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シネマ三銃士コミュの「冷たい熱帯魚」シネマ三銃士Z vol.01 2012年1月8日

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1月8日より、「シネマ三銃士Z」という番組が始まりました。

この番組は、映画博士のシュウ、ひょうきんお調子者のダイスケ、ちょっと不思議な竹内による、映画評論番組です。
毎回一本の映画について、わいわいガヤガヤ楽しく話していきます。
映画音楽や、最新の注目映画についても取り上げます。

よろしくお願いします。

初回は園子温監督の『冷たい熱帯魚』を「竹内の映画一本釣り」のコーナーで取り上げました。
どうぞお楽しみください。
※ポッドキャスト版では著作権の都合上、音楽はカットしています。ご了承ください。

http://fmkoganei.seesaa.net/article/245406447.html

「シネマ三銃士Z」は、東京都小金井市のミニFM放送局「FM小金井」で、
毎週日曜日19:30〜20:00(隔週再放送)
に放送しています。
インターネットからリアルタイムでお聴きになる場合はこちら
http://ustre.am/lOpG

次回の配信は、再来週となります。どうぞお楽しみに!


最後に、映画博士のシュウさんが、この映画について番組では話しきれなかった熱い思いを寄稿してくれました。
下の「続きを読む」ボタンをクリックするとご覧になれます。

この映画は、邦画では近年稀に見る悪役を出現させた点で既に賞賛されるべきだ。でんでん演じる村田は、人当たりは良いが実際は殺人鬼よりもたちが悪い存在である。それを正当化しているからだ。
いや、むしろ正当化さえしていない。悪そのものは、自らの存在を肯定する必要さえないのだ。村田はごく普通の家庭の父親であり夫である社本を圧倒する。呑み込むといっていい。


丸呑みにされた社本は、その中で生きることを余儀なくされる。圧倒的な悪の前に凡人は為す術がない。最早村田は単なる一殺人鬼ではなく、神話から現代まで語り継がれる抽象的な、しかし眼前の「悪」そのものになる。社本の心は当初の恐怖心から村田への畏敬の念へと変化する。悪魔崇拝だ。
村田が社本に投げかける言葉がある意味真理であるとしても、それは極端な論理から見ているからであり、善であろうが悪であろうが、それを貫き通した立場は最も強力だ。「自分の足で立て」という村田は自分でも言及するように、どんな手段を使ってでも立つ。この究極が社本に真似できるはずもなく、社本は屈服してしまう。
しかし、そこまで極端な立場を貫くことは普通の人間にはできない。イエスがいずれ神と同一視され、彼の思想が人間にはほぼ不可能な営みとみなされて来たのと同様に、その真逆ではあるが、村田の思想もまた貫徹することはできない。だがそれゆえに彼らは魅力である。これは一つの逆説だ。


社本が拠り所とする「善」「希望」はプラネタリウム、そしてそこに映し出される地球だけである。「ノーカントリー」のアントン・シガー、「ダークナイト」のジョーカーもそうだったように、悪ゆえに存在しうるものとでも言うべき村田を目の前にして、そんな観念が、46億年も過去や未来が何の役に立つだろう?
せいぜい空想を浮かべて、一時のアジールにするだけだ。村田が言うように、地球は社本が思い浮かべるように真ん丸ですべすべの青い球体などではない。ごつごつとした岩の塊に過ぎない。クライマックスに至って社本の地球は粉々に砕かれることとなる。


オープニングタイトルはこのプラネタリウムから想起される家族団らんの妄想を突き破るかのように浮かぶ。いつもこの監督はオープニングタイトルが上手い。ここで暗示されているように、この映画に希望や救いは無い。


社本はいずれ悪を突き破ろうと必死になるが、村田との殴り合いのシーンで既に社本は屈服していると見ていい。それにも関わらずボールペンを愛子と村田に突き刺せたのはなぜか。
彼が屈服したのは村田そのものではなく、村田の背後にある観念だったからだ。村田の背後にある観念に屈服した。これによって彼は村田と入れ替わる。彼は村田の指摘する通り、自分では何もできない、ただ漫然と生きているだけの存在だった。しかし彼は所詮常人であり、最後はそれに耐え切れなくなる。
村田を突き刺し、愛子に殺させ、村田をばらばらにさせている間に社本は家へ戻る。そこでは村田の論理が作動する。それに従って社本は半ば自暴自棄に今まで自分の演じたかった父親、夫を演じる。


そして社本は愛子を殺しにまた山まで戻る。背徳的な存在は自分で十分だと考えたのだろうか? そこで愛子の頭に振り下ろされるのはマリア像だ。「愛のむきだし」でも象徴的だったマリア像だが、本作でも重要な位置を占めている。本来救いや希望の象徴であるマリア像が殺人の道具に使われようとする。
しかし実際は打撲を与えた程度だ。希望や救いは人を殺すことさえできない無力な存在として徹底的に否定される。マリア像で殺せてしまったら、これらに力を付与することと同じだからである。ここは包丁で殺す。妻の妙子も殺す。血まみれの夫を抱擁しようと感動的に走り寄ってきたからか?
そんなハッピーエンドは要らない、と言わんばかりの呆気ない妙子の死である。



ラストシーンは最も印象的だ。我が子にナイフを何度も突きつけ「痛い、痛い」と言わせる社本。そして最後に「人生っていうのは、痛いもんなんだよ」と苦悶と自責と後悔と、様々な表情が入り交じりながら社本は娘に語る。村田と不貞を働いた妻は見捨て、娘だけは救おうと思ったのだろうか。本作で唯一といっていい教訓である。そして社本は自殺する。見所はここからだ。
娘は父親を足蹴にしながら「やっと死にやがったくそじじい」「ざまぁ見ろ」「起きてみろよ」と罵倒する。ある種感動的に成り得た父親の教訓は無視され、唾のように吐き捨てられる。家族は崩壊したまま、再生することはない。


そして社本が夢見た地球が映し出される。「これが地球だ」とのメッセージか、希望への嘲笑か。いずれにしろこの作品のメッセージは単純かつ明快だ。希望や救いなんて必要無い。
とはいえ「愛のむきだし」では希望と救いが見えたはずだ。なぜ本作はこれまで極端なのか。思うに、本作の主人公や中心となる人物は皆大人であり、子供は美津子しか居ないことに原因がある。これはあくまで大人の物語なのだ。残酷な寓話。


ところで、村田や愛子の言動や行動はしばしば滑稽だ。実際に観客席でも常に笑いが起きていた。しかし、だからこそ現実味があり恐ろしい。ああいう人はどこにでも居るはずだから。

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