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仏教コミュの疑問がございます。

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仏教を自分で少しずつ勉強し、ブッダを求めているgoodwillという者です。
疑問が生まれました。
1つでも、分かる人がいましたら、教えて下さると嬉しいです。

以下は多分僕の誤解と偏見で満ちているでしょうが、勉強不足という事で許して下さると助かります。


●1
ゴータマブッダはどうして、他の人々に自分の悟った内容を教える気になったのか?


例えばゴータマブッタはわざわざバラモンの住む都に、反感を買いながら教えを広めようとした。

伝説では梵天が哀願したとあるが実際はどうなのだろう。
悟りを開いた人間が他人にそれを分からせようという欲が有るのをとても不思議に感じる。
「自分の考えを人に教えたい」という姿勢はとても下世話な欲に僕は感じてしまう(自分がそうなんだけど)。
実際、多くのブッダ(目覚めた人)は他人に自分の気づいた事を教える事なく、人生を閉じると聞く。

これが大乗仏教の言う慈悲、衆生を救うなのだろうか。

●2
衆生を救うという慈悲の考えと、あらゆる執着、苦を脱した涅槃が共存するというのがいまいちピンと来ない。

涅槃にたどり着いたら、他の人にたいするあらゆる執着は消える。
他人に良くする、優しくするのは理解できる。
でも衆生を救うという考えがいまいち分からない。

この場合の救うとは優しくする、良くする程度で良いのだろうか?
衆生を修行する事なく(大きな船に乗せて)涅槃に導くという事なのだろうと僕は理解しているのだが。

●3
ゴータマブッタの悟りは本当に静寂、完全なる安定にたどり着いたのだろうか?
アラハンと呼ばれる人たちは本当に静寂の中にいるのだろうか?

日本に誰もが涅槃に到達している認めている生きた仏はいるのだろうか?

涅槃の境地は本当にこの世に有るのだろうか?
もしあるとすれば、どうしてあると言えるのだろう?
(有ると信じたいのだけど、信じたいが故に疑ってしまう)


●4
曹洞宗の禅では禅定にはたどり着くが、涅槃にはたどりつけないのではないか?
ゴータマブッタと同じ様に座る事で悟りが開けるという考えだと僕は理解しているが
だからといってゴータマブッタのような思考にたどり着くというのは安易ではないか?

むしろ臨済宗の様にきちんと師匠が教えるという姿勢がより良く感じる。
しかしこの場合師匠が涅槃に到達している必要が有るとおもうが、臨済宗で教えを説く僧は涅槃に到達しているのだろうか?

●5
ゴータマブッタが悟ったのは例えば脳にある種の異変があったのではないか?
ゴータマブッタはとてもとても稀な天才だったのではないだろうか?だから彼だけが悟れたのではないか?
彼の弟子たちも本当に悟ったかどうか疑問に感じるときがある。

普通の人間でも涅槃に到達できる素質を持っているのだろうか?
ゴータマブッタは誰でも出来ると言うが、本当だろうか。
サッカーでも野球でも得意不得意があるというのに誰でも涅槃に到達する素質があるというのが、不思議に感じてしまう。


以上です。

コメント(106)

>goodwillさん

>お釈迦様はすごいと僕は感じます。
多くのバラモンに自分の考えを否定された時、どのように議論をしたのでしょうか。

石飛先生の本に『ブッダ論理学 五つの難問』(講談社・選書メチエ)というものがあるのですが、ブッダの議論の仕方について興味深い考察がなされていますよ。

最初はとっつきにくいかもしれませんが、宮元先生の本に抵抗感を感じない方であれば(笑)、読んでみると面白いし、参考になるかもしれません。
昔、麻雀が好きだったころ、結構私は強くて、本気でプロになろうと思った時期があった。

毎日、新宿の雀荘に出入りして、いわゆるブー麻雀というものをやっていた。最後には一回の勝負が五万ほど、勝てば、当時のお金で100万ぐらいの儲けがあった。
あのまま行ってれば、まず刑務所行きだっただろうな。

そんな勝負を繰り返していると、ときどき素人の麻雀上手の方が入ってくる。自分では麻雀がうまいと思ってくるのだが、我々から見れば、すべてがお見通しぐらいに下手なやつらだ。本人は麻雀がうまいと思っているから余計、始末に置けない。

そんな時代をすごし、仏教に出会って、すべてのばくちをやめた。仏教を勉強するほうが面白くなったからだ。
26歳だった。

それから20年大乗の世界にいて、様々な修行と勉強を続けた。大乗仏教の理論を越えるものはないと思っていたからだ。

はじめて初期仏教の比丘に出会ったのは、45歳を超えていた。私も最初は小乗仏教の比丘なんてと言う思いが心の中にあった。
でも、縁があったのか、毎週、その僧の下に通い始めた。
そのころ、渡世人さんにも出会った。

そして、初期仏教を理解するには3年を要したし、ヴィパサナー瞑想をやらなかったならば、私は決して理解できなかったであろうと思う。
それほど私にとっては困難なことだった。

仏教も、麻雀も同じ様なものだ。経験したものだけが知っているものがある。

どんな言葉にしても伝わらないものがある。
だからこれ以上は言葉に出せないと思えば、言葉は閉じてしまう。経験が必要なこともあるからだ。

だから、縁がある人にすべて経験をしてもらいたい。
私は喜んで手助けをしたいと思う。
熱くならない事がすばらしい事でもないし
わきあいあいと事なかれ主義が仏教の悟りだとも思わないし
仏教のあるべきかたちだとも思わない。
「仏教のあるべきかたち」なるものも別に無いと思う。
釈尊が言ったか言わなかったかも別にこだわる事もないと思う。
釈迦は「おれの言うとおりにしろ」と言ったわけでは無いと思う。
「諸法実相」に気が付き、あとは各自がどうするか決めればいい事。
この世界の有り様、宇宙の有り様に気が付き認識自覚覚悟するだけの事だと思います。

ヴィパサナー瞑想して、何かに気が付いた人なら
釈尊であろうがなかろうが「たかが人間ごとき」に神通力など期待する事は無いと思いますし、そんなもの無いと解ると思います。
また悟ったか悟っていないかは、「自己の納得」くらいの事で、
だからって、何か根本や自然の有り様が変わるものでもなく、
とらえ方や、とらわれ(偏見)から自分が解放されるくらいの事に過ぎず
悟っても悟らなくても、どっちでも、たいした変わりはないという事に気が付く
事が「悟り」の副産物じゃないのでしょうか?
落ち着いて物事に接しようと、あせりまくりの、パニクリまくりでも、
二者に優劣のふんべつは無い。
釈尊も含めブッダと呼ばれる人が過去にいようがいよまえが、
もともと「真理はそのまま在る」ものだと思います。

仏教が宗教であるところは
人間が「先を想像して苦しくなる」性質 習性 本能を持つ種であるから、
それによる「苦しみ」がどうしても「人間」である以上生じる。
その生じた「苦しみ」をどのようにして解決するか、処理するか
その方法が、禅であったり、祈りであったり、方便であったりの違いではないでしょうか?
苦を感じてしまう原因を知りそれを自覚認識する事で処理、解決する「悟り」
感じる苦から方便により解放してしまう「救い」

大乗であるとか小乗であるとか、どーでもいい事で、それこそ「ふんべつ」にとらわれていると思います。
僧侶であるかどうかのフンベツも、悟ったか悟っていないかのフンベツも
どーでもいい事だと思います。
人間である間は人間として存在するしか無く、人間という人間が「そう呼ぶ(フンベツする)」かたちで存在しているだけの事。
偉くもなんともないし、どーでもいい事。
どっちが上だの下だのと「区別」するのは人間だけのフンベツに過ぎない。
悟ったか悟っていないかすらも、人間のフンベツにすぎない価値観。
だからって、どーって事はない。
蜂が蜂であるように、たかが人間であるだけである事しか無い。
優れてもいないし、ビッパサナーなんか知っても知らなくても
たいした違いは無い、、、とビッパサナーでは気が付くような禅を教えてるのと違うの?

<<自分では麻雀がうまいと思ってくるのだが、我々から見れば、すべてがお見通しぐらいに下手なやつらだ。>>
これだって、フンベツに過ぎない。どーってことの無い
自慢話しに過ぎない。
下手も上手も、たかが人間の価値観によるフンベツに過ぎない
絶対的な優劣は無い。
この世界の有り様(真理)に気が付いた者と、気が付かなかった者と
別に差というほどの事は無い。
蜂と人間の差のほうがはるかに大きい。(^.^;

たとえ「人間そのもの」が存在していなくても在るのが
真理と違う?大乗だの小乗だの、そんな事どうでもいいし、
瞑想だって、してもしなくても、本人の考え方やものの見方が
変わるだけの事、ふんべつやとらわれに対するだけの事。
それを偉そうに思うのは人間だけの価値観だと気が付くのが仏教とちがうの?
*しかし、人間は人間として生きている間はフンベツしないでいられない、

___________________________
 ↑そーゆーのが「にんげん」というモノ(かたちをしているモノ)の特徴なのだと思う。
それを人間は人間とフンベツしていると思う。
人間以外にはどーでもいいこと、どっちでも、なんて事が無い事だと思う。
三匹前を歩く蟻と1000匹後を歩く蟻、蟻の長蛇の行列の中に
そんな事の差など、どうでもいい事。
どれも「蟻」、「ただの蟻」
同じように人間もどっちみち「ただの人間」でしか無い。
偉そうにするかどうかと偉いかどうかは違う。
偉いか偉く無いか、、、それもまた、たかが人間の価値観(とらわれ、ふんべつ)に過ぎないと思う。
いつもニコニコしている人は、血液中の免疫物質が多いと言う事が最近医学的にも証明されて来ました。
例え重い病に犯された人々でも、前向きな人達は消極的な人達よりも生存率が高いと言う事まで解明されて来ています。
それは本人のみならず周囲の人々に与える影響にも見られる傾向です。
そうだね。いつもニコニコしていられたら、楽しいけどね。
まだ凡夫そのものだからね。
喜怒哀楽がすぐに現れてしまうね。自慢もいっぱいしてしまうね。
先日、自分のいえの庭に嫌味の元は埋めたんだけど、まだ半分ぐらい残っているかな。
今度、自慢の元も埋めてみるよ。
でもまあ、仕事と友人には恵まれているかな。あまり苦労は無いかな。
それで人生楽しく生きてるからな。これも自慢だな。
また埋めよう。
まあ確かに世界中の人がもし「にこにこ」している事が
ありえるなら、、そらめでたい事ですし、しあわせですわな。

<<威張ってても、怒ってても、貪ってても、怠けていても、ニコニコ(*^_^*)していればOK>>
そらまーそんな人はめでたいわなあ、OKといや、そらOKですわなあ。
だれもが、そうなったら、それはそれで、それもまたキショイ世界とも言えるが、
キリスト教の分派に、
ライオンも兎も人間も神の国では「みんなにこにこ」という宗教が
あったですね。
確かにめでたい。「しあわせである」と想う。
渡世人 さん
<<大乗だろーが小乗だろーがキリスト教だろーがイスラム教だろーが総理大臣だろーが乞食だろーが蟻ン子だろーがライオンだろーが、なんでも良いんです。 >>

いや、だからあ、、あらためて、まとめていただかなくても
「なんでもよい」っていう意味じゃんかってば。
そう書いているんだってば。
あんたは学級委員かい、まとめ役のえらさんかい(笑)
渡世人 さん

だんだん化けの皮はがれて来たね、
正体がだんだん見えて来てるよ、
あなたは自分が思っているような人物では無い
にこにこなんかしていない
それが あなたなんだよね。
それを自覚せずに、口先だけで、話しているから
ぼろぼろボロが出る。
ひさしぶりにのぞいたら、すごい人がでてきたなぁww。。。
こんにちはぁ☆
オトナな渡世人さんだぁ☆
●busukuさん

本の紹介どうもありがとうございます。

アマゾンのレビューを読んでみました。
少し難しそうですね。

でも探して読んでみます。


意図したものではないんですけどね^^

実はねぎぼうずさんの所にクリスマスに遊びに行って、色々考えを伺いたいなと思ったんだけど、彼修行に行ってしまうんですね。
12月21日から1月8日までミャンマーに行きます。
10日間ですが瞑想をしてきます。
その後、5月ごろには出来れば、一年ほどまたミャンマーに行って修行しようと思っています。身体がまだ大丈夫な間に何とかしたいと言う思いがあります。
普段は寺にいますので、いつでも遊びに来てください。
誰でも大歓迎ですよ。
一緒に瞑想をしましょう。

時間を見つけて遊びに行こうと思います。
その時はよろしくおねがいします。
ねぎぼうず狂、、いや教の信者も
オームのように見えなくなっている事も見えないのでしょう。
無意味な言葉を書いてもしかたないだろうに、、、。
単なる挑発じゃんか。
笑い教か、、、またオカルトでなければいいが。
もうこのトピックも、くだらない内容になってきたので止める
もちろん書き逃げはするつもりはないので。

ねぎ教のふたりの高慢なおっさんたちは感情的(^.^;にも嫌いだしなあ
いつも何か一つの結論に双方がなるとは限りませんから、
あなたの空想の世界はあなたは語る権利がありますから
別にこれ以上僕は言う事もないなというだけです。

確かに良く勉強されて、よく暗記されて、なるほどという事も
いっぱいあります、、、けど、
単純に、、、あなたはとんちんかんな結論になっているというだけですが、
しかし、これは相入れない事のようなので、これ以上は今は無駄だと僕が
判断しただけの事です。こどもの喧嘩じゃあるまいしー

<<アッシのこの性格とこの性格が元で生まれたこの作文はアッシのせいではありません。>>

そのとおりですよ、はなっから言ってるでしょ、
そういう風にたまたま生まれてきてしまったあんた、が
そのあと、妙な縁により、知識を得たが、
たまたまあなたの中にある、性格が、ぼけた判断にさせてしまっているだけの
事ですから、あなたが縁により生まれ、また様々な縁に出会って、
あなたの生まれた時からの妙な性格も加味され、多くの知識を学びながら
最後の一歩を外してしまったというだけですから。
これらはすべて「ただの自然」ですから、仕方が無い。
あなたのせいでは決してない。責任はないからね、
オームの信者もあなたも信じる者はしあわせである。
・・・・・ヒンズーは全ての宗教を受け入れています。

人間の大きな心が世界を宇宙を広げると(^^ゞ

同じ人生なら〜この笑いってツボを解釈したいね〜

集団を組みたがる真面目な人がヤバイのよ

すぐヒステリックになるからにゃん

どうみても渡世人ちゃんの勝利だ(-。-)y-゚゚゚

日本の片隅で机上の空論は無意味だぜぃ!
>93: non***☆ さん
>ヒンズーは全ての宗教を受け入れています。

 ヒンズーがすべての宗教を受け入れているとはどのような状態を仰っているのでしょうか?
 

ヒンズー教の人々は仏教を含む全ての宗教を受け入れていると信じています。

でもそれはヒンズー教の人がそう信じているだけで、仏教をヒンズー教化して取り入れているのだと思います(つまりは仏教では有りません)

中国で仏教が儒教と融合して受け入れたのと似ていますね。

仏教はそのように様々な国で形を変えてしまっています。

そう僕は思っています。
>goodwillさん
 ありがとうございます。
 了解いたしました。
 たしかにヒンズーは仏教も含め多くの宗教を取り入れて現在に至っていますね。
 そのことは知っていましたが、ニュアンスとして取り入れている事と受け入れている事は違うように感じましたので、質問いたしました。
 仏教は中心思想として「縁起」という事を言っていて、変化について簡単に言えば、そうした仏教の中心思想と矛盾しない限りはさまざまな宗教や思想と融合してきました。
 私の考えでは、仏教の中心思想はそのままに、形は人の数だけあるのかと捉えています。
 音楽で言えば主旋律は変わらずも、いろいろな楽器やアレンジがあるようなものかと思います。
 最終的には、それぞれの行者が自分に縁のある行に出会って実践していくということしか無いのですが、non***☆さんが
「集団を組みたがる真面目な人がヤバイのよ」
とおっしゃったように、集団になると各人の行の妨げになるとも思えますし、かといって、集団もなければ衰退していってしまう可能性と、中心的な思想も変わってきてしまう可能性もあります。
 どちらにしても、良いところと悪いところはあるのかなというのが、正直な感想です。
 ただ、最近の人々を見ているとなんとなくもう少し自信を持っても良いのではないかなと思います。
 話がそれまして、すみませんでした。
>●1.悟りを開いた人間が他人にそれを分からせようという欲が有るのをとても不思議に感じる。「自分の考えを人に教えたい」という姿勢はとても下世話な欲に僕は感じてしまう(自分がそうなんだけど)。


ゴータマ・ブッダは元より、自分も含めてすべての人が人生に苦しみ迷っている様をありありと見届けられて、何とかこの苦しみから脱する方法はないものかという切実な探究心から出家修行に入られたのだから、
答えが見つかった時にみんなにそれを教えようとされるのは極々自然なことであったと僕は思います。
goodwillさん

>●2.涅槃にたどり着いたら、他の人にたいするあらゆる執着は消える。他人に良くする、優しくするのは理解できる。でも衆生を救うという考えがいまいち分からない。この場合の救うとは優しくする、良くする程度で良いのだろうか? 衆生を修行する事なく(大きな船に乗せて)涅槃に導くという事なのだろうと僕は理解しているのだが。


自分が涅槃という最高の幸せにたどり着いたなら、しかもそれが本物であるのなら、
自己と他者の区別・差別のないその境地ではもはや自分ひとりだけで涅槃の喜びと幸せを味わうことなど自己矛盾でしかなく、いまだ苦しみの海の中でもがいている他者を決して見捨てることなく、同じように涅槃の喜びと幸せに至らせてこそ矛盾や曇りのない真の涅槃を自分もあらためてありありと味わうことができるのだと思います。
goodwillさん

>●3.ゴータマブッタの悟りは本当に静寂、完全なる安定にたどり着いたのだろうか?


それは本当に根幹的な疑いでいらっしゃいますね。
僕などはただただそこに希望を見て、子供が大人を見上げるように素直に教え導いていただくばかりです。
goodwillさん

>●5.ゴータマブッタが悟ったのは例えば脳にある種の異変があったのではないか?

脳の機能的異変が悟りを可能にした真の原因ではないか、というご意見でしょうか?
逆に言えば、滅多に起こりえないそういう事態が起こったからこそ、ブッダは悟りえたのであって、これは本当に稀にしかありえないことだ、という意味でしょうか?


>ゴータマブッタはとてもとても稀な天才だったのではないだろうか?だから彼だけが悟れたのではないか? 彼の弟子たちも本当に悟ったかどうか疑問に感じるときがある。

ブッダが悟ることができたのはブッダが大天才だったからではないか、というのですね。
元々大天才の人は悟ることができても、それ以外の人には無理ではないかというご意見ですね。


>普通の人間でも涅槃に到達できる素質を持っているのだろうか? ゴータマブッタは誰でも出来ると言うが、本当だろうか。サッカーでも野球でも得意不得意があるというのに誰でも涅槃に到達する素質があるというのが、不思議に感じてしまう。

ブッダは自分が脳機能に異変を生じたか、元々大天才だったから悟ることができたのに、それをあたかも誰でも悟ることができるかのように言うのは、明らかに大いなる間違いだ、というのですね。
僕はただただブッダや、その教えを継ぐ人たちが教えて下さることを素直に少しずつ少しずつ、自分の身において確かめてみることしかできません。
>>[25]

「今、私が悟り得た法は、甚だ深遠である。
思いのままに見る者が、在りのまま見ようか。
否、三毒に犯された者に、真理は認められない。」

梵天勧請の経典には、このように書かれています。
http://www.nurs.or.jp/~academy/butten/bonten2.htm

思うに、仏教は、様々な「人生の課題」に、非常に実践的で役に立ち、
また、どのような「人生の課題」にも応用ができる、非常に汎用性の高い答えを与えてくれますが、
実際問題として、多くの人が、様々な人生の課題解決のために考え、もがく中でこそ、
仏教の素晴らしさに出会っているのが実情なのではないかと感じます。

私は本当にこのままでいいんだろうか、とか、
どのような人生が本当に幸せと言えるのだろうか、とか、
生きていくのが辛い、とか、
そういった「課題」を抱えている人でないと、もしかすると、
仏教に縁が付きにくいのではないかなあ、と思います。

「1度だけの人生なのだから、俺は好きにやる。
飲みたい酒を飲み、口説きたい女を口説き、
行きたいところに行き、食いたいものを食う。
道徳なんかクソ食らえだ。」

と、例えばこのように考える人がいたとして、
このような人に仏教の素晴らしさを説こうにも、
当面は、取り付く島もないんじゃないかという気はします。
そんな人に無理矢理、説教をしても、あまり良い結果は得られない気がしますし、
それが善行と言えるかどうかも、難しいところだと思います。
いくら仏陀の説いた教えが素晴らしいからと言って、
そのような現実があることは確かですから、
縁が熟さなければ、熟していない人は、救えないというのが現実かと思います。

仏陀はきっとそのような人も救いたいと、あるいはそのような人こそ救いたいと思ったかもしれませんが(※)、
現実的には、縁がなければ救えないよなあ、という冷静な考えが、梵天勧請の経典に現れているような気がします。


仏陀が衆生の全てを救いたいと思っていたのは明白です。
短期的な快楽だけを追っている人は、長期的には不快な人生になるのが仏陀から見れば明白だからです。
自分が何をしているのか分からず、自滅しようとしている人を、なんとか教え諭して救ってあげたい、
ものの道理を悟らせて、苦しみのない人生を歩めるようにしてあげたい。
と、仏陀がそのように考えていたことは、増一阿含経にある、
仏陀がアヌルッダの衣服の繕いものをした経典にも、かなり明確に書かれていますね。
上記で指摘した経典の現代語訳を載せておきます。
WEB上には原典に忠実な訳がなかったので、
既存の訳文を利用しつつ、なるべく原典に近い形で、私なりに翻訳してみました。

◆漢訳 増一阿含経 31

ある時、アヌルッダは古い着物を繕っていました。
アヌルッダはすでに失明していたので、針穴に糸を通す事が困難でした。
そこでアヌルッダは声をかけました。
「周りにおいでの阿羅漢の方々よ、私の為に針に糸を通して下さらんか」。

この時、仏陀は天耳によってこの声を聞かれました。
そしてアヌルッダのもとへやってきて、言いました。
「針を持ってきなさい。私が通してあげよう」。

アヌルッダはびっくりして仏陀に申し上げました。
「いま申しましたのは、善行を積んで福徳を得たい方は糸を通してください、と言ったのです」。

すると仏陀は言いました。
「この世に私ほど福徳を求め、善行を積みたいと願う者はいないのです。
如来は六つの法において、もうこれでよいと満足する事がありません。
一つには布施、二には教え諭すこと、三には忍耐、四には法義を説くこと、五には衆生を救い護ること、六には無上道を求めること。
この六つの法において、如来は満足することはないのです」。

それを聞いたアヌルッダは言いました。
「如来のお体は完全にお悟りになられた、真理を体現されたお体でございましょう。
すでに生死を越え、全ての欲望から自由になったはずです。
なのにどうして、さらに善行を積もうとされるのですか」。

すると仏陀は言いました。
「アヌルッダよ、あなたの言う通り、如来は真理を体現しているからこそ、六つの法を知っており、
六つの法(の素晴らしさ)を知っているからこそ、それに満足することがないのです。
もし衆生が、罪悪の源を知り、身・口・意について気をつけるのであれば、悪趣に堕ちることはありません。
罪悪の源を知らないからこそ、悪趣に堕ちるのです」。

仏陀はそう言って、次のような詩を詠みました。

 この世にあるさまざまの力のうち、
 福(さいわい)の力こそ最も勝れている。
 天界にも人界にもこれに勝るものはない。
 この福(さいわい)に由って仏の道を成ずる。

そして仏陀は続けました。
「だからアヌルッダよ、仏に至る道を求め、あなたも六つの法を得なさい。
そして修行者の皆さんも、今聞いたように、この六つの法について学びなさい」。

それを聞いた修行者たちは歓喜しました。


※以下が原文です。
http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php
大正蔵検索「T0125_.02.0719a25」のあたりに掲載されています。

是時阿那律。
以凡常之法而縫衣裳。不能得使縷通針孔中。
是時阿那律便作是念。
諸世間得道羅漢當與我貫針。
是時世尊以天耳清淨聞此音聲。
諸世間得道阿羅漢者。當與我貫*針。
爾時世尊至阿那律所而告之曰。
汝持*針來吾與貫之。
阿那律白佛言。
向所稱説者。
謂諸世間欲求其福者與我貫*針。
世尊告曰。
世間求福之人無復過我。如來於六法無有厭足。云何爲六。
一者施。二者教誡。三者忍。
四者法説義説。五者將護衆生。
六者求無上正眞之道。
是謂阿那律。如來於此六法無有厭足。
阿那律曰。如來身者眞法之身。
復欲更求何法。如來已度生死之海。
又脱愛著。然今日故求爲福之首。
世尊告曰。如是阿那律。如汝所説。
如來亦知此六法爲無厭足。
若當衆生知罪惡之原身口意所行者。終不墮三惡趣。
以其衆生不知罪惡之原故墜墮三惡趣中。
爾時世尊便説此偈
世間所有力 遊在天人中
福力最爲勝 由福成佛道
是故阿那律當求方便得此六法。
如是諸比丘當作是學。爾時諸比丘聞佛所説。
歡喜奉行。
「アヌルッダよ、あなたの言う通り、如来は真理を体現しているからこそ、六つの法を知っており、
六つの法(の素晴らしさ)を知っているからこそ、それに満足することがないのです。
もし衆生が、罪悪の源を知り、身・口・意について気をつけるのであれば、悪趣に堕ちることはありません。
罪悪の源を知らないからこそ、悪趣に堕ちるのです

 この世にあるさまざまの力のうち、
 福(さいわい)の力こそ最も勝れている。
 天界にも人界にもこれに勝るものはない。
 この福(さいわい)に由って仏の道を成ずる。」

という部分からは

『自分が何をしているのか分からず、自滅しようとしている人を、なんとか教え諭して救ってあげたい、
ものの道理を悟らせて、苦しみのない人生を歩めるようにしてあげたい。
その人のために、忍耐強く教え諭し、ものの道理を説き、
そのことによって救い、護ることこそが、この世界に調和をもたらすのだ、
この調和を生み出していく道こそが、仏の道なのだ、
全ての道において、最も力強く、最も幸せで安らかな道なのだ。』

というような仏陀のメッセージを感じる気がします。
>>[103]、どうもありがとうございます。


>「如来は六つの法において、もうこれでよいと満足する事がありません。一つには布施、二には教え諭すこと、三には忍耐、四には法義を説くこと、五には衆生を救い護ること、六には無上道を求めること。この六つの法において、如来は満足することはないのです」。


如来でさえ満足することがないのに、ぼくたちがこの六つのことで自分に満足してしまったら、これほど愚かなことはありませんね!
ぼくたちが自分の布施に満足してしまったら、明らかに布施における愚かさを体現していることになりますね。
教え諭すことに満足してしまったら、教え諭すことにおける愚かさを体現していることになりますね。
忍耐に満足してしまったら、忍耐における愚かさを体現していることになりますね。
法義を説くことに満足してしまったら、法義を説くことにおける愚かさを体現していることになりますね。
衆生を救い護ることに満足してしまったら、衆生を救い護ることにおける愚かさを体現していることになりますね。
無上道を求めることに満足してしまったら、無上道を求めることにおける愚かさを体現していることになりますね。
このお経は、本当に感動的なお経ですよね。

仏陀の悟りとは満足に他ならず、意欲や情熱も消えた感情のない境地だと誤解されることも多く、実際、私自身、昔は悟りとはそのような無感情の境地だと思っていた1人ですが、しっかりと学べば学ぶほど、悟りとはもっと情熱的なものだと教えられます。

別の経典でも、
仏陀は弟子が悟ると本当に喜んだ、とも伝えられています。
あるいは、とても働き者で、サンガの経営のために、睡眠時間をあまり取らずに働いていたことも伝えられています。

「アヌルッダ、私も幸せになりたいのだよ。
私ほど幸せを求める者はいないのだよ。」

この言葉は、そもそも仏陀がなぜ修行の道に入ったかの動機すらうかがわせてくれます。
誰よりも幸せ(福)を求め満足しないことの中に道の完成があるというのは、本当に示唆的ですね。


さっき読み下し文をNETで見つけたので、それもコピペしておきますね。
あんまり素敵な経典なので、私の下手な翻訳より、
読み下し文で読んだ方が分かりやすいかもしれません。



爾の時。阿那律、故(ふる)き衣裳を縫へり。
是の時 眼、遂に敗壊して天眼を得、瑕穢有ること無し。
是の時 阿那律、凡常の法を以て衣裳を縫ひ、縷(いと:糸)をして針の孔中に通ぜ使(し)むることを得る能はず。

是の時阿那律、便ち是の念を作さく、
「諸の世間の得道の羅漢は当に我の与(ため)に針を貫くべし」と。
是の時世尊、天耳の清浄なるを以て此の音声を聞きたまへり、
「諸の世間の得道の阿羅漢は、当に我の与に針を貫くべし」と。
爾の時世尊、阿那律の所に至り之(これ)に告げて曰はく、
「汝、針を持して来れ、吾[汝が]与に之(これ)を貫かん」と。

阿那律仏に白して言はく、
「向(さき)に称説する所は、諸の世間の其の福を求めんと欲する者は、我の与に針を貫けと謂ふなり」と。

世尊告げて曰はく
「世間に福を求むるの人復た我に過ぐるもの無し。
如来は六法に於いて厭足有ること無し。
云何ぞ六と為すや。
一には施、二には教誡、三には忍、四には法説・義説。
五には衆[生]を将護し、六には無上正真の道を求む。
是れを阿那律、如来は此の六法に於いて厭足有ること無しと謂ふなり」と。

阿那律曰はく、
「如来の身は真に法の身なるに、復、更に何の法を求めんと欲したまふや。
如来は已に生死の海を度し、又愛著を脱したまへり。
然るに今日は故(さら)に、福の首(しゅ)為(な)ることを求めたまふや」と。

世尊告げて曰はく、
「是くの如し、阿那律、汝の所説の如く、如来も亦た此の六法を知りて、為に厭足無し。
若し当に衆生にして、罪悪の原(もと)、身・口・意の所行を知るべくんば、
終に三悪趣に堕せじ、其の衆生罪悪の原を知らざるを以ての故に、三悪趣の中に墜堕するなり」と。

爾の時世尊、便ち此の偈を説きたまわく、

世間に所有の力 天・人の中に遊在するに
福力最も勝れ為(た)り 福に由て仏道を成ず。

是の故に阿那律、当に方便を求めて此の六法を得べし。
是の如く諸比丘、当に是の学を作すべし」と。
爾の時、諸比丘、仏の所説を聞いて、歓喜奉行しぬ。


http://labo.wikidharma.org/index.php/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E3%81%82%E3%81%AC%E3%82%8B%E3%81%A0
連投すみません。
雑感をいくつか。



「福に由て仏道を成ず」
という言葉から、仏道とは衆生の幸せによって成るものだと分かります。

衆生の幸せのために働くとは、世界の調和のために働くことであり、
世界の調和のために働くことそのものが、自己の幸せとなるところに、
仏の悟りというものがあるのだと読み取らせていただきました。
法とは、調和をもたらす規範と考えた方が、最もすっきり分かりやすいのかもしれません。



「是の故に阿那律、当に方便を求めて此の六法を得べし」
というところの「方便」は、「嘘も方便」の方便ではなく、
そのままに「仏に至る道(如来に至る道)」と読み取りました。



「便ち是の念を作さく」や
「是の時世尊、天耳の清浄なるを以て此の音声を聞きたまへり」
という表現からは、むしろアヌルッダは声に出してお願いすらしておらず、
「誰か手伝ってくれたら助かるなあ…」
くらいに思っていたところに仏陀がやってきて、
お願いすらされていないのに
「どれ、貸してごらん」
と言ったような風景も思い浮かびます。
むしろ、そのように解釈した方が、より実際に近いのかもしれません。

もちろん、「天耳」をテレパシー的に解釈したい方もいるかもしれません。
それはそれで良いと思います。



ちなみに誰かご存知なら教えて欲しいのですが、
このお経は、ニカーヤ(パーリ経蔵)には収蔵されているのでしょうか?
このお経はアーガマの『増一阿含経』に収蔵されており、
『増一阿含経』はニカーヤの「増支部」(アングッタラ・ニカーヤ)に対応しているというところまではNETで調べて分かったのですが、アーガマとニカーヤの対応は完全ではなく、中にはニカーヤだけにあったりアーガマだけにあったりするお経もあると聞いています。
このお経はどうなんでしょうかね。
なんとなく、大乗っぽい匂いがするので、アーガマだけに収蔵されているのかもしれないなと思っています。
もちろん、私は大乗非仏説論者ではないので、もしそうだったとしても、このお経の素晴らしさは一切損なわれないと思いますが、両方に収蔵されていた方が、すっきり分かりやすくていいな、とは思っています(笑)。

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