ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

仏教コミュの中観派、唯識派、華厳とマルクス主義。

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
中観派、唯識派、華厳とマルクス主義。

華厳哲学が西田幾多郎に大きな影響を与え西田の弟子であるマルクス主義哲学

者=梯明秀の理論を批判的に摂取した黒田寛一に伝授され反スターリン主義的前衛党組織論の中に生きている事は先に述べた。

また、黒田が疎外論を重視するのも西田幾多郎が疎外を重視し、それが梯明秀を通じて黒田に伝わったからである。

では、中観派、唯識派は、共産主義運動に、どのように生かす事が出来るのか。

唯識派はバークレ主教と同じ主観的観念論=独我論であり、心の外界に存在するかのように見えるものはすべて幻覚、幻だと考える。

このような主観的観念論的側面は全く革命運動に役に立たない。

唯識派は2000年も前にフロイト、ユングが指摘した自分では自覚できない深層心理である「下意識」である阿頼耶識、末那識をヨーガの修行によって発見した。

そして唯識派は宇宙には100の存在があるとする。

その100の内、ほとんどが、鬱状態、躁鬱状態などの心理状態である。

下意識に規定される心理状態を細分化して分けて分析し、悪い精神状態に対処する方法を教えている。

唯識の精神分析はフロイト、ユングより優れたものである。

現代の精神医学は製薬会社の奴隷と化し、精神医学の研究者はフロイト、ユングを読まない。

精神科医は製薬会社を作ったマニュアル通りに投薬しているだけである。

精神病院は30年入院しても治癒しない患者であふれている。

日本の精神科医のほとんどが、製薬会社の命令通りに薬を与えている白痴である。

患者の精神状態を正確に分析できる精神科医は皆無に等しい。

左翼活動家には精神病になる者が多い。

そして、左翼活動家の精神分裂病の治療は現在の日本の精神科医には不可能である。

共産主義運動には仏教・唯識派の精神分析を基礎にした精神医学の飛躍的発展が必要である。

沖縄闘争の英雄として有名な琉球大学の自治会委員長であった安室朝哲は60歳近いのに20代で発病した精神分裂病に苦しんでいる。

中核派は琉球大学1年生の授業中の教室に「安室はどこだ」と叫びながら突入し、政治活動とは無関係の新入生=比嘉君を虐殺し、自己批判もしなかった。

安室が精神分裂病になったのは、この事件ゆえである。

安室朝哲は歌手の安室奈美恵の親戚である。

また、革マル派は下意識からの人間変革無しには革命は不可能だとしている世界で唯一の革命組織である。

下意識と、それに規定された意識、人間性の分析には唯識が不可欠である。

さらに、唯識は人間変革の理論である。

眼識、耳識、鼻識、舌識、身識(以上が前五識であり、視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚である)、前五識を統合するものが意識である。

意識までは自分で自覚できる。

しかし、下意識である末那識(自我執着心)、阿頼耶識は自覚できない深層心理である。

唯識派は、前五識、意識、末那識、阿頼耶識のすべてを変革する人間変革が悟りだとしている。

唯識は、この人間変革の方法を説いている。

ブルジョワ的、社会民主主義的、スターリン主義的、天皇崇拝主義的人間を共産主義者に変革するために唯識哲学は役立つものである。

1954年の日鋼室蘭争議の最中に天皇が室蘭に来た。

そうすると昨日まで赤旗を振っていた労働者が、天皇の前では日の丸を振って「天皇陛下万歳」と叫んだ。

日本の労働者の左翼意識など、そんな程度のものなのである。

日共党員の大学教員の鎌田哲宏は日鋼室蘭争議の本を書いたが、この事実を歴史から抹殺し、日鋼室蘭の労働者を礼賛するばかりである。

中核派は日鋼室蘭、王子製紙、三池炭鉱の闘争を「戦闘的労働運動」と讃美し「戦闘的労働運動の防衛」を前衛党の戦略としたが、これらの闘争に参加した労働者は「戦闘的」とは程遠いものであった。

その事は王子製紙については私が論証した。

また、三池の労働者がいかに腐敗していたのかについては、これから実証する。

黒田寛一は中核派を批判し「戦闘的労働運動など日本には無い」、前衛党の課題は、戦闘的労働運動の「防衛」ではなく、戦闘的労働運動の「創造」にあると断言した。

無いものは「防衛」できない。無ければ「創造」しなければならないのである。

中観派は心以外の外界の存在を認める。

ただし、心も外界の存在も実体としては存在しない、すなわち、空だとする。

唯識派でも、すべての識が刹那滅であり恒常不変ではなく、それゆえに空だとする。

最先端の物理学は、すべての素粒子が、1秒よりもはるかに短い時間で消滅し、また、別の素粒子が現れるとしている。

刹那とは1秒よりはるかに短い時間である。

仏教では、ものは1刹那しか存在できず、1刹那が過ぎると消滅すると考える。

そして、新しい存在が生じるのである。

したがって昨日の自己は今日の自己とは違った存在である。

明日の自己も今日の自己とは違う存在である。

過去についての後悔、未来の心配ほど馬鹿げた事は無い。

仏教は無神論であり霊魂の存在も否定する。

神や霊魂は恒常不変の実体だからである。

川は一つの実在のように見える。しかし、川に指を入れると指に接触する水は絶えず変わっている。

1人の人間が継続的に存在するように見えるのも川の例と同じである。

中観派の理論はカントの認識論、マックス・ウェーバー『社会科学および社会政策における認識の「客観性」』を理解すれば分かりやすい。

外界は存在する。この点が唯識派との相違点である。

しかし、その外界(物自体)が何であるのかは、悟りを開いてはいない人間には分からない。

人間は自分のイデオロギー、価値観、欲望、自我執着心という認識の枠組みによって外界から来る情報を加工する。

この加工においては言葉が用いられる。

外界からの情報に人間は「美少女」「悪魔」「金銭」「地位」「名誉」などの名前のレッテルを貼っていく。

このようにして、人間は言葉によって世界を構成する。

しかし、それは虚構の世界でしかない。

人間が使う「美少女」なる言葉=概念は特定の個別の美少女ではなく、美少女一般=すべての美少女=普遍的なるものを指す。

人間は普遍的美少女が存在するかのような妄想を抱き、それによって個別の美少女も存在すると錯覚する。

中観派は、普遍的概念(言葉)は実在しないと考える。

言葉が死滅した空の世界は光り輝く真理=真如の世界だとしている。

中観派は言葉を徹底的に否定する。

中世西欧スコラ哲学では「普遍的なるものが実在する」と考えるアンセルムスなどの「実在論」と「普遍的なるものは実在せず、それらは名前だけのものである」とするウィリアム・オッカムなどの「唯名論」が対立した。


中観派は徹底した唯名論の立場である。

中観派は認識がイデオロギーによって規定されていると考える。

この点はマックス・ウェーバーと同じである。

仏教論理学・認識論を確立したのがディグナーガであり完成させたのがダルマキールティである。

ダルマキールティは認識の枠組みをカントと同じく三段階にし、カントの理性に当たるものを「般若」(真理を見抜く叡智)とした。

ディグナーガ、ダルマキールティは唯識派であった。

仏教哲学は素朴実在論=鏡的反映論とは無縁である。

共産主義運動の中に鏡的反映論を持ちこんだのはマルクス死後のエンゲルスである。

エンゲルスはカントを不当にも主観的観念論者だと決めつけた。

そしたのはエンゲルスがヘーゲル『精神現象学』を理解していなかったためである。

このエンゲルス主義はスターリン主義者に継承された。

レーニンは『唯物論と経験批判論』で素朴実在論を正しいとしたが、『哲学ノート』では素朴実在論を放棄しカントを「恥ずかしがり屋の唯物論者」だと述べている。

イデオロギーと科学の分離を唱えた宇野弘蔵、イデオロギー的マルクス=初期マルクス、科学的マルクス=資本論のマルクスと分離するアルチュセールは間違っている。

アルチュセールなる者はソ連軍によるハンガリー人民の大虐殺、ソ連、中国の核実験を支持し、1億人を殺した文化大革命を全面的に讃美してきた悪質スターリニストである。

こんなアルチュセールの本を翻訳する者は白人崇拝と暴力的スターリン主義崇拝の凝り固まった反革命分子である。

コメント(16)

人に簡単にレッテルを貼ってしまう粗雑さを仏教は戒めていると思います。
一枚のレッテルで断じきれるほど単純な存在でないことを仏教は、その深みにおいても見るとともに、さまざまな縁起の広がりにおいても見ていたから、

個人に対する見方はとても繊細で優しいものだと思います。

したがって、いわゆる共産主義者に対する見方も決して表面的なものではなく、その動機、生い立ち、経緯、理想、情熱、怒り、悲しみ、苦しみ、悩み……などを丁寧にすくい上げる力と優しさが真の仏教徒にはあると思います。
君が読んだ仏教の本を挙げて下さい。
一番良かった本は、心の深みに開かれていた本で、もちろん僕ひとりの心の底にある本ではなく皆さんの心の底にもやっぱり開げられている本だと思います。

本は時として本当に僕たちの思考を助けてくれますね。
自分ひとりだけの頭じゃあ、同じ所をぐるぐるぐるぐる回っているだけの思考に突破口を開けてくれたりしますね。
そういう有り難さが確かに本にはありますね。
唯識、中観、華厳の本を読んで下さい。
また、特に大事なのは本を読む側の受けとめ方であり心の姿勢ですね。
それによって、同じ本を読んでも受け取るものは大きく異なってきますね。
そうですけど。何を読んでいるかが重要です。
きっとレオンさんは、シャキャムニよりずっと読書家だと思います。
釈尊の時代には紙も印刷術も無かったのです。時代が違います。
釈尊の時代にはアーラーラ・カーラーマやウッダカ・ラーマプッタなどの優れた先生の教えには、釈尊のように直接足を運ばなければ詳しく聞き知ることができなかったけれども、
僕たちはそうした物理的制約を超えて何冊も何冊も教えを聞いて回ることができるようになった、
ということですね。

これはよく考えてみるべき問題ですね。
これからは『倶舎論』を読みます。中観派、唯識派の基礎ですから。
>唯識派はバークレ主教と同じ主観的観念論=独我論であり、心の外界に存在するかのように見えるものはすべて幻覚、幻だと考える。このような主観的観念論的側面は全く革命運動に役に立たない。


唯識派の考えは、バークレのように私たちの外界にある諸存在について偽りで不可能、単なる空想と言明する独断的観念論とは違うと思います。

ログインすると、残り2件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

仏教 更新情報

仏教のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング