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武蔵野アブラ學会コミュの武蔵野アブラ学会とは

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【小説:武蔵野アブラ学会誕生秘話】



?僕らは武蔵野で育った油ソバエリート集団

武蔵野と言えば油ソバ、油ソバと言えば武蔵野。武蔵野の油ソバの歴史は五十年を超えると言われております。都心から程近いながら、自然と水が豊かなこの地で油そばは生まれたのです。

1999年4月、3人の漢(おとこ)が偶然にも武蔵境という武蔵野の中でも油ソバ発祥と言われる場所で出会いました。

10年後に武蔵野アブラ学会を発足させ、終身名誉会長の座を掴もうと野心を顕わにする事になるホセ(仮名)、同じく武蔵野アブラ学会で、10年に1度の名手と言われ続けながら、結局は一生下働きとして終わる事になるゴメス(仮名)、武蔵野アブラ学会の強力なライバルになる、オイルヌードル研究所をニューヨークで立ち上げる事になるロザーリオ(仮名)です。

漢達の出会いに関する感動的なエピソードは割愛するとして、3人は切磋琢磨して油ソバを食べ続けました。油ソバ屋があると聞けば、何を置いても3人で仲良く行列をものともせずに立ち向かったものです。そして、いつしか人は彼らの事を「アブラ三人衆」と呼ぶようになりました。武蔵野の地の古い言い伝えに登場する「アブラ三人衆」の称号を与えられた彼らは、もはやただの油ソバ好きで終わるはずであった人生の舵をオモカジ一杯に切る事になったのです。




?チン正男先生現る

武蔵野アブラ学会を語る上で避けて通れない事は、終身名誉会長であり、当WEBページのトップにその姿を掲載しているチン正男先生(今では偽名という事がわかっております)との衝撃的な出会いでしょう。

チン正男先生は、最後まで謎の多い人でした。中国の四川省からやって来たと聞いていましたが、それも本当かどうかわかりません。何しろ、どう見ても中国人には見えませんでした。むしろ、コロンビアとかそっちの方から来た人だと思われます。しかしそんな事を深追いする事なく僕らはいつも一緒でした。チン正男先生は僕らに本当に様々な事を教えてくださいました。パチンコ屋に行く時も、日雇い仕事の照会に行く時も、コインランドリーに行く時も・・・。そして、本当に色々な話をしてくださいました。

チン正男先生は日本の麺文化に対し、非常に敬意を払いながらも「提案があります」と言っておりました。しかし具体的にどんな提案なのかとなると、寡黙なチン正男先生はうつむきながら「うまく言えません」と答えるばかりでした。

ある日、4人で仲良く銭湯に入り、ブラブラと東小金井駅の近くを歩いていると、「ぷ〜ん」と何とも言えない良い匂いがしてきました。仕事も住居も無いチン正男先生の生活援助を皆でしていたので、かつて「アブラ三人衆」とまで言われていた3人もここの所すっかり外食をしなくなっていたのでしたが、腐っても鯛。3人にはそれが油ソバから出る独特の芳しい香りである事は直ぐにわかったのです。

なんとその時、「これは懐かしい匂いだ。今日は私が皆さんにご馳走します。」と突き出たお腹にいつも巻きつけてある大きくD&Gと描かれたウェストポーチの中から大事そうに封筒を出しました。チン正男先生が現金を持っているのを見たのは、それが最初で最後でありました。そこには何と千円札が1枚と500円玉1個が・・・。

3人とも心では「チン正男先生!1500円じゃあご馳走できないよ。1杯800円するんだから」と思っておりましたが、心の優しい彼らは「先生!ありがとうございます!」と応じたのでした。




?チン正男先生鬼になる

そこで食べた油ソバは、標準的なおいしいものでした。チン正男先生は物凄い勢いで完食し、お替りまでしてしまいました。結局チン正男先生はご馳走するどころか、ホセが出したお金のお釣りを当然のように持っていってしまいました。でも誰もそれに突っ込むような野暮な事はせず、仲良く4人でお店を後にしたのでありました。

帰り道、チン正男先生が立ち止まりました。よく見ると泣いています。「先生!どうしたんですか!!」

みんな狼狽しました。「この味をここ(日本)で食べる事になるとは」チン正男先生は静かに答えました。

どうやら、チン正男先生の故郷では武蔵野の油ソバに近いものが主食であったようです。しかし、文化大革命の中でその作り方は失われてしまったのでした。どうせ毎日ご飯を作ってあげているんだから、いっその事皆が大好物の油ソバを作ればいいじゃんという事で、3人は油ソバ作りを始めたのです。そしてそれをチン正男先生に食べさせてみました。それがチン正男先生の心に火を付けてしまったのです。その日から優しかったチン正男先生は鬼に変わりました。

「違う!」「駄目だ!!」「出直して来い!」「笨蛋!!(バカヤロウという意味)」

チン正男先生は、一口食べては麺を投げ捨てました。人が変わったとはこの事です。今までは八百屋でタダでもらってきた野菜の切れっぱしを小麦粉と練り合わせてお好み焼きにして食べさせたり、チキンラーメンを20分のばしたりしても、「おいしいおいしい」と食べてくれたチン正男先生。それが油ソバ通としては右に出るものがいないアブラ三人衆の自信作を持ってしても納得していただけません。 部屋は日ごとにアブラマミレになっていきました。それでもめげずに毎日毎日3人は油ソバを作ってチン正男先生に献上しましたが、一向に満足してくれません。

そして、チン正男先生は失意の中姿を突然消しました。「あなた達には失望しました。本当の味を求めて世界に羽ばたきます」と一言だけの置手紙がされており、僕らの通帳から預金が全額引き出されておりました。





?そして伝説へ・・・

3人も、昔のようにみんなで仲良く油ソバ屋に行く関係ではなくなりました。「チン正男先生の喜ぶ顔が見たかった。僕らはそれを実現できなかった」

アブラ三人衆などと言われて、行列ができていても皆が「あっ!アブラ三人衆や!」と言って、どうぞどうぞと先に食べさせてくれていたあの呑気な時代はもう終わってしまったのです。3人は結論付けました。「このままじゃいけない」と。そして、ホセはチン正男先生の故郷である四川省に謎の答えを求めて旅たちました。ゴメスは何故かドイツへ、ロザーリオは田無で昼は務め人になりながら、夜は研究活動を続けました。

あれから10年以上の月日が経ち、ロザーリオは遂に達成しました。武蔵野に伝わる伝統的な油ソバの良さをそのままに、非常にオリジナリティーを持った麺と、黄金比で掛け合わせたタレで作った油そばの作り方を突き止めたのです。直ぐに四川省で寧ろ重慶火鍋評論家として有名になっていたホセと、油ソバを諦め坦々麺研究家として鮮烈なデビューを果たしていたゴメスに連絡を入れました。そして、武蔵野アブラ学会が誕生したのです。様々な幸運に恵まれ、3人は昔のように油ソバ三昧の生活を取り戻し、早稲田に店を持つ事ができるようになりました。そしてオープンの前夜、色々な準備で疲れ果てて店で寝てしまったホセですが、台風が直撃している夜の2時というのにドアをノックする音が。あまりに疲れていて無視していると、「たのもう。たのもう。」と何やら聞き覚えのある野太い声がします。しかたなくそっと覗いてみると、なんと10年間捜し求めていたチン正男先生ではないですか。10年の歳月を感じさせない、いや寧ろ若くなっている容貌にも驚くばかり。それに自慢のアフロの黒髪が金髪のドレッドヘアに。目は燃えるばかりに輝いています。チン正男先生にこの10年何があったのか・・・・??。アブラ三人衆の行く末はいかに????(続く)






ここまで読んでくださった皆様の辛抱強さに心から敬意を表すると共に、この話は事実も多少練りこんでありますが、基本的には全くのフィックションである事をお断りしておきます。



                                    敬礼  ホセ

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