世界の基本だ、のようにとれますね。

私が言いたいのは全く逆です。この本にも確か書いてあったと思いますが、私たちは幸福そのもので、そこから勝手に離れて苦しんでいるのが今の人類なのだと考えています。

それを本来の状態に戻すための一つの方法として、困難の捉え直しを提案させていただきました。本当に文才が無くて申し訳ありません。
>困難無くしての幸福は、完全に深い世界(さとり?一般的な幸福と困難が統合された状態?)までいけば存在そのもだけで幸福だと思います。

幸福と困難が統合された状態ってなんでしょうか?
っていうか、私が思うに、
気がつけば、幸福なことしかないんです。
maroさんは幸福と困難をしっかり二つに分けてますけど、
分けなくていいんじゃないでしょうか?
全ては完璧で幸福なんだと考えられませんか?

「あなたは全てを経験させてもらえる。(中略)
それ以上何がある?」
って言葉、覚えてますか?

>困難が必要なもので、ドラマの悪役のように人生劇場を盛り上げてくれている(幸福を支えている)と考えられるようになったとき、私は天を信じることができるようになりました。この世界に不必要なものなど無いという視点です。

私にとっては、
困難は必要なものじゃなくって、
あっても構わないものって感じです。
無いに越したことはないです(笑

世界に不必要なものはないという視点は同じですね。

不必要なものがないということは、言い換えれば、
私たちが今存在しているということは、
すなわち全宇宙の同意の元に存在しているということが言えます。
生きる意味とか考える前に、
私たちの存在は全宇宙に認められているんだってことです。
>幸福と困難が統合された状態ってなんでしょうか?
簡単に言うのは難しいですが、世界を対極の循環と捉え、その循環がスムーズにいっている状態です。対極のものを一つのシステムとして扱える地平からの視点です。ようはこの世界は完全に一つだと、頭だけではなく感情も同意した状態です。

>っていうか、私が思うに、
>気がつけば、幸福なことしかないんです。
それでいいと思います。

>maroさんは幸福と困難をしっかり二つに分けてますけど、
>分けなくていいんじゃないでしょうか?
私はまだ、辛いときがあります。生きることの全てを幸福と捉えられるほど感情が純化されていません。昔より大分早く幸福に戻ってこられるようになりましたが、何十年かけてしみこんだ感覚はそう簡単には抜けません。多くの方がそうだと思います。そのような状態を抜け出すために、二つに分けて見ていくのが有効だと考えています。

>全ては完璧で幸福なんだと考えられませんか?
知識上ではそうです。感情はまだ完全には同意していません。知識で感情をしたがわすことは難しいと考えます。

>私にとっては、
>困難は必要なものじゃなくって、
>あっても構わないものって感じです。
すばらしい感覚だと思います。

>無いに越したことはないです(笑
たぶん冗談でかかれているのだと思いますが、細かく言えばここを私は問題視します。困難は無くなればいいと考えている以上、世界は完璧であることが出来ません。人間はどんな幸福にもなれてしまうので、困難から逃れる術がありません。よって、困難を受け入れられないと、困難と幸福は分かれたままです。世界は、有りもしない地獄と偽物の天国に分かれたままです。

>世界に不必要なものはないという視点は同じですね。
共通の見解がもてて嬉しく思います。

>不必要なものがないということは、言い換えれば、
>私たちが今存在しているということは、
>すなわち全宇宙の同意の元に存在しているということが言えます。
>生きる意味とか考える前に、
>私たちの存在は全宇宙に認められているんだってことです。
この考え方は安らぎを得られるのですばらしい視点だと思います。
でも私は、自分で認識できないものを想定してしまうと、多くの人に言葉が届かないと考えているので、そのような方向での説明はあまり試みません。ダイチさんが理論よりの人に見えたので、なおさら感性ではなく理論で伝えました。どんなに理論よりの人でも自分で経験すれば必ず理解できるからです。

世界の部分を切り取って言葉を使うので、細かいところは説明しきれないかもしれません。
また、殿下さんの世界観と私の世界観は、このような本に興味があるということで重なる部分も多いと思いますが、違う部分も多々あると思います。したがって完全にすりあわせることは不可能でしょうし、また無理にそうする必要もないと思います。
ただ、このような意見がいろいろと出ることは、多くの人に本当の自分に近づく有効な視点を見つけ出す参考になると思いますので、話し合うことはすばらしことだと思います。
>maroさん

私はまだ2巻目を半分までしか読んでいないので、
その時点で書き込みをしていいものか迷いましたが、
自分が感じたことだけ書いてみようと思います。

幸福と困難を分ける、ということについて。
私は本に沿ってというよりも、自分の生き方、という感じでお話しますね。
私は人生の総ては、自分の選択のもとに生きていてよいという考えを持っています。
なので、自分の選択において行っていることで、つらいなぁと思うことにぶつかった場合、これは「困難」なのでしょうが、それを「幸せ」と分ける、ということには違和感を感じます。
私は幸せになるためにしていることの中での困難、これを「幸せ」と「困難」のふたつに分けられないように思います。

私にとって「生きている」ということそのものが「幸せ」なので「幸せ」の中に「困難」も含まれる、というような感じで捉えています。

未熟なコメントですみません。
>>無いに越したことはないです(笑
>たぶん冗談でかかれているのだと思いますが、

冗談ではないですよ(^O^)

>細かく言えばここを私は問題視します。困難は無くなればいいと考えている以上、世界は完璧であることが出来ません。
人間はどんな幸福にもなれてしまうので、

「無くなればいい」と言うのはちょっとニュアンス違います。
先に書いた通り「無いに越したことはない」って感じです。

「人間がどんな幸福にもなれてしまう」のなら
それでいいんではないですか?
わざわざ困難を対極に作り出す意味が分かりません。
もしかしたら「なれてしまう」って「慣れてしまう」ですか?

maroさんにお伝えしたいのは神との対話のこの一文です。
先にも書いたけど、ちゃんとした文章見つけたので。

あなたは全てを経験させてもらえる。
涙も、楽しさも、苦痛も、
喜びも、昂揚も、激しい憂鬱も、
勝利も敗北も、引き分けも経験できる。
これ以上、何がある?
>幸福と困難が統合された状態ってなんでしょうか?
簡単に言うのは難しいですが、世界を対極の循環と捉え、その循環がスムーズにいっている状態です。対極のものを一つのシステムとして扱える地平からの視点です。ようはこの世界は完全に一つだと、頭だけではなく感情も同意した状態です。

すみません、レスしわすれてました。
ここが私とは違うんですね。

私は相対性の世界の全ては幻想だというスタンスです。
実は対極なんてものはないってことですね。

maroさんは対極をシステムの一部として
捉えてらっしゃるようなので、そこから考えると
幸福の反対に不幸(困難)が無いといけないんですね。

よく分かりました。
>くるみさん、殿下さん
困難を幸福から切り離さなくてよい状態は、非常にすばらしい状態だと思います。そのような方々がここにいらっしゃったこと嬉しく思います。くるみさんも分かりやすいコメント、ありがとうございました。

神との対話でもこの世界が一つであり、相対は幻想であり、対極は実在しないと書いてありました。私もそのような結論に理論上達しています。
感情的にも、この世界はとても面白いところだと(誤解を恐れずにいえば天国だと)感じています。感覚の上では、ほとんど困難と幸福を分けて感じてはいません。

この世界は幸福のみで天国なのだと、もし多くの皆さんが実感しているのなら、社会的問題の多くは解決されていると考えます。そうであったら、私はここに書き込みません。それは何の役にも立ちませんので。

しかしニュースやいろいろな人の話を聞くと、苦しんでいる方が大勢いることがわかります。世界では未だに戦争が絶えません。ある国では飢餓で人が亡くなっているのに、ある国では食べ物を捨てています。
なぜ、殺し合うのでしょうか。なぜ、分け合わないのでしょうか。

私は書物や人々の知恵を拝借して、自分の感情を細かく見ていきました。
その結果、善いものと悪いものに分けていることに気がつきました。
さらに、そのような世界観(世界モデル)があらゆるところで昔からあることにも気がつきました。なので、これを「現代の一般的」な人々の世界観のベースと想定しました。苦しみを抱えている人たち(私も含まれます)に、幸福を取り戻すための役立つツールとして使えないかと、考えを進めてきたのです。

そういうスタンスで私は困難の捉え直しを提案しています。これは最上の真実ではありません。ツールです。全ての人に適用できるとは考えてはいません。有効に使える人がいれば、という希望をもとに書いています。

これは意地悪でも挑戦でも勝ち負けでもなく、純粋にお伺いしたいのですが、困難のない世界観をお持ちの方が以下のような(一般的に)不幸な(と呼ばれている)事件に遭われた場合、どのように解釈するのかお聞かせ願いませんか。もし、二極化以外、何か別の見方を見つけられれば、統合状態を多くの人に分かりやすく伝えることが出来るかもしれません。

○ 全く知らない人にいきなり乱暴されてケガをした。
○ 自分の信じていた人に裏切られて、借金を背負わされた。
○ 隣の人が不注意で火事を起こしてしまい、自分の家も燃えてしまった。

暗い内容ですみません。困難(と呼ばれているもの)は明るくかけないものですので。あくまで思考実験ですから、仮にそうなったらと考えお答えください。
理論派ではなく直感的な方は、あーだこーだ考えなくても感覚として答えが出てしまう方もいらっしゃいます(うらやましいです)。そのような方は自分の感覚を言葉にするのが難しいこともありますので、そのケースの場合、お答えいただかなくて問題ありません。お手数お掛けしますがよろしくお願いいたします。

またまた長文、失礼いたしました。
特定の考えに関する考えの擦り合せになっちまったな。
トピの問いかけと主旨がズレるので、こういう場合、テーマを明確にして、新トピを立てるのがベターだけど、まあ、流れ的に仕方無いか。
私も、この新たな「神の対話」に参戦したいけど、ここでこれ以上これを長引かせるのは気が引けるよネ。
まだ続くなら、改めてトピ立てましょうよ。
あ、そうですね。気遣いが足りませんでした。申し訳ありません。

さらにもう一つ忘れていました。上記31の思考実験ですが、もし強く気分が悪くなるようなら中止してください。イメージをリアルに作れる人は、そのことがいろいろな意味で現実世界に影響を与えるケースがあります。上記の質問が幸福の一部だと捉えられていることを確認してから、深く味わってみて感想をお聞かせください。

新トピの件ですが、私はここでは新人で、簡単に書いて終わるつもりだったのですが、ふたを開ければ駄文を長々と書いてしまっています。
私が勝手にトピを立てることは、コミュニティーに失礼になりませんでしょうか。
>maroさん

どうも始めまして。
いえいえ、トピなんていうのは、誰でもいつでも好きに立てていいものですよ!新人とか関係無く。世界はみんなのものですからね!(笑)

私個人としては、この対話は本当の神と対話しているのか?というダイチさんの問題提起について、もっと多くの方のご意見をお聞きしたいので、論点をそこに戻した方がいいな、と思うのです。
>じみーさん
すみません、急いでいたので挨拶もせずに書いてしまいました。
初めまして。よろしくお願いいたします。

そういっていただけると助かります。私もトピを立てて進めるのはちょっと大げさかなと考えていました。
思考実験の結果は聞かしていただきたい気持ちも正直あるのですが、私のわがままでダイチさんのトピを荒らしては申し訳ないので、論点を戻すことに賛成いたします。
私の理解力・説明力不足から考えても、時期尚早でした。不快な思いをしたみなさま、申し訳ありませんでした。
>maroさん

実にいいタイミングで、全くここと同じ主旨の新スレを立ててくれた人が現われましたね!
宇宙のタイミングは完璧です!
>ダイチさん

>この本で筆者と対話している神が本当に神なのか、はたまた作り物なのか?その一点が問われるのではないでしょうか?

>それは自分の中で、いったいこの対話は真実なのか?とこの本をほうっておくことができないからです。

「疑う」ことって大事だと思います。
わたしは、精神世界の本、宗教の本はかなり読んでいて(小さい時から好きなのです^^;)、手もとに残すのは、
自分の感じ方にぴったりくるからです。
自分の感じ方って、少しずつ変っていくのですが、やはり
変わらない部分もある。

神様のひとかけらがわたしで、そのひとかけらって、
どこにも同じものがない、ただひとつのひとかけら。
(確か、神との対話にそんなふうなこと書いてありました)

この本は作者のニールさんというフィルター、ただひとつの
ひとかけらのフィルターを通して表わされた神様の言葉なので
しょう。

わたしは、今まで読んだどんな本よりも、ここに真実があると
思っています。ニールさんはすばらしいフィルターだと。
わたしは、何十回も読みました。読むごとに発見があります。
誰かが真実だと証明することよりも、わたしが真実だと思うこと
を、わたしは信じます。
>じみーさん
本当におもしろいですね。あちらに参加させていただきました。誘導、ありがとうございました。
私の体験をもとに書いています。先日、大分上の次元の自分とつながった時に、この世界の全ては上の次元でつながっており、それは一つのものであるという「意識」を体験しました。全てはその高次の「私=この世の全ての存在=一つなるもの」が作り上げたものであり、この世界の何もかもは、それが創り上げているということを体験しました。この次元は劇場であり、「体験」をするためにそれぞれが知らないふりをして役割を演じているに過ぎない、ということもその「意識」をもって感じました。私達が「自分」だと考えているパーソナリティは、その上の高次の部分に属するものであり、それぞれの考え方、役割が違うからこそ「体験」が生まれるようです。
ニールさんの書いている内容が、作者の考えであれ、どこのフィルターを通したものであれ、それは私達共通の上の次元の「神の部分」がしたことであり、その「神との対話」という題名の本が出されたことで得ることができる「経験」こそが大切だと思います。この本によって「神」について思案をし、否定、肯定したりする体験を得ることができています。
いずれにしても、偶然に「神との対話」という本が出されるとうことはないので、そこに私達=神の意図を感じます。
>ちえさん

わかります。
わかりますが、敢えて言うなら、ここでは、この本で書かれていることは、本当に「上の次元」が書いたのか、それとも著者の創作なのか、という問いかけだと思います。

ちなみに、この論議は、この次の最新トピの方に継続され、皆さん、そちらに移ってしまっています。(笑)
>じみーさん

そうだったのですね…(笑)
しかし、私がそれを認識せず、ここに書き込んだことさえも、その次元=私がしていることなんだ、と私は感じます♪
>ちえさん

ですねー。
宇宙は無意味なことはしない、ということですか。
懐かしいトピが浮上して来ましたね。(笑)

このトピの議論は別のトピ(「神との対話」は、新興宗教ではないと思いたい。」)へと移り、継続したのでしたが、私には有意義な議論でした。

>ぬけさん

はじめまして。

おっしゃる通り、内なる神だと思います。
ただ、そこでやはり、ニール氏は内なる神と本当に対話したのか?という問いもあり得るかも知れません。
ここのトピックスも熱いですねぇ〜
みんなこの本が大好きなんですねぇ♪
私も大好きです。
フィルターのお話しですが、各個人、自分であることが、
プレゼントだとしたら、
それは、それで、すばらしいことですね♪

信じる自由、信じない自由、どちらも自由かも・・・

正しいか、まちがっているか?

私も疑い深い性格なので、
よく精神のレベルで疑いました。

でも、ここで熱心に討論している人たちすべてが

この本に共鳴していることは事実だと思います。

私にとっては、それがいい感じです♪♪♪
本人が言うように、どっちでも良いかな、とか思います。
それが役に立つと自分で思うなら、それを信じれば。

やっぱ作中の言葉ですが、『ニールというフィルターを通して』神は語ってます。邦訳版だとさらに『訳者』っていうフィルターまで通してます。
2重のフィルターを通してるんだから、『神』が語ってるのが総て事実であったとしても、ニールさんにも訳者にもどんな意図が在ろうと、どこでどんな風に歪んでるか解ったモンじゃありません。

そのうえ、解釈なんてやりようが有りまくりますから。

実際、自分でも読んでるときに『コレはキリスト教的な考えによりすぎてるよなぁ・・・』って台詞もありますし。

そいつらは、自分なりに別の言葉に直したり割引いて自分の一部にしてます。

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