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仏教コミュの八正道について

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「大念処経」を読んでたら、八正道についてわかりやすい定義が載っていました。
参考になるんじゃないかと思うので、以下に載せます。

八正道は仏教のイロハで誰でも知っていますけれど、いまいちその具体的な中身がよくわからない場合も多いですよね。

他にも、八正道について、仏典中の説明などを知っている方がおりましたら、教えてください。




「心の専注の確立」(大念処経) 21節 [苦しみの消滅にいたる道とすぐれた真理とはなにか]
(『原始仏典 第二巻』(春秋社)413〜415頁)


また、修行僧たちよ、苦しみの消滅にいたる道というすぐれた真理とは、いったいなにか。
それは八種よりなるすぐれた道(八聖道)である。
すなわち、正しい見解(正見)、正しい思考(正思惟)、正しいことば(正語)、正しい行動(正業)、正しい生活(正命)、正しい力(正精進)、正しい念い(正念)、正しい精神統一(正定)である。

では、修行僧たちよ、正しい見解とは、いったいなにか。

じつに、修行僧たちよ、苦しみについて知ること、苦しみの原因を知ること、苦しみの消滅を知ること、苦しみの消滅にいたる道を知ること、

これが、修行僧たちよ、正しい見解であるといわれるのである。

では、修行僧たちよ、正しい思考とは、いったいなにか。

出離への思考、怒りのない思考、傷害のない思考、

これが、修行僧たちよ、正しい思考であるといわれるのである。

では、修行僧たちよ、正しいことばとは、いったいなにか。

偽りのことばから離れること、中傷のことばから離れること、粗暴なことばから離れること、無意味な飾ったことばから離れること、

これが、修行僧たちよ、正しいことばであるといわれるのである。

では、修行僧たちよ、正しい行動とは、いったいなにか。

生きものを殺すことから離れること、与えられないものを取ることから離れること、淫らな行いから離れること、

これが、修行僧たちよ、正しい行動であるといわれるのである。

では、修行僧たちよ、正しい生活とは、いったいなにか。

ここに、修行僧たちよ、立派な信徒が間違った生活を捨てること、正しい生活をして生きて行くこと、

これが、修行僧たちよ、正しい行動であるといわれるのである。

では、修行僧たちよ、正しい努力とは、いったいなにか。

ここに、修行僧たちよ、
修行僧はいまだ生じていない悪いこと、善くないことがらが、これから起きないようにするために意欲をおこし、努力し、努め励み、心を込めて努める。
すでに生じてしまった悪いこと、善くないことがらを、断つために意欲をおこし、努力し、努め励み、こころを込めて努める。
いまだ生じていない善いことがらが、これから生じるようにするために意欲をおこし、努力し、努め励み、こころを込めて努める。
すでに生じている善いことがらを、存続し、忘れてしまわずに、増大し、拡大し、修行が完成されるように、意欲をおこし、努力し、努め励み、こころを込めて努める。

これが、修行僧たちよ、正しい努力であるといわれるのである。

では、修行僧たちよ、正しい念いとは、いったいなにか。

ここに、修行僧たちよ、
修行僧は身体について身体を観察しつつ、熱心に、正しく自覚し、よく気をつけて、この世における貪欲や憂いを除去すべきである。
感受に関して(感受を観察しつつ、熱心に、正しく自覚し、よく気をつけて、この世における貪欲や憂いを除去すべきである)。
こころについて(こころを観察しつつ、熱心に、正しく自覚し、よく気をつけて、この世における貪欲や憂いを除去すべきである)。
もろもろの事象についてもろもろの事象を観察しつつ、熱心に、正しく自覚し、よく気をつけて、この世における貪欲や憂いを除去すべきである。

これが、修行僧たちよ、正しい念いであるといわれるのである。

では、修行僧たちよ、正しい精神統一とは、いったいなにか。

ここに、修行僧たちよ、
修行僧はさまざまな欲望を離れ、善くないことがらから離れ、粗い考察と微細な考察とをともない、遠ざかり離れることから生ずる喜びと楽しみの瞑想の第一段階(初禅)に達しているのである。
粗い考察と微細な考察とを静めることから内心が清浄になり、心を統一して、粗い考察と微細な考察とをともなわない精神統一から生じる喜びと楽しみの瞑想の第二段階(第二禅)に達しているのである。
喜びを離れて、心の平静があり、よく気をつけて、正しく自覚し、身体によって楽しみを感受しながら、それを、聖者たちが「心の平静があり、よく気をつけていて、楽しみに留まっている」と説く瞑想の第三段階(第三禅)に達しているのである。
楽しみを捨て、苦しみを捨て、以前に経験した快さと憂いとを滅しているために苦しみもなく、楽しみもない、心の平静と気をつけることによって浄められている瞑想の第四段階(四禅)に達しているのである。

これが、修行僧たちよ、正しい精神統一であるといわれるのである。

これが修行僧たちよ、苦しみの消滅にいたる道というすぐれた真理といわれるのである。

このように、内に(自分自身の)もろもろの事象についてもろもろの事象を観察し、
また、外に(他人の)もろもろの事象についてもろもろの事象を観察し、
あるいは内と外(自分自身と他人の)もろもろの事象についてもろもろの事象を観察していくのである。

また、もろもろの事象のなかで生起してくる現象を観察し、また、もろもろの事象のなかで消滅する現象を観察し、
また、もろもろの事象のなかで生起し消滅していく現象を観察していくのである。

そして、知ることの(増えていく)程度にたいし、自覚の(増えていく)程度にたいすると同じ程度に、『ただ事象のみが存在する』という念いが、かれには現われてくるのである。

かれは、なにかに依存するということがなく、この世のなかで、なにものにも執着しないのである。

修行僧たちよ、修行僧はこのようにしてもろもろの事象すなわち四つのすぐれた真理について事象を観察するのである。

(以上)

コメント(620)

 八正道で、なぜに正見が一番最初に来るか考えてみたら良いと思います。宗派によっては、信心や信仰に重きを置くところもありますが、八正道の中に「信」の字はない。
今ここのみを観れば過去も未来もない。
こうだからああなった、ああだからこうなるのでは?がない。
だから欲も怒りも倦怠感も現れようがない。
それだけで善いと思います(^^)
そうですね。
初期仏教では縁起、輪廻から離れるのが涅槃ですね(^^)
 まずもって、見性することこれが正見。ネットや本の見分知識ではなく師の下での戒・定・慧の実践修行です。別に坊さんにならなくても在家でできるし、疑問があれば時に応じて師に質問できる環境です。まぁ仕事やって家庭あったりして、仏教修行に丸一日没頭できるなんて人はなかなかいないし、むしろ自身の生活の中で、八正道をコツコツやっていくのが今のご時世でしょうね。徹見ってのは、平等智と大円鏡智の2つがしっかり開けたありようを指します。
 抜苦と滅苦の方法を人に応じて説ける。因と縁をしっかり見極められるから、他人の苦しみを除いてあげられる、またその方法を教えてあげられるのですね。
まあ特権階級しか修業も出来ない古代インド社会
釈迦は王族出身
釈尊の十大弟子は別にバラモンやクシャトリアばかりじゃないですね。特権階級という厳密ではない用語の使い方があまりわからないですけど。
>>[585]

 「戒律を守った後は戒律を破る」ってのは、ちょっと誤解されやすい表現ですので補足させてもらいます。考え方は「守・離・破」に近いかと思いますが。坐禅も瞑想も念仏、題目、真言も、専一にやってれば、その瞬時瞬時に妄想を起こすことも少なくなるのだけど、日常生活に戻ったら「 貪・瞋・痴」に振り回されないよう生活が向く訳ですね。ウソをつきたい気持ちにならない、必要以上に貪りたいとも思わない、感情剥きだして怒る気持ちも起きない人に、それを敢えて破る必要ないわけです。
>>[603]

 ひょろ犬さんは坐禅をやっているみたいなので、ご自分が直に指導を受けてる指導者に独参して、それを師に見解(けんげ)を述べたら良いと思うのです。

 ある時はいつのまにやら自分の心がもつれて何が何だかわからんようになつのを、しゃきと一遍、人間生まれついての元の有り様に戻すための坐禅です。有り様に気付いたら、今度はその工夫を捨てねばならない。
 「うたた悟れば、うたた捨てよ。」悟った見性したという意識を打ち捨てる。また北条時頼「心こそ心惑わす心なれ、心に心、心許すな」。

 また、ただ何となくやってる人には「明日ありと思う心の仇桜」って親鸞さんの詠んだ通りのことなのです。

静かな心で在ること。
静かな心で在り続けること。

坐ったままの心で在り続けることができるのなら苦労はしないのだけれど、
娑婆で生活して行くにはなかなか難しい。

余談ですが、
最近私が師のいらっしゃるお寺に参じる時、一人僧堂で坐ったり、修行僧と坐ったり、
師に応接間で近況報告をしたり、師と作務をしたり様々です。ただ形は様々ですが、
師から心の在り方を勉強しています。

静かな心で在ること。

(ー人ー)
仏教ビギナーの愛嬌です。
ヨロシクです。
“正しい”の意味は、
何に対して正しい?
何にとって正しい?
誰に対して正しい?
誰にとって正しい?

時と場合で、事情が変わる?

その辺は、説かれていますか?
>>[612]

八正道だけのくだりだとぶっちゃけ説かれてません。
だから迷うのでしょうね。

で、その答えとなるのはやはり中道かと。

誰にとって正しい。
何にとって正しいだと一歩通行での正しいでしかありませんから。
その正しいと正しいの境。
中道を指してこそ本当の意味での正しいが浮かび上がるものと思います。
 堅の場合は、八悪道まっしぐらだなぁ。
>>[612]


中部経典には、

自分と他人と、その両方にとって正しいことが正しいということ。

とされています。

ですので、誰にとって正しいかということの答えは、そうなると思います。

また、正しいの意味はとのことについては、同じく中部経典では、

長く苦しみの結果を引くことのないような行為、長く安楽の結果をもたらす行為、

が正しい行為とされています。

ですので、自分と他人と両方にとって、長い目で見たときに苦しみをもたらすことがなく、悔いのない安楽な結果をもたらす行為が正しいことだと、仏教においてはされていると言えます。

個々の具体的な状況の中で何が自他にとって長く安楽の結果を生じ苦を生じさせないかは、必ずしも自明ではなく、難しい問題の場合もあるかとは思います。
凡夫であれば、試行錯誤は避けられないかもしれません。
しかし、八正道に従い、なるべく悪を避け、善を求めること、つまり自他にとって長期的な目で見た時に苦をもたらす行為を避け、善い結果を生じる行為をすることが、正しいことと言えるかと存じます。

八正道の個々の項目については、このトピック冒頭に引用した経文が参照になると存じます。
改めて八正道見返してみると、正見って四諦で見ることなのね。ふーん。

ちょっと気をつけて見てみよう。
八正道を実践しているかどうか。
日々に自省することが大切ですね。

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