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仏教コミュの荒らしはスルー

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「自分だけが正しく、ここにいる他の奴らが間違ってる」
という意見には、何の価値もありません。
そんな意見を重視する必要は全くありません。

「自分だけが正しく、ここにいる他の奴らが間違ってる」
という意見には検討すべき価値はないのですから、
そのことについて考えたり、議論をしたり、
感情を動かされたりする必要は全くありません。

あなたの貴重な時間も、あなたの大切な真心も、
「自分だけが正しく、ここにいる他の奴らが間違ってる」
という、無価値な意見に付き合うより、
もっと価値があることに使った方が良いです。

無価値な意見のために考えたり、文章を書いたりすれば、
「自分だけが正しく、ここにいる他の奴らが間違ってる」
という無価値な考え方があなたの心に住み着きます。
それは、決してあなたを幸せにしません。


世界には、様々な意見や考え方があります。
正反対の意見や考え方は、正反対であるが故に良く似ており、
正反対であるが故に、お互いに否定し合いがちです。
そしてその否定は、そのまま自然に、
お互いに相手の気分を害そうというモチベーションにも繋がります。
このような悪循環に付き合ってはいけません。
それはあなたを幸せにはしないのです。

あなたを幸せにするものと付き合いましょう。
あなたを幸せにするものとは「信頼する」という経験です。
あなたを幸せにするものとは「感謝する」という経験です。
あなたを幸せにするものとは、
「自分に出来ることで、他者を喜ばせる」という経験です。

もちろん、
信頼と感謝と親切心によって幸福であることは、簡単なことではありません。
信頼と感謝と親切心によって幸福であることを邪魔するものが、
あなたの心の中には、いつだって無数に生まれて来るはずです。
人間なのですから、それはあって当たり前です。

しかし、「邪魔するもの」に支配されずにいることは可能です。
そのためには、それが「邪魔するもの」であることを知ることです。
そして、「邪魔するもの」から離れるための
心の使い方、身体の使い方を学ぶことです。

そのためにも、とにかくまずは、
自分の中に生まれる「邪魔するもの」を知ってください。
自分の中に生まれる「邪魔するもの」を知るのが智慧であり、気付きです。
気付いたら、「邪魔するもの」から離れて、幸福でいてください。


「荒らしはスルー」という言葉があります。
まさに、「荒らしはスルー」することが仏教だと私は思います。
荒らしをスルーして、煩悩をスルーして、有意義なことに時間と真心を使い、
今ここで幸福でいることを、仏陀は私たちに教えたと思います。
仏陀は私たちが幸せになることを誰より望み、
私たちが幸せであることを、誰よりも喜んでいると思います。

コメント(436)

>>[394]

悟って、もしかして自分のこと言ってます。。。?
>>[396]

さとるさんもヴィパッサナーやってるから見えるのかなと思いました。
スマートフォンかパソコンの文字を見ているだけの事で、それに反応するのは主観という妄想に対してですからね。
在るがままに見たら、それだけの事です。
『同じものを見ても、読んでも感じ方は人それぞれだということをしっかりと認識する



http://s.ameblo.jp/ayukawamidori/entry-12155365100.html?timestamp=1461969654
>>[398]

でも、それを言ったら、言葉で傷つくなんてことは原理的に無くなりませんか?
実際、誰かの発言から見える、例えば裏切りとか、無関心とか、悪意とかで傷つくことはあるわけですから。
それが妄想であれ、傷つくことはありえないことではないのではないかと。

自分の言った見切りってのは、相手が自分に対して揺さぶりをかける能力が現実的にないってのが見えている、ということです。多分、武道で例えば間合いみたいな話です。
>>[401]

宇宙が無常、無我ならば自我など妄想です。
だから言葉で傷つくことは自我があると思い込んでいるだけで、妄想で傷ついているという事になります。
例えば私は日本語しか判らないのでアラビア語で何を言われても傷つかないでしょう。
しかし同じ言語なのに日本語では傷つくと思い込んでいるだけです。
実際はただの文字が見えているだけだったり、音が聞こえているだけの事です。
日本語という殆ど日本民族内でしか判らない共同幻想で成り立っているだけで、べつに日本語やアラビア語に普遍性などありません笑
私達の中でのお約束ごとで決めている幻想です。
幻想で傷つくのは在るがままに見ていない事になります。
>>[402]

失礼。言葉それ自体で傷つくことは、ないかも知れないですね。

言葉で傷つくってのは、厳密に言えば、言葉のやり取りを通しての意識のやり取りの中で、相手の意識に含まれる悪意や無関心や裏切りで傷つくってことを指したつもりです。
意識って言いかたで、言いたいことは伝わると思いたいですが。
>>[403]

意識も自我ではないということですね。
全ては無常、無我ですから、
たんに五蘊に反応しているのが自分の意識だと思って、それに執着しているだけなんです。
これを正念で観れば無我ということが判り、在るがままに正見できるようになるのです。
悪意とか無関心とかは五蘊からの反応を自我だと思い込んでいるだけです。
それは無我ですからね。
自分が漠然と思うのは、
読むとか考えるとかは、歩く走ると同様の機能なので、使えばいいと思うんだよ。
歩く走ると違って、観察はできないけど、
出来ないだけで同じだと思う。

感情も、一種の機能だから、バーンと怒りが吹き上げてもいいんでないのかなあ。
ジセンさんは坐禅のときに詠んだり考えたり感情的になったりしますか?
なるほど。
働きとしては、「妄想を追いかける行為に似ている」ですね。
>>[406]
私は妄想繁多なんで。
坐禅中、少年時代の失恋とか思い出してカーと赤くなったりします。
なるほど!大乗的な在るがままですね(^^)
私も以前は妄想を消すことで必死でしたが、今はただ気づいて傍観というのでしょうか、そんな感じでさらっとみてそのうち自然に消えていきます。
最近は落ち着いてきたのか何なのかはわからないですがゆったりと瞑想を楽しんでいます(笑)
自分も色々落とそうというところから離れてみてます。
すると、身体中が勝手に余計なもの落とそうとするみたい。
身体のことは身体にお任せして、自分は自分で坐禅に入っていればいいんだなと。
私は個人的には、量産型さんを無視してあげるのが何よりの優しさだと思います。
現時点では、量産型さんと会話することは、量産型さんの不幸な妄想をエスカレートさせることにしか繋がらないと思います。

私には、量産型さんが自分で自分の心身を傷つけているように見えますが、量産型さんと会話をしている方もまた、ご本人の意識するしないに関わらず、量産型さんが自分自身を傷つけるのを強力に助けているように見えます。
そうして自分と相手を傷つけているように見えます。

これはもちろん、私にそう見えるだけです。
他の方には、そう見えないかもしれません。
ただ、私にはそう見えます。
私は、量産型さんを今は無視してあげるのが一番の優しさだと思いますし、このような私の意見に賛同する方が増えることを望みます。

そっとしておくのが一番だと思うんだけどなあ。
いえ?黒いもなにも、中身からっぽですよ?
黒いものを指さしているだけだと思う。気を引くために。
私も、大悪人気取ってる、ちっちぇ奴と思います。
私は絡みたいコメントのときだけ絡みます。
不正解ですとかバカとか言われることもありますが、そうかも知れないので気にしません笑
それ以上、議論にもならないので楽ですね。
他人は自分の思うようにならないものです。
その人が幸せを感じたり自分が正しいと思うのであれば、
こちらは何も言わないのが良いかと思います。
暴言や相手を不快にさせるのであれば放っておくのが良いかと思います。
諸法無我。批判や正邪を言う時点で自我がありますので
無我であるならば他人の見解を受け入れる。ただ悪しきことは無視する。
そのようにすれば穏やかな心で生活できるのかなと思います。
長文失礼しました。
量産型さんは、このコミュニティーが大好きなのだと思います。
量産型さんにとって、本当に手ごろな遊び相手が、ここにはたくさんいるのだと思います。

量産型さんの遊びは、自分がなんとなく面白いと思った文章をコピペすることと、それに否定的な反応をする人を揶揄することのようです。
量産型さんにとっては、それがとても楽しく、一種の趣味であり、生活の一部でもあるように見えます。
それはそれで、しょうがないことで、見方によっては微笑ましいことでもあります。

私は、私や誰かが量産型さんに話しかけたり、量産型さんのコピペに反応することは、
量産型さんが相手を揶揄したり新たなコピペのネタを見つける、とても楽しい材料になっているのだと思います。
量産型さんは、本当にこのコミュニティーでのやり取りを楽しんでいるように見えます。


しかし、
「自分がなんとなく面白いと思った文章をコピペすること」
「それに否定的な反応をする人を揶揄すること」
という行為・思考・習慣が、量産型さんを幸せにすることはないと思います。
このような行為・思考・習慣が量産型さんに根付くことは、誰にとっても、とても残念なことだと私は思います。

このコミュニティーには、自らの心と真剣に向き合い、哲学や宗教から自分の人生の糧を得ようとしている人がたくさんいます。
ここでは多くの人が、てらいなく語り合い、学び合っています。
それはとても素晴らしいことだと思います。
しかし量産型さんがしているのは、そのような対話ではありません。
量産型さんは、自らの心と真剣に向き合い、哲学や宗教から自分の人生の糧を得ようとしているようには見えません。
量産型さんがしているのは、コピペしたり他者を揶揄したりするという、量産型さんにとっての日常的なお遊びだと思います。
このようなお遊びに付き合うのは、そろそろ止めませんか?
私は量産型さんの遊びには付き合わないのが、人の優しさ、人の情けだと思います。

このような私の意見は
「みんなで無視しようぜ」
と言っているのと同じですから、不快に感じる人もいるかもしれません。
しかし、コピペと揶揄を繰り返させる材料や燃料を与え続けることが量産型さんの幸せにならないことは明らかだと私は思います。

「独り言」のトピックは、すでにpart10に至っています。
類似トピックを含めれば、1万回以上の対話が、すでになされました。
もちろん、その1万回以上の対話により、何か素晴らしいことを学んだ人もいるかもしれません。
しかし、この1万回以上の対話が、量産型さんをどれだけ幸せにしたでしょうか?
量産型さんは、ますます、この残念な遊びに、のめりこんでいるように見えます。
本当に、もうそろそろ、量産型さんの遊びである「コピペと揶揄」に燃料を与えるのは、終わりにするのが良いと私は思います。

私のこのようなコメントも燃料になるかもしれませんが、
このコメントが、人を不幸にする遊びを終わらせるきっかけになることを祈ります。
量産型さんの幸せのために必要なのは、
皆さんの温かい助言でもなければ、冷静なアドバイスでもなく、
厳しい叱咤激励でもなければ、怒りに任せた侮辱でもなく、
根気強い対話でもなければ、的確な突っ込みでもなく、静かな無視だと私は思います。


私に悟りの光が訪れますように。
皆さんに悟りの光が訪れますように。
私と皆さんに三宝のご加護がありますように。
>>[420]
おっしゃる通りです。
そもそもこのコミュニティは互いに仏教を学び、志しを高め合うものではないでしょうか。
それが揶揄、批判、罵詈雑言が飛び交うので私も一定期間コメントしましたが、
静観や傍観しているとせっかく仏法を学ばれている皆さんが、心清らかな皆さんが罵り合うのか
見るに耐えないです。
確かに悪しきことを指摘し改めさせることは大切な菩薩行ですが、
己の心を、言葉を汚すようであればしないほうがいいのではないでしょうか。
人それぞれ考えや心のレベルは様々ですが、積み上げてきた心の善なるものを
己で壊してしまうのは余りにももったいないように感じます。
長文失礼しました。
お釈迦様はいつも
「やさしく、思いやりがある、穏やかな言葉で語りなさい」
と弟子に教えていましたが、あるとき弟子が
「もし乱暴な言葉で悪口を言われたらどうしますか?」
と質問しました。
するとお釈迦様はこう言いました。

「確かに、人間は自分を悪く言われたとき、
自分の仕事を悪く言われたとき、
自分の家族を悪く言われたとき、
自分の友達を悪く言われたとき、
自分の大切にしているものを悪く言われたとき、
相手にも同じように悪く言い返したくなるものですね。
しかし、そのとき、相手に悪く言われたからと言って、
あなたも相手に悪く言い返すならば、あなたには何の利益もありません。
あなたには不利益しかありません。
しかしもし、そのように悪く言われてもあなたが悪い言葉を返さず、
心をやさしさで満たし、思いやりで満たし、
穏やかな言葉で語るなら、あなたには素晴らしい利益があります。
やさしい気持ちを持つことによってあなた自身が幸せになります。
相手の悪口に悪口を返さずやさしさを失わないことで、
あなたの信頼は高まります。
尊敬が集まり、賞賛が集まり、
そのことがあなたを全ての面における成功へ導きます。
ですから悪い言葉にも悪い言葉を返さず、
心を優しさと思いやりで満たし、穏やかな言葉で語りなさい」


すると別の弟子が聞きました。
「相手が悪いことをしていて注意しなければならないときはどうしますか?」
するとお釈迦様はこう言いました。

「相手に注意するときにも、もちろん穏やかな言葉で語りかけるべきです。
相手に注意するときには、次の四つのことに気を付けるべきです。
一つは、時と場所を選ぶことです。
相手の状態をしっかり観察して、
相手が最も注意を聞き受けやすいときを選んで注意することです。
二つには、相手の利益のために語ることです。
相手の失敗や悪いことを責め立てるために語るのではなく、
相手が今より幸せになるために語ることです。
三つには、心をやさしさと思いやりで満たすことです。
怒りの気持ちや嫌悪の気持ちで語るのではなく、
やさしい思いやりの気持ちによって語ることです。
四つには、やさしく穏やかな言葉で語ることです。
乱暴ではなく、誰にとっても好ましい、穏やかな言葉で語ることです。
以上のことにおいて、あなたがあなたなりに最善を尽くすとき、
あなたには必ず大きな利益が訪れます。
あなたはその努力によって、必ず今よりもっと素晴らしい、
幸せなところに生まれ変わります。」



私の脚色もありますが、お釈迦様の教えとは、このようなものだと思います。

このような素晴らしい教えに触れた人は、
そのまごころに触れた人は、
その人にとっての最善を尽くすでしょう。
ですからもちろん、すでに誰もが、その最善を尽くしているのだと思います。

忘れている人は、思い出すことで、幸せになれると思います。
>>[422]


素晴らしい言葉を紹介いただき、ありがとうございます。


自身にも思い当たることがたびたびあります。肝に命じます。

(`・ω・)ゞ
>>[422]

このような経典を幼い頃から当たり前のように読み聞かせられたら、とても素晴らしい人間教育になりますね。
実際は私たちの各家庭は、まったくそれぞれの親のやりたいようにやっているだけだったり、親の性格や習慣を絶対の規範として子供に押し付けるものだったり、マスメディアが面白い娯楽として見せつける対人関係や話法をそのまま無意識の洗脳として子供たちに浴びせるままにしていたり。

何より私たち大人がこのようなブッダの指導から、今さらながら学ばなければならないと思います。
スターさん、あらためてはっきりと教えて下さいまして、どうもありがとうございます。
まだまだ修行の足りない自分をもう一度、ありありと教えていただきました。
いかに心がまだまだ定まっていないか、あらためて自己に直面させていただきました。
>>[422]

いつも素晴らしい言葉、ありがとうございます
(^∇^)
心に刻みました

合掌ハート
>>[421]

ブッダの弟子への教え諭しが決して荒々しく汚れた言葉にならないその美しさに触れた時、私たちはそれはそのままブッダの人格において実現された身口意すべてにわたる清らかさなのだと受けとめられる。
彼が父親の王宮でまだこの世の快楽に半ば溺れていた時には依然、みずからの中で勢力を持っていた身口意それぞれの不善の業から完全には自由になっていなかったものを、
明らかに発心して王宮を捨てた後の修行によって、ついにその無上正等覚の自然なる顕(あらわ)れとしての人格を実現されたその生きた模範を、私たちはブッダに見ることができますね。
仏陀の教えによって頭上の崖から落ちてくる大石が見えるようになっても、
心の使い方が未熟であれば、心はその石を避けられません。
乱暴な言葉という石が見えているのに、石に当たって血を流してしまいます。
幸せでいるためには、心を自由に動かせるようにならなければなりませんね。
戒・定・慧というのは3つでありながら同じ1つのことだと、本当に思い知らされます。
乱暴な言葉によって傷つき、苦しみ、心の中で大いに泣いてしまう人がいるのだということをしっかりと認識して、そうした他人の心を深く思いやることが大切であるとともに、

乱暴な言葉など、この世の他のことすべてと同じように幻みたいなもので、全然私はそれによって傷つけられることなどないし、それによって傷つけられると考える固く守るべき執着物も一切私には無いという心の境地を実現することが大切ですね。
乱暴な言葉など、この世の他のことすべてと同じように幻みたいなもので、全然私はそれによって傷つけられることなどない
量産は、人を傷つけて業を積む専門だもんね
(^∇^)
他者の乱暴な言葉によって私が傷つくことはありません。
「他者の乱暴な言葉によって私が傷つく」というのは幻想です。
実際には、他者の言葉に乱暴を見て、乱暴を返そうとする心が生起することによって、私の心が傷つきます。

落ちてくる大石とは、自分の煩悩です。
乱暴な言葉を自分に喋らせようとする心です。
それがよく見えているとき、智慧があります。
それが自らを傷つけるものであると知っているとき、戒があります。
それを避けられるとき、定があります。

ニルバーナとは煩悩がないこととは言われません。
煩悩を吹き消し、煩悩を滅し尽くすことがニルバーナと言われます。

人間は環境の一部です。
私の心は私の中にあるのではなく、環境そのものと一体です。
美しい景色のあるとき、私の心は安楽です。
善き言葉と親しむとき、私の心は安楽です。

あるとき、善なる友があることは、聖なる道の全てであると仏陀は説きました。
善なる友とは、善なる言葉を語る友です。
その善と親しむことが、聖なる道の全てなのです。

俗世間には、乱暴な言葉があります。
人間の心は環境の一部ですから、乱暴な言葉に出会えば、自然と乱暴な言葉を返したくなる心が生起します。
しかし、その生起するのをありありと見て、それは自分を害するものだと見て、その生起する心から離れるとき、それがニルバーナなのだと思います。
そうだったけな?
私の心が安泰なとき、景色が美しく
私の心が安泰のとき、世間の言葉が優しいんじゃないかな。

もし世間の言葉で、私の心が波立ったとき、
ああ波立ったな、とスルー出来ればいいし、

波立ったら波立ったままに、お念仏すればええと、古徳は言われたように思う。
私達には、心から環境を変えれる手段がある。

しかし、環境から作用する事と心から作用する事があるのは変わらない。
>>[433]

その通りと思うよ。

もし世間の言葉で、私の心が波立ったとき、
ああ波立ったな、とスルーしたり、
波立ったら波立ったままに、お念仏するというのは、
乱暴な言葉を返したくなる心が生起するのをありありと見て、
それは自分を害するものだと見て、その生起する心から離れることそのものだと思う。
>>[435] スター
自分のコメントを思い返してみて、
外境も内境も、区別無いんだった。
風が吹けば旗がパタパタするのは、同時だったんだと思い返した次第。

内整えれば外整うし、外整えれば内整う。

しかし私は、内も外も無風状態まで整える気がないのよね。
気詰まりだから。

私らが習ったのは放置だから、
煩悩が生じるところをアリアリ見ると言うよりは、煩悩が消えて行くところをアリアリ見る、と言ったほうが近い。

ほっときゃいいのとわかると、見なくていいので楽って気がする。


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