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仏教コミュの止(サマタ)と観(ヴィパッサナー)

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サマタは禅定(ジャーナ)を生み出す修行。
禅定とは定(サマディ)によって心が一つのことに集中して揺れ動かないようにして、刹那定から近行定、さらに根本定(心一境性の定)に到達した状態を言い、
四段階の色禅定とさらに上の四段階の無色禅定がある。
禅定においてはさまざまな煩悩が静まり解脱と似たような状態になるが、あくまで一時的なもので元にもどる。それゆえに世間解脱とか動解脱とか鎮伏解脱などと呼ばれる。
八聖道の一要素である正定はこのうち第四禅を目指すものだが、それは刹那定と近行定の間の観定(ヴィパッサナー・サマディ)を用いてヴィパッサナーを修習するためだとされる。

サマタは禅定の最高段階、すなわち非想非非想処定までしか達成できず、不還者ないし阿羅漢がその上の想受滅(あるいは滅尽定)に至るにはサマタのみでなくヴィパッサナーも成就しなければならないとされる。

(以上、テーラワーダ仏教における教説に従いました。)

コメント(102)

そういう感じで無くて、六根罪障を滅除するだけが修行なら、生きるということが、虚し過ぎはしないかっていうことです。
不足を補うことも人生。例えば、慈悲の心は人生経験によって育つ、と考える訳です。
来週テストあるってのに、少しだけ実況中継ヴィパッサナーを、ちょいちょい始めてみています。
最初の方は、細かい動きも観察し始めて、頭の中の実況中継の言語化が追いつかなくなったのですが、実況中継を条件反射化するように身体の動きをトリガーに言語化するようにスイッチ入れたような感じのことをしてみました。
したら、身体中が同時にあちこちでボソボソと実況中継を始めるような感覚に陥り。
なんかすげえや、と思いながらそのまま放っておいたら、いつの間にか聞こえなくなっていました。

それからは、気がついたときに歩行時に頭の中で実況中継するようにしていたのですが。。

その効果なのかどうかは分かりませんが、自分の思いつきの思考とか衝動的に生まれる思いとか、そういうものの原因をなんとなく探ってみたりするようになってきました。

元々、誰でも自分自身を客観的に観察する機能みたいなものがあると思うんですけど、少なくとも自分のはけっこうザルで捉えきれないものが多かったんですけど。なんか自身への観察機能が活性化しているのかも。というのが感想としてあります。

あと、実況中継ヴィパッサナーの影響かどうかは分からないですけど、最近感情的に怒ることがほとんどないです。瞬間的にはあるかも知れないけど、「大便して仕事してたらどうせ忘れるだろうしなぁ」くらいのことにしか思わなくなってきたというか。実際、怒りの内容をサッパリ思い出せないし。
自身の負の感情に対して、えらい客観的になってきているかも。

でも、自分のヴィパッサナーはえらい雑にやっていると思うので、その効果で上記のようになったかは、正直不明です。むしろ、ただの一時的な偶然って捉えるくらいで丁度いいかも。
>>[64]

やはり禅定のある方は上達が早いですね〜(*^^*)
私は座禅やってみて未だ効果無しです(^^;
>>[65]

いやいや、何から何まで錯覚かもしれないですよ。。?
>>[66]

元々、全てが現象という錯覚ですから、良いと思える錯覚が真実なのでしょう笑
>>[61]

ちょっと質問よろしいでしょうか?
ヴィパッサナーをやり込むと、意識のやり取りをしている最中も自身の意識の動きなどを観察するものなのでしょうか?

例えば、街でカレー屋の看板を見る、という行動の観察。
カレー屋の看板を見る、というのは、眼球運動や首の筋肉の運動を観る、ということはあると思います。
でも、文字を読んでいるその最中は、文字を読んでいる意識の動きを観察できるものなのでしょうか?
それは2つの意識を同時に動かす、ということで、現実的に不可能なように思えるのですが。。
読んでいる最中なら読む意識が、読み終わったら瞬間に自身を観察する意識に切り替わる、ならわかります。

実際のところ、どうなのかお伺いしたいのですが。
>>[68]

文字を読んではいけません。
「見た」だけで良いと思います。
読むのは思考になりますからね。
あと分析もしてはいけません。
歩行以外の首の動きや眼球の動きに気づき始めたら気づきの高速化の始りです。
ですから1秒間に多数の気づきが起こるということですね。
そうなると段々とラベリングができなくなります笑
>>[69]

今、このやり取りの中で、弐号さんは、文章を読んでいないのでしょうか?
文章を「見てる」だけ、なのでしょうか?
>>[70]

文字を読まないというのは飽くまでも瞑想中の話ですので、今のような思考を使うときに瞑想は無理ですね笑
しかし瞑想が進んで智恵があればそれも可能になります。
>>[71]

なるほど。ご返答ありがとうございました。
皆さんこんばんは。ふと、思い立ったのでコメントします。
最近瞑想をお昼休憩に15分、夜寝る前に30〜1時間坐るのですが、
仕事が最近ハードなため恥ずかしながら、夜坐るとそのまま寝ていることがありまして…
皆さんは眠気をいかように乗り切っているのかが知りたいと思いました。

>>[73]

むしろ眠い時は半寝か、やめて横になるかです。
私は夜は疲れて無理なので朝、起きたら一時間、瞑想してます。昼や夜と違って、あっという間に終わります笑
>>[75]
私の場合生活サイクル上どうしても夜になってしまいます。
昼休憩の合間10分くらい瞑想していますが。
とりあえず坐っていて寝てしまっても仕方がないのかなと思います。
近頃サマタ瞑想をするとスーっと意識が遠のいていく感じがします。
寝てしまっているのでしょうか?
変なこと聞いてすみません。
>>[76]

寝てしまっても全然、問題ないと思います。
サマタ瞑想は私はやってないので判りません。
申し訳ありません(^^;
>>[77]
大丈夫です。ありがとうございます。
明日は久々に河原で瞑想をしたいと思います。野鳥にごはんを与えながら。
最近は瞑想が唯一の楽しみかもしれません。
>>[78]

そうですね。たしかに段々と他の事には興味無くなってきますよね(^^;
>>[79]
お金がなくなると余計無欲になります。無駄遣い、買い食い等なくなりました。
暴飲暴食もなく程々の量で事足りるようになりましたし。
今も休業中と同じ1日2食ですが、肉体労働のためさすがにもう3食にしないとと思っています。
>>[80]

それはすごいですね。
私は食欲と睡眠欲はなくなりません。
後で身体に悪いのを観てしまって気持ち悪くなって後悔はするんですけど笑
>>[81] こんにちは。昨日はとても有意義に瞑想ができました。
結構蟻さん達がやって来て私の体を登り降りを繰り返していて、それに合わせて集中していました。屋外で瞑想すると気持ちが善いものですね。
>>[82]

釈迦はの時代は人里離れたところで虫にも這いずられながら瞑想していたんでしょうね。
現代にも同じことをされているのですからすごいことです(^^)
>>[83]
いえいえ、すごくはないです。ただ自宅でやるよりかは屋外で瞑想したほうが無常を感じやすいのです。最近は妄想というものがなくなってきた感じです。
普段から正見を意識して物事を観察するようにしています。
それに釈尊や多くの尊者達が行ったように森や林で瞑想をしてみれば何か感じられるかなと思い屋外での瞑想を始めた感じです。
自分の中にいる仏様に息を数えてもらうのって、ヴィパッサナーに似てるのかな。。。
別に気付き力があがるとは思ってないけど。。
>>[85]
そのような感覚でしたことがないので私にはわかりません。すみません。
ただ己の内にある仏性に触れるっていうことなのでしょうか?
>>[86]

自分では、多分そういうことなんだろうなと思っています。
仏性というか、自身の本性というか、ちょっと表現難しい気がしますが。

在家得度のときに開いたとか、
スターさんに語りかければ仏様が返事してくれるようなことを教わったとかのプロセスを経て、
今の状態になっています。
>>[87]
なるほど。自分の仏性に触れる…自分の善なるものに触れると同じで善いのでしょうか?
私はヴィパッサナー瞑想を始めて2年ばかりですが、初めは妄想妄想妄想の連続で己の汚いものを見てきましたが最近は善なる思考といいますか、虫が体に止まっても干渉しない、むしろようこそくらいな感じです。
在家得度。私も受けたいです。(笑)
>>[88]

仏性は善なるもの。。。
。。。うーん、どうだろう。
自分の根っこの、生命の本性みたいなもんだから、それを仏性と呼んだとしても、善も悪もないように思えます。
犬や猫や虫の生命そのものに、善も悪もないことと変わらないように。

まあ、在家得度受けたときには「いいことをしろ、悪いことすんな」とは言われましたが。
仏性って自我の無いところなんでしょうね。
私達は思考とか感情とか思いが自分だったり自分の意志だと思い込んでいますけどね。
それは自分じゃないんです。
それは瞬間、瞬間にどんどん勝手に沸き上がってくるものなんで自分の意志ではないんですよね。
業とか五蘊から現れてくるだけのものなんです。
そのような自我といわれているものに気づいて静かに見ているのが仏性であり本来の自分なんだと思います。
だから沸き上がってくる思考や感情や思いに振り回されてはいけない。
それを静かに見て理性的に判断しているのが本当の自分であり戒であり慈悲であり仏なのでしょう。
>>[90]
仏性なかなか難しいですね。
まだまだ未熟でした。精進しなければですね。
>>[90]

一つご意見いただきたいのですが。
本当の自分、というのは、自身の生命と呼ぶべきものの中に含まれている、と思いますか?
本当の自分を、仏性と呼んでもかまいません。
>>[93]

もちろん生命の中にです。思考や感情や思いを見ているのは生きている自分ですからね。
ただ起こる現象は思考も感情も含めて自分ではないということですね。

>>[88]
>>[89] さとるさん

ここでお二人が取り上げていらっしゃる問題はなかなかに難しいものですね。
私たちの中にある究極の清らかさに向かわんとする衝動より見たら、それは究極の善、よきことのように思える。だから、それを善ととらえ、肯定的にとらえるのも何ら問題ないように思える。
しかし、いったん善なる概念で言い表したなら途端に善悪の二元論の枠内でその片棒をかつぐもののように言い表され、言葉の罠にはまってしまう。すなわち、一切の二元論から脱却した究極を表現しきれないことになる。
というわけで、究極の善は普通に善悪の二元論を語る時の善を超えたものであり、この事情ゆえに言語化が困難であり、真相はおのおのにおいて深く体認されずして正確には認識しえない。

(さらにツッコんでいただくと、さらなる学びも湧き出てくると思います。)
私は、五蘊が仮和合してるのが自分と思うから、
飛んだり跳ねたりするのが、自分だと思うなあ。
それで困るかというと、困るときもあるし、案外と困らないときもある。
>>[96]

「究極の善」という表現をしたとき、いきなり話が抽象化して、掴めていたものが手からすり抜けていくように感じられますね。
こういうときは、話を具体化すると、多少は掴みやすくなるから、そうなるように話を戻してみるとします。

「私の生命、私という生命、私が生きようとする行動行為は、果たして善か?」

善悪で考えると、すごい難しいですよね。。。
そうそう。
考えて判断する、という手法では、結論が得られないと、結論されてるんだよね。
>>[99]

ん?そういうもんですか?そんなこと、思いもしなかったです。
ある切り口で物事を考えたとき、ある切り口の地平で話はクローズする、こともある。
というならわかると思いますが。
>>[100]

切り口を限定して論議を明確にして結論に至る、という至極まっとうな方法は、認めます。
実際的ですよね。

一方で、78910さんの言葉にある、「究極」ということになると、
一回こっきりの、今現在の、限定されていない、初めての出会う場面でも、無双に使える奥義のことになるので、
この実際的な方法が、案外機能しないんですな。

あらかじめ考えてもしゃーない、というのが今の私の考えていることです。
ボケーとしてたらいいかと言うと、そうでもないので、今の状況の先端からさらに前へ行く、あるいは任せきる、みたいな体得がいるんでないかと愚考しますです。
>>[101]

実際、自分なんかはボーッとしてます。
自分の善性であれ仏性であれ、縁により引き出されるところがありますので、後から思い返すことはあっても、予め考えを巡らせることはない、かなあと。

任せているのか投げやりなのか。

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