ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

仏教コミュの★長文注意★アングリマーラ経典全文データ化しました

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
わたしはこのように聞いた。
あるとき、世尊はサーヴァッティーにあるジェータ林のアナータピンディカの森に住んでおられた。
その頃、パセーナディコーサラ王の国には、アングリマーラという名の盗賊がいた。かれは残忍で、手は血塗られており、人を殺すことに固執しており、生きとし生けるものに対してあわれみをもたずにいた。
それゆえに村々も村ではなくなり、多くの町も町ではなくなり、国々も国ではなくなった。
その男は、人々を殺しに殺して〔その人たちの〕指で作った首飾りを身につけていた。
そのとき世尊は、朝早く内衣を着て鉢を手にもち、上衣を着てサーヴァッティーに托鉢に入った。
サーヴァッティで托鉢にまわった後、臥座所をたたんで鉢を手にとり、上衣を着て盗賊アングリマーラがいる道に進んだ。
そのとき、牛飼いや山羊飼いや農夫や走っている人々が、盗賊アングリマーラがいる道に進んで行く世尊を見た。
世尊を見て、こういった。
「沙門よ、この道を行かない方がいい。沙門よ、この道には、アングリマーラという名の盗賊がいます。かれは残忍で手は血塗られており、人を殺すことに夢中になり、生きとし生けるものにあわれみをもたずにいました。だから村々も村ではなくなり、多くの町も町ではなくなり、国々も国ではなくなりました。その男は、人々を殺しに殺して指で作った首飾りを身につけているのです。
じつに沙門よ。この道を十人の人々も、二十人の人々も、三十人の人々も、四十人の人々も集まって進みました。かれらもまた、盗賊アングリマーラの手中におちたのです」
こういったとき世尊は、沈黙されて行った。

二度目にも、牛飼いや山羊飼いや農夫や走っている人々は世尊にこういった。
「沙門よ、この道を行かない方がいい。沙門よ、この道には、アングリマーラという名の盗賊がいます。かれは残忍で手は血塗られており、人を殺すことに夢中になり、生きとし生けるものにあわれみをもたずにいました。だから村々も村ではなくなり、多くの町も町ではなくなり、国々も国ではなくなりました。その男は、人々を殺しに殺して指で作った首飾りを身につけているのです。
じつに沙門よ。この道を十人の人々も、二十人の人々も、三十人の人々も、四十人の人々も集まって進みました。 かれらもまた、盗賊アングリマーラの手中におちたのです」
二度目もまた世尊は、沈黙されて行った。

三度目にも、牛飼いや山羊飼いや農夫や走っている人々は世尊にこういった。
「沙門よ、この道を行かない方がいい。沙門よ、この道には、アングリマーラという名の盗賊がいます。かれは残忍で手は血塗られており、人を殺すことに夢中になり、生きとし生けるものにあわれみをもたずにいました。だから村々も村ではなくなり、多くの町も町ではなくなり、国々も国ではなくなりました。その男は、人々を殺しに殺して指で作った首飾りを身につけているのです。
じつに沙門よ。この道を十人の人々も、二十人の人々も、三十人の人々も、四十人の人々も集まって進みました。
かれらもまた、盗賊アングリマーラの手中におちたのです」
そこで世尊は、沈黙されて行った。

盗賊アングリマーラは、世尊が遠くからやって来るのを見た。見てかれはこう思った。
「じつに不思議なことだ。じつに未曾有のことだ。じつにこの道を十人の人々も、二十人の人々も、三十人の人々も、四十人の人々も五十人の人々も集まりに集まって進んだ。かれらもまたわたしの手中におちた。
ところがこの沙門は、一人で連れもなく無理やりやって来ているように思う。一体わたしは、この沙門の命を奪うべきかどうか」 と。

そのとき盗賊アングリマーラは、刀と楯を取って弓矢をつけて、世尊を背後から追いかけた。
すると世尊は、盗賊アングリマーラが自然に歩いている世尊を、全力で追いかけても追いつくことができないように、神通の行為をなした。
そのとき盗賊アングリマーラにはこの思いが起こった。
「じつに不思議なことだ。じつに未曾有のことだ。なぜならわたしは、昔、走っている象をも追いかけてつかまえた。 走っている馬をも追いかけてつかまえた。走っている車をも追いかけてつかまえた。走っている鹿をも追いかけてつかまえた。ところがわたしは自然に歩いているこの沙門を、全速力で追いかけても追いつくことができないのだ」
立ち止まって世尊にこういった。
「沙門よ、止まれ。沙門よ、止まれ」
「アングリマーラよ、わたしは立ち止まっている。汝こそ止まれ」
すると盗賊アングリマーラには、この思いが起こった。
「シャカ族の息子であるこれらの沙門たちは、真実を語り、真実の誓いをもっている。ところがこの沙門は歩いているのに、『アングリマーラよ、わたしは立ち止まっている。汝こそ止まれ』といった。よし、わたしは、この沙門に尋ねてやろう」と。
そこで盗賊アングリマーラは、世尊に偈文をもって話しかけた。

「沙門よ、お前は、歩いているのに立ち止まっている、といっている。
そして、わたしが立ち止まっているのに立ち止まっていないとお前はいう。 お前にわたしはこの意味を尋ねる。
どうしてお前は立ち止まっていて、わたしは立ち止まっていないのか」

「アングリマーラよ、わたしは立ち止まっている。
つねに一切の生きとし生けるものに対して害心を捨てて。
ところが汝は、生きものに対して抑制をもっていない。
だから、わたしは立ち止まっているが、汝は立ち止まっていないのだ」

「じつに、久しくして、わたしが尊敬する大仙人である、この沙門が森に現れた。わたしは、長いあいだ悪を捨てましょう。真理にかなったあなたの偈文を聞いて」
こういって盗賊は、刀と武器とを、深い山あいや崖や岩の割れ目に投げ捨てた。
盗賊は、如来の足元にひれ伏した。
そこでかれに出家を願い出た。
また、慈しみ深い仏、大仙人、天人を含む世間の師は、かれに、「来れ、比丘よ」とそのときいった。
このことばは、じつにかれが比丘となることであった。


時に世尊は、長老アングリマーラ随従沙門とともに、サーヴァッティーに向かって遊行にいった。次々と遊行を行ないつつサーヴァッティーに至った。そこでまさに世尊は、ジェータ林のアナータピンディカ園に止まった。

ところがその頃、パセーナディコーサラ王の王宮の入口に多くの人々が集まって、高声、大声を立てていた。

「王様、あなたの国には、アングリマーラという名の盗賊がいます。かれは残忍で、手は血塗られており、人を殺すことに夢中になり、生きとし生けるものに対してあわれみをもたずにいます。それゆえに村々も村ではなくなり、多くの町も町ではなくなり、国々も国ではなくなってしまったのです。 その男は、人々を殺しに殺して指でつくった首飾りを身につけているのです。王様、その男を防いで下さいますように」 と。
そこでパセーナディコーサラ王は、五百頭の馬とともにサーヴァッティーから出て、早朝に森に向かって出発した。 乗り物のための道があるかぎり乗り物で行ったあと、乗り物から下りて歩兵のごとく世尊のもとに近づいた。近づい て世尊を礼拝して一隅に座った。時に一隅に座ったパセーナディコーサラ王に世尊はこういった。
「尊者よ。わたしはマガダ国のセーニヤビンビサーラ王を攻めようとしているのではありません。あるいはヴェーサ ーリーのリッチャヴィー族をでもありません。あるいは他の敵王たちをでもありません。
尊者よ、わたしの国にアングリマーラという名の盗賊がいます。かれは残忍で、手は血塗られており、人を殺すことに夢中になり、生きとし生けるものに対してあわれみをもたずにいます。それゆえに村々も村ではなくなり、多くの町も町ではなくなり、国々も国ではなくなってしまったのです。その男は、人々を殺しに殺して指でつくった首飾りを身につけているのです。 わたしは逃がしません」と。

「大王よ。でも、もしもあなたが、髪と髭を剃って袈裟衣をまとい、家ある状態から家なき状態に出家し、生きものを傷つけることをやめ、与えられないものを盗むことをやめ、うそをつくことをやめ、一日に一回だけの食事をし、梵行を行じ、つつしみをもち、善い性質をもっているアングリマーラを見たなら、あなたはどうしますか」

「わたしは敬礼いたしましょう。尊者よ、立って迎えましょう。 座をすすめて招待しましょう。また、法衣と托鉢食 と臥坐具と病人の資具である薬と必需品をかれに供養しましょう。かれのためにふさわしい保護と覆いと警護を用意 しましょう。しかし、いましめを守らず、悪い性質のかれに、このようなつつしみ深い抑制がどうしてできるでしょうか」

そのとき、長老アングリマーラは、世尊から遠くないところに座っていた。そこで世尊は、右手を差し出してパセーナディコーサラ王にこういった。

「大王よ、これがアングリマーラです」

すると、パセーナディコーサラ王には、恐れが生じた。体が硬直するような状態になった。 身の毛がよだった。そこで世尊は、パセーナディコーサラ王が恐れ、身の毛がよだつほど驚いているのを知って、パセーナディコーサラ王にこういった。

「恐れることはないのです。大王よ、恐れなくてもよいのです。大王よ。あなたにはかれからの恐れはないのです」 そのとき、パセーナディコーサラ王にとっての、恐れであり、体が硬直することであり、身の毛のよだつことであるものは静まった。

そのとき、パセーナディコーサラ王は、長老アングリマーラのもとに近づいた。近づいて長老アングリマーラにこういった。

「尊者よ、長老アングリマーラですか」

「その通りです。大王よ」

「尊者よ、長老の父上は、なんという姓ですか。母上は、なんという姓ですか」

「大王よ、父は、ガッガといいます。母は、マンターニーです」

「尊者よ、聖者ガッガマンターニーの子息は、お喜びください。 わたしは、聖者ガッガマンターニーの子息のために、法衣と托鉢食と臥坐具と病人の資具である薬と必需品のための努力をしましょう」
ところでそのとき、長老アングリマーラは、林住者であり、乞食者であり、糞掃衣者であり、三衣者となっていた。

長老アングリマーラは、パセーナディコーサラ王にこういった。

「大王よ、十分です。わたしにとっては三衣で十分です」

それから、パセーナディコーサラ王は、世尊のもとに近づいた。近づいて世尊を礼拝して一隅に座った。時に一隅 に座ったパセーナディコーサラ王は世尊にこういった。

「不思議なことです、尊者よ。未曾有のことです、尊者よ。これはそれほどのことです。尊者よ。世尊は、調御されない人々を調御する人であり、静まっていないものたちを静める人であり、涅槃に入っていない人々を涅槃に入らせ る人です。なぜなら尊者よ、わたしたちが罰則でも刀でも調御できなかった人が、世尊によって罰則も与えられず、 刀も与えられずに調御されたのですから」
「尊者よ、いまや、わたしたちは参ります。 わたしたちには多くのなさねばならない仕事があります」

「いまそのときだと、あなたはお考えなのですね。大王よ」

そのとき、パセーナディコーサラ王は、座から立ち上がって世尊に挨拶をして立ち去った。時に、長老アングリマーラは、早朝に衣をつけて鉢を手にもち上衣を着てサーヴァッティーに托鉢に入った。

時に、長老アングリマーラは、サーヴァッティーで順次に托鉢のために歩いていくうち、異常妊娠で、難産の一人の婦人を見た。
見て、かれにはこういう思いが起こった。
「ああじつに、人々は苦しんでいる。ああじつに、人々は苦し んでいる」と。
長老アングリマーラは、サーヴァッティーで托鉢にまわった後、食後に托鉢から戻って世尊のもとに近づいた。
近づいて世尊を礼拝して一隅に座った。一隅に座った長老アングリマーラは世尊にこういった。
「尊師よ、いま、わたしは、早朝に衣をつけて鉢を手にもち上衣を着てサーヴァッティーに托鉢に入りました。そのとき、わたしは、サーヴァッティーで順次に托鉢に歩いているうち、異常妊娠で、難産の一人の婦人を見ました。見て、わたしにはこういう思いが起こりました。『ああじつに、人々は苦しんでいる。ああじつに、人々は苦しんでいる』と」

「それでは、アングリマーラよ、汝はサーヴァッティーに近づきなさい。近づいてその婦人にこういいなさい。『姉妹よ、わたしは生まれてこのかた、故意に生きものの命を奪ったということを認めません。 その真実にかけてあなたに 幸せがあるように。 胎児に幸せがあるように』と」

「尊師よ、それでは、わたしが意識的にうそをついたことになるのではないですか。尊師よ、なぜなら、わたしによって、故意に多くの生きものの生命が奪われているのですから」

「それでは、アングリマーラよ、汝はサーヴァッティーに近づきなさい。近づいてその婦人にこういいなさい。 『姉妹よ、わたしは、聖なる生まれに生まれてこのかた、故意に生きものの命を奪ったということを認めません。 その真実にかけてあなたに幸せがあるように。胎児に幸せがあるように』と」

「そのようにいたします。尊師よ」

と、そのとき、長老アングリマーラは同意して、サーヴァッティーに近づいた。近づいてその婦人にこういった。

「姉妹よ、わたしは聖なる生まれに生まれてこのかた、故意に生き物の生命を奪ったということを認めません。その真実にかけてあなたに幸せがあるように。胎児に幸せがあるように」と。
すると、婦人は安楽になった。胎児も安楽になった。

そのとき、長老アングリマーラは、一人離れて精進し、努力し、専念して住していた。まもなく、そのために良家 の息子たちが正しく家から家なき状態に出家する、その無上なる梵行の究極を、現実世界において自ら証知し、体験し、会得して住していた。
「生は尽きた、梵行は完成した。なさるべきことは、なされた。さらにこの状態には戻らない」と、証知した。


そのとき、長老アングリマーラは、朝早く衣を着て鉢をもってサーヴァッティーに托鉢のために入った。
しかし、そのとき、他の人が投げた土塊が、長老アングリマーラの体にあたった。また他の人が投げた棒が、長老アングリマーラの体にあたった。
他の人が投げた小石が、長者アングリマーラの体にあたった。
そのとき、長老アングリマーラは、頭が傷つき、血が流れ落ち、鉢が壊れ、大衣がびりびりになって世尊のもとに近づいたそのとき世尊は、長老アングリマーラが遠くから戻って来るのをご覧になった。御覧になって、長老アングリマーラにこういった。

「婆羅門よ、そなたは忍受せよ。婆羅門よ、そなたは忍受せよ。そなたがその行為の果報として何年、何百年、何千年、地獄で苦しむであろう、その行為の果報を現在に受けているのだよ」
そこで、独りいて、独り定に入り、解脱の楽しみを受けていた長老アングリマーラは、そのときこの感興の偈をとなえた。

以前には放逸であったが、その人が不放逸になり、かれはこの世を照らす。雲を離れた月のように。
なされた悪い行為も、その人の善によってつぐなわれるなら、かれはこの世を照らす。雲を離れた月のように。
じつに若い比丘で、仏の教えに努力している者、かれはこの世を照らす。雲を離れた月のように。
わたしの敵たちは、法話を聞け。 わたしの敵たちは、仏の教えのもとで努めよ。
わたしの敵たちは、善き人たちが法に導いているが、その人たちに親近せよ。
わたしの敵たちは、忍耐を説く人々の、慈悲を称讃する人々の法を聞くがよい。
ときどき法を聞け、そしてそれを遵奉せよ。
かれは疑いなくわたしを傷つけない。しかも他の誰も傷つけない。 最高の寂静に到って動くものも動かないものをも守るであろう。
水の導き手は、水を導き、矢の作り手は、矢を矯正する。 大工は、木材を矯正し、賢者は、自己を調える。
ある人々は、杖や鉤やむちで調練する。
杖ももたず、剣ももたないそのような人によって、わたしは調練された。
以前に傷害者であったのにわたしの名前は、アヒンサカ(不傷害者)であった。 いまはわたしは、名前の通りである。わたしはどんな人をも傷つけない。
わたしは以前に盗賊であり、アングリマーラとして有名であった。
大洪水によって運ばれて仏に帰依した。
わたしは以前には手が血塗られ、アングリマーラとして有名であった。
帰依するところを見よ。生存に導く絆は根絶やしにされた。
そのような多くの悪しき世界に導く行為を行なった後、業果によって影響され、わたしは負債なく、食を享受する。
明知なき愚かな人々は放逸にふける。
しかし聡明な人々は、つとめはげむことを護る。最上の財産を守るように。 放逸にふけってはならない。 愛欲と喜びに親しんではならぬ。
不放逸で禅定に入るものは、広大なる楽しみに至る。
よく来て、離れない、これは、わたしにとって悪く考えられたことではない。
詳説された教えの中で、すぐれたもの、それにわたしは到達した。
よく来て、離れない、これは、わたしにとって悪く考えられたことではない。
三明が体得された。仏の教えが成しとげられた。


コメント(18)

こちらは上座部でしょうか。それとも大乗でしょうか。感謝。
>>[1] 南伝大蔵経です。つまり一般に言うところの上座部ですね。ただ、南伝が上座部だと言うのは彼らが自称しているだけです。歴史的には北伝も上座部を自称しており、学問的にはどちらが上座部であったか分かっていないはずです。
とはいえ、南伝は部派の大蔵経がほぼ完全な形で残されているので、その意味では初期仏教の姿を考察するのには非常に貴重な資料と言えます。
私自身も基本的には南伝を基礎として仏教を学んでいます。
南伝に残されているような仏教が発展する中で大乗仏教が生まれた、という時系列理解から見えてくるものはとても多いと感じています。
しかし。

アングラマーラ経からは、本当に学ぶところが多いです。
例えば、「私は立ち止まっている。汝こそ止まれ」と言われたアングラマーラは「沙門は嘘をつかないはずなのに何故だ」と不思議に思います。
ここで、釈尊は肉体的物理的には嘘であっても心の世界において真実であることを語っていたことが分かります。
「生まれる」という言葉もそうです。
肉体的物理的に生まれ変わるのではなく心が生まれ変わることを当たり前に真実として釈尊は語っています。
このような観点は非常に重要だと私は感じます。
釈尊には神通力があったと伝えられていますが、これも私は心の真実の話だと理解しています。
妊婦がアングラマーラの言葉で心安らいだこと、王様が釈尊の言葉で心落ち着いたことも、非常に示唆的です。

妊婦の恐怖は、痛みと、赤ちゃんが死ぬのではないかという恐怖、あるいは自分が死ぬのではないかという恐怖だと思われます。
文脈からは、妊婦はアングラマーラを恐れて恐怖しているのではありません。
しかし、アングラマーラが「私は生き物を傷つけたことがないから、そのことによって落ち着きなさい」と言ったら妊婦は落ち着いてしまう。

私はここには深い意味、深い仏教哲学があると感じます。

私たちは結局、何を恐れているのか。
人間は結局、何を恐れているのか。
私たちが恐れているのは、結局のところ、人間の悪意なのではないか。
私たちはいつも、人間の悪意のオバケをそこに見て、それを恐れているのではないか。
だからこそ、決して自分に対しても他の何者な対しても悪意を持たぬと信じられる人に会ったとき、人間はそれだけで救われるのではないか。

私たちは悪意を恐れ、憎み、避けて生きています。
悪意には悪意を返します。
残忍で慈悲もない凶悪な犯罪者は死刑にすべきと思ったりもします。
しかし、釈尊はスッタニパータの頃から、ずっと、憎しみに憎しみを返していては憎しみの消えることはないと繰り返し説いています。


アングラマーラの会った妊婦は何を恐れていたのでしょう。
単に痛みが恐ろしかったのなら、アングラマーラの言葉で心落ち着くことはありえません。
子供の産めぬ女となることが怖かったのかも知れません。
古い時代のことですから、子供を残せないことは、女として欠陥品のように扱われるようなことがあったのかもしれない。
あるいは、死ぬことが怖かったのかもしれません。
まだまだやりたいことがあったのかもしれない。
しかし、人は何のために生き残りたいと願うのか。
山奥で孤独に生きる人が生き残ろうと思うのか。
死が恐ろしいのは、社会に対して価値ある名を残したいけど残せない、その現実と向き合うからではないか。
ならば、なぜ、社会に名を残したいのか。
それは本当には、ただ、安心して、蔑まれず、馬鹿にされず、ちゃんと尊厳ある人間として扱われることを信じて、安心して生きたいからではないか。



私は誰のことも傷つけたことはない。
誰にも悪意を持たない。
妊婦よ、あなたのことも。
あなたがどうなろうが、どんな結末を迎えようが、私はそのままのあなたを尊敬する。
決してあなたを醜いと思うことはないし、あなたを憎むことはないし、蔑むことはないし、貶めることはない。
だから、そのことで安心なさい。
私は必ず、いつまでも必ず、あなたを傷つけない、あなたの味方なのだから、だからそのことで安心しなさい。


アングラマーラはそんなことを言ったのかなと思う。
>>[2]ふむふむ。仏教難しいっすね。
>>[3]ふむふむ。神通力、他のくだりでも幻をみせる能力があったときいています。
>>[5]
神通力は一般に六神通とも言われており、六種類が知られていますが、初期仏教では三明と言われ、3つが強調されます。
私は記憶力が弱いので間違っていたら恐縮ですが、記憶では三明とは漏尽通と宿命通と天眼通だったかと思います。
幻を見せる能力というのは神足通のことかと思いますが、これは経典ではテレポーテーション能力のことかと思えるような描かれ方をしています。
オウム真理教などでは、まさに麻原はこのテレポーテーション能力があったと信じられているようですが、ご指摘の通り、私もこれは一種の幻を見せる能力だったと受け取っています。

ただ、この「幻を見せる」というのも、言葉通り催眠術のように相手に幻を見せるというものではなくて、「相手に自分のことを思い出させる」というような能力だと受け取っています。


私は、よく釈尊のことを思い出します。
自分が煩悩に迷っているとき、あるいは煩悩のままに動いた自分を反省するときなど、私はよく釈尊を思い出します。
思い出して、改めて尊敬を深くしたり、自分の成長のモチベーションとしたりしています。
このようなことが、釈尊が自分の心に確かにテレポーテーションしてきたというような、そんな表現の経典になったのかなと思っています。

アングリマーラ経でも分かるように、昔の仏教修行者は心の世界のことを当たり前の事実として語ることが多くあったようですから、そのような表現になったのかなと思っています。

私が普段釈尊を思い出しているエピソードを経典風に表現するなら、
『私が自分の心の中の利己的な悪魔と討論しているとき、釈尊が神足通でどこからともなく現れて、「本当に利己的であるなら、自分の利益のために利他的であるべきではないだろうか」と言った』
というような表現になります。

そんな感じなのかなと理解しています。
う〜む、う〜ん。とりあえずこれにひかれています。知ってるつもり 釈迦https://m.youtube.com/watch?v=BhvWA-YWEaE
アングリマーラ経では、殺人鬼アングリマーラは生きながらにして聖者アングリマーラに生まれ変わったと主張することが、仏教の『嘘をつかない誓い(不盲語戒)』に反しないことが明らかにされています。
それは釈尊にとって当然の真実であったと思われます。
釈尊は肉体に起こっていることと同じくらい、心に起こっていることを真実として語ります。
私はここで輪廻転生の文脈で語られることを思い出さずにいられません。

それにしても、人の命とは何でしょう。
肉体が生きていて心臓が動いていれば、そこには命があると見ることもできます。
事実、現代の法律ではそうみなしているようです。
しかし、脳死の方は、その意志が死んでいると見る考え方もまたあります。
心の世界においては肉体の生き死によりも、意志の存在が重要と見ることもできます。
心の世界の真実を重要視していた釈尊もその考え方に近かったのではないかと私は思います。

この考え方をさらに深めていくと、脳死はもちろんですが、生きる意味を失い未来への意志を失ってしまった人は、心において死んでしまったと見ることもできます。
そしてさらに考えを進めるなら、肉体が死んでしまってもその意志が生き続けるなら、その人は死んでいないということになります。

私たちは、意志を繋いで生きています。
夢を繋いで生きています。
いたがきたいすけ
板垣退助の言葉に
「板垣死すとも自由は死なず」
という有名な言葉がありますが、
私たちの心に自由な社会を求める心が生きているなら、彼の心は私たちの中で生きていることになります。

私たちは夢を見て生きています。
ゴージャスな暮らしがしたいという人もいるでしょう。
愛する人とずっと一緒にいたいという人もいるでしょう。
これらの夢は、かつて誰かが同じように見た夢です。
夢が同一ということは、その心の大まかな意志の働きも同じということです。
となると、心の世界においては。肉体が別人であっても中身の心は同一人物であると言うこともできます。

私はこれが輪廻転生の文脈で釈尊が語っていたことなのかなと思っています。

大まかに、美味いものを食いたいだけたらふく食って生きたいというなら、その意志の下に生きる人は餓鬼道を歩んでいます。
性を貪りたい人、惰眠を貪りたい人は畜生道を歩んでいます。
愛の道を歩むなら、その人は天の道を歩んでいます。
と、そのような心の働き、つむがれ、繰り返される人の意志を、釈尊は輪廻と呼んだのではないかと私は思っています。
私の心が、あの意志に支配されたりこの意志に支配されながら、あちこちをさまよっている様子を真実の目で見て、まざまざと明らかに見て、そのことにいい加減嫌気がさして、意志を超えた人間観察の視点で、冷静に分別を待って生きることを、釈尊は覚りと呼んだのかなと思います。

分かるのと出来るのは偉い違いですが、少なくとも分かる気が私はします。
>>[10]スターさん キリストは慈愛、仏教は慈悲と世に語られますが、仰られるのは愛なんですね。
>>[12]

私の感覚の問題ですが、愛と慈悲は違います。
慈悲は慈悲喜捨ですから、捨の心があります。
捨の心は落ち着いていて、よく見えていて、動じない心です。
深く共感していても、相手に引っ張られて動揺したりはせず、さらには広く深く平等であるような心です。
天人にはその心はありません。
天人は愛情深く平和な心を待っていますが、それでも状況によっては嘆き、悲しみ、世を儚みます。
慈悲は仏の心です。
無量の心です。
嘆くことなく、悲しむことなく、落ち着いて、智慧に留まり、智慧を与える心です。

私たちが一般に考える愛は、天人の愛であり、慈悲ではありません。
という私の理解があり、このような表現になりました。
喜捨の心得、つまり喜んで金を捨てる、つまり布施することと覚えていましたが。
>>[14]
四無量心、で調べるといいですよ。
布施についても、無財の七施などで調べると参考になるかもしれません。

気持ち良いさわやかな気持ちで(喜)、落ち着いて浮つきのない冷静に心で(捨)、人に何か良い影響を与えようとするなら、それは素晴らしい布施であり喜捨ですが、本来、布施と喜捨は別々の概念です。
調べてわかりました。>>[15]スターさんへ。
訂正します。
天人には慈悲がないと発言しましたが間違いでした。
慈悲は梵天の境地なので、まさに天人の境地でした。
すみません。
記憶違いでした。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

仏教 更新情報

仏教のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。