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仏教コミュの真宗の成仏について

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 親鸞聖人は「信文類」に
「念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆえに、臨終一念の
 夕べ、大般涅槃を超証す」と言い、本願を信じ念仏する
 念仏の衆生は、如来より仏智であるような金剛心をたま
 わって、迷いの根源である無明を破っていただいている
 から、煩悩の果報である穢体(凡夫としての身心)が亡
 くなる臨終の瞬間に、仏陀と全く同じ完全な涅槃の境地
 にいたるといわれています。
 そのような成仏であるような往生のことを聖人は難思議
 往生といわれたのでした。
        (梯實圓氏、2005.12大法輪)
上記について議論して下さい。次ような疑問があります。
 1.真宗の成仏は死後である?
 2.仏陀とは、一般の覚者でしようか、
   それとも歴史上の釈尊でしようか?

コメント(90)

>>[51]

 親鸞聖人の叡山修学20年間、不惜身命の修業を、「サイエンス氏」がわかる訳ないです。

 「体験して解る事」と「頭の中の思惟と理解(りげ)」は全く次元が違いますからね。

 チラとでも、中論や親鸞聖人の教行信証が腑に落ちれば、恥ずかしくて「ミロク」なんてHNなぞ名乗れませんよね。サイエンス氏が増上慢になっているだけです。本人が気付かないだけ。
>>[47]

『十住毘婆沙論』は伝承によりますと、インド僧仏陀耶舎が口誦したものを
鳩摩羅什が漢訳したと伝えられるのですが、羅什と言えば自分の解釈を混入させるの有名で
仏陀耶舎と翻訳に関して意見が対立して未完に終わったと言う話が伝わっているほどです。
偈頌と散文のうち、散文部分について竜樹作であるかどうか疑問が出ているそうです。

実は『中論青目釈』も鳩摩羅什訳です。
普通、竜樹がサンスクリットで書いた『中論』のオリジナルにあたる時は
チャンドラキールティの『プラサンナパダー』を参照します。
サンスクリット原文が保存されていますが、
羅什は自分の思想を翻訳に盛るからです。

ですので空を知るために直接『中論』を読むことが最も効果があるのでしたら
羅什訳の青目釈ではダメでしょう。

というわけで青目釈が正しいという信仰と『十住毘婆沙論』を伝竜樹と信じて聖典とする信仰は
同じようなものではないでしょうか。
サイエンスミロクさん

ところで
http://ww4.enjoy.ne.jp/~okano11/
によりますと
【明晰 現代語訳「中論」】は、「龍樹造青目釈羅什訳三枝博士漢文書き下し文の現代語訳」
とのことですが、
第三文明社レグルス文庫「中論―縁起・空・中の思想」(上・中・下)三枝 充悳著の
右頁の白文の書き下し文を、現代語訳されたということですか?
>>[54][55] 次郎さん

 「サンスクリット原文」を学ぶことは、大学の授業がやりやすい面が
  あるからではないかと思っています。

 しかし、時代的には青目釈の方が古いし、私には理解し易いのです。

  もちろん、私には訳しか読めないので、
  奥村訳「プラサナナンパダー」を読んではいますが、
  直訳的で分かり難いですね。

 次に、「中論」の偈は、月称釈と青目釈の両方を較べて、納得のいく
 方を私なりに訂正しています。
 「釈」は、書き下し文を現代文に、読みやすくしています。
 おそらく、漢文の読める方は、現代文は必要ないでしよう。

  羅什訳が信用できないという専門家と直接議論しましたが、結局、
 青目釈が分からないということのようです。
  「青目釈は分からないものだ」という論文を書くよ、と言ってた
 専門家が居ましたので、それは止めてくれ、分かってから書いてく
 れと講義しました。

  そういう状況なので、羅什訳を広めなければ、いけないと思って
 いるところです。

 *科学と一致するという解釈なので、羅什訳が異説を混入させたと
  しても、それは排除できるでしよう。
  「中論」を理解できる根拠を持っているので、ただ、文献を頭の
  中で解釈している、仏教学者の読み方とは違います。
  また、怪しい科学を使っていないので、
  「正統的な仏教と科学」を論じているのです。
  信も疑もないのです。
   



>>[56]

ご返信ありがとうございます。サイエンスミロク様の想いは尊いと思います。

が、サイエンスミロク様の主観的な思いはともかくとしまして
事実に立てば、客観的には、サイエンスミロク様のお立場は、
羅什訳青目釈が自分の学ぶ正統なる科学と合致しているから
正しいと信じられるというお立場です。
と言いますのも、科学的に羅什訳青目釈と最先端物理学(素粒子・量子論)とが
一致するという科学界のコンセンサスがあるわけではないからです。

昨今の文献学的見地から申し上げても、サンスクリットも白文も読めず
現代語訳と申されても、翻訳としての価値はゼロのように思います。

価値があるとすれば、サイエンスミロク様がどう解釈されているかという
サイエンスミロク様のオリジナリティにおける思想性でありましょう。

お相手ありがとうございました。
やっぱり零点だわ。

実るほど頭を垂れる稲穂かな。
>>[58]

 量子物理学と佛教の共通性に関する研究はもう30年前に論文がいくつも発表されています。

 芥川賞を取られた臨済宗の玄侑宗久さんも著作でその事について、けっこう前の著作で触れています。

 サイエンスさんは、広告で「世界初」とか言ってますが、とんでもない勘違いです。
 
>>[62]
私見ながら、仏教って無意識を扱うのね。
んで、無意識には時間の感覚がないらしい。
過去現在未来がいっしょくた。死後と生きてる間の区別がつかない。
なので、成仏を生前・死後でわけるのは徒労かもしれないです。
>>[062]

今生ではあまりに煩悩の根強い私たち凡夫であっても、そのことを何にも思わず生きている状態から、深く深く慚愧する状態へと転換して弥陀の本願を心から受けとめるに至ったなら、
まさにこれはもう正定聚だとして、
次の生では必ず仏になれると真宗では教えられているようですね。
とても素晴らしい教えだと思います。
>>[066]はとても正直で率直な方なんだと思います。
実はぼくも本当には南無阿弥陀仏と称えても感激に胸が一杯になるまでに至りません。
例えば「神さま…」と心の中で思わずささやく場合のほうが、ずっと真実の心だったりします。
ですが、そういう呼び掛けの親しみやすさは、たまたまそれまでの人生において親しんできた物語や世界観や文脈がそういうものだったからだけで、
決して優劣をつけて呼び掛けているわけではありません。
個人的な縁から南無阿弥陀仏を称える機会も少なくないぼくですが、何よりも法然さんや親鸞さんの法との向き合い方の素晴らしさに心打たれることも多いので、
お二人の心の内に迫ってゆくことこそに努めたいと思っています。
大乗というのはあくまで大乗です。

一切衆生を救うことに意義がある。
別の言い方をすれば、一切衆生を救うことが目的です。
>>[70]

 真宗がこの世の衆生を救っているのか?
 臨終成仏で良いのか?

 正定聚が100人に95人くらいはいなければ、救っているとは
 言えないのではないか?

 すべての衆生を救うのなら、正定聚が100人に100人でも良い。

 鎌倉時代と違って、現代は、教育、通信手段、本 など、
 数段に進歩している。

 しかし、教えは昔のまま。それも内容がレベル低下している。

 現代に相応しい仏教、宗教があるのではないか?

 仏教離れも甚だしい。
 葬式仏教さえ縮小している。

 大学も、文学部そのものが縮小、仏教学科も減少している。

 やはり、どこかおかしい。美辞麗句を並べても人は救われない。
>>[71]と呼べないような欲得に塗れどうしようもない坊主はたくさんいる。

 けれども、それを嘆いていてもやはり衆生は救われない。

 岡野大先生が在家得度でもされて正覚したうえで、衆生済度するの1つの手。

 かつて、私の師事した老師が言った。「たとえ在家であろうと、我が身をすてて他を利するは、これ菩薩」
>>[71]

・救うのは真宗でも東本願寺でもお坊さんでもなくて、弥陀の本願です。
・臨終後の成仏だと何か問題でも?
・第十九願の行者らは、諸善を修して自力で浄土往生を目指すわけで邪定聚と言われ
 浄土門では勧められはしませんが往生可能ですよ
 自力の称名念仏の方々は不定聚と言われますが、これは浄土往生が確定してますので
 救われているのでは?ただ浄土で自力の想いが敗れるのになお100年ほどかかるそうです。
・「正定聚が100人に100人」がよいのですが、「自力から離れる」に時間のかからない人たちと
 時間のいるひとたちがいるのですね
・「教えがそのまま」だったら「内容もそのまま」なのでは?
・親鸞さんの時代は、弾圧に遭って流罪にまでされた時代です。その頃の比べると
 その気さえあれば、念佛にとてもアクセスしやすい時代だと思います。
72の訂正

 ×「その宗派にも」 ○「どの宗派にも」
>>[65]
生死も時間ももちろんあります。
ただ、生死とか時間と名前をつけてるのが人間で、
ひとまとまりのものを分けて考えてるだけでしょう。
分けたっていいんですが、分けたものに振り回されるのがもったいないということです。

阿弥陀や本願は、浄土門の中でこそ真実ですが、外からみれば方便です。
よくできた方便ですし、方便と真実にたいした違いはありません。
阿弥陀仏は実在しませんし、実在しないのだから本願力なども実際にはありません。実際ないものを有るかのように言ってるだけでしょう。

大乗仏典は比喩ですから、比喩の指し示すところ、いや比喩の導くところに行けばいいのです。もちろん行く先は釈尊の悟りです。

真宗の方々の説明を聞いても、なんか変だなと思うのは自然です。真宗の中で完結してるのですが、外から見れば違和感があります。
真宗の言葉が、お釈迦様の覚りに直接つながってませんので。
しかしそれらを比喩と見ればつながってきます。浄土門の外の仏教徒はそれでいいんでないですかね。

称名念仏に感慨をもたないのも当然です。
突きつめれば呼吸と同じです。呼吸に感慨もたないでしょう。しかし生きてる実感とか感謝なんてのを持つこと有りますもんね。
また称名は仏行です。仏の行に凡夫が実感もつことはありません。実感はとりあえず自我(意識上の自分)に属するんでないかと思います。仏行は蝉がミンミンなくのとだいたい同じと思います。命いっぱいのミンミンですね。
>>[76]

なまくさ坊主が多いのです。

 大きなお寺の息子は、勉強もせずにベンツ乗り回し、
 一方、田舎では、副業で生活している貧乏寺が多いのです。

 救われるべきは坊主の方です。「中論」が分かる坊主もほとんど
 いません。

 昔は坊主は地位も高く、立派な方が居た。

 今、世の中を救っているのは、医者や工学・科学者でしよう。

 キリスト教のホスピス病院と違って、
 坊主が来ると病人は嫌がります。

 テレビでも何言っているのか分からない坊主の法話が放映されて
 います。

 これが現実です。

 人を救う、命を救う、こんな大変な言葉を軽々に言いつつ、
 なかには、 暴利を貪る坊主もいる。

 坊主丸儲け、税金かけるべきでしよう。
>>[77]
ちなみに
宗教法人には税金がかかりませんが、お坊さんの所得には税金がかかりますよ。

ところで
サイエンスミロク様の「現代語訳 中論」は好評につき第二版まで出版されたとのことですが
サイエンスミロク様の「現代語訳 中論」で救われた方々はどれくらいおられるのですか?
>>[80]

 だから、必要経費でベンツ買ったり、洋服買ったり、旅行したり
 しているのですかね?

 寺を大きくしたり、いわゆる、内部留保。

 100才くらいの僧侶が、莫大な給与を貰っているらしい。
 有名なお寺で、何億と貰っている大僧正がいるのではないですか?

 *「現代語訳 中論」は龍樹の思想を広めるためですが、それで
  人が救われるかどうかは知りません。

  そんなに多くは売れていません。以下は、個人情報につき省略。

  「人を救う」というのは、多くの意味があると思います。
  病気を治すとか、金を貸すとか。

  「仏にする」のは、まず、できない。

  貴方は、どういう形で「人を救っておられますか?」

 
>>[81]

龍樹の思想を広められて、何になるのですか?
あなたが批判されている坊主と何も変わらないのでは?
仏教には真理ってないからね。
真実の状態ならある。
まあ無我ってことだけど。空を得たでもいいと思う。
良寛さんがそうだよ。居るだけで周りが平和になっていくみたいな。
 お釈迦様は自ら抜苦与楽の方法を獲得され自らの苦を取り除かれましたが、それだけで涅槃に入られず、自らの理解した方法を他のものの苦も取り除いてやる道を選ばれました。
 真理とされるものを正しいやり方で理解することによって苦はとりのぞけ、それによって人は苦しみから救われます。
 真理とされるものを正しいやり方で理解するように促すことと、当該人を救うことは表裏であって、別のものではないのではないと思います。

 同じく苦から救うという効果を、真理とされるものを正しいやり方で理解するという方法以外でも獲得できるのではないかというお考えが、成道の後に芽生え、それが、長い布教の旅の原動力ともなり、また、旅の中でも深まっていったものが、出家弟子を中心とした教団ではなく、民間に伝承され続け、やがてさまざまな場所でさまざまな人々によって、口伝が成文化されてさまざまな大乗経典になっていったのではないでしょうか。
>>[81]を批判しても誰も救われないでしょう?

 各宗派の理論にあれこれに手を出しても、チラとも開けることはありませんし、思考を重ねるだけ。

 今でも凄いお坊さんはいらっしゃいますよ。偉そうな顔してないでひょこっといる。

 岡野先生が、自分をまっさらにして真剣に探せば必ず出会えるでしょう。

 かつて、私は師を探し求めていろいろなお寺を尋ねましたよ。

 ある寺を訪ねた時、後光が差してる壮年のお坊さんがいた。偉そうな顔もされていない。「ああ、しっかり見性されたお坊さんなんだな」と思った。しかし探している師とは違う。

 「すっかり自分を空じ切ったお坊さん」に師事したいと思っていからです。

 けっこうな年月が流れてようやく空じ切った師に出会えたというのに、邂逅してからわずか4〜5年ほどで師は遷化されてしまった。

 生死事大、無常迅速。

 どれか一つに決定(けつじょう)して、思慮・感情を離れた自分というものがどういうものか体験してみてください。
 親鸞聖人、日蓮聖人、竜樹菩薩、って支点をコロコロ変えておったら、作用点に効果的に行かないでしょう? 工学博士に言うのは、釈迦に説法か。これは失礼。
>次ような疑問があります。真宗の成仏は死後である?


初めから成仏は死後なんだと決めてかかっているような宗派なら頼る気になれないというお気持ちあっての疑問・質問でしょうか。
自分は死後ではなく、この生においてこそ仏陀のようになりたいんだというお気持ちなら、それはとても尊い発願であり、その願いを明らかに忘れることなく精進することがとても大切なことだろうと思います。

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