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仏教コミュの寂天菩薩の入菩薩行論による治療的な方法

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Shantideva(漢語:寂天)とは8世紀印度のナランダ大学のPrasaṅgika(中観・帰謬論証派)の学僧であった。波羅蜜多の実践による菩提心の増進に関する『Bodhicharyāvatāra』(入菩薩行論)は彼の傑作であった。当然梵語で書かれた著作。最近、英訳も出版された。チベット仏教圏では、これはお経の釈義ではないけれども、印象深い撰述であり、最大の経典の地位を占めているものであるが故にチベット仏教が樹立した英語圏の仏教団体ではチベットと同様によく読まれるものになってきた。帰謬論証派の論者は相手の謬論を指摘して哲学的な立場を肯定しないのである。しかし、仏教徒であったので慈悲は管轄外ではなかった。分析的な思索のみならず菩提心もShantidevaに強調されたことであった。

私は次の文を読んだ時、光のような考えは心の奥底の闇を貫いた。

And if there is no object, what does it cognize?
On what grounds do you call it consciousness?

では、対象が無かったら何を認知するのか。
どうやって意識と呼ぶのか。


問:「なぜこの文は非常に意味深いのであろうか。」

答:意識は認知(cognized)した対象に依存する。若しもその対象が無かったら意識は生まれ得ないのである。同じように上が存在するには、下も必要となる。上が無ければ下は存在し得ない。対象がある限り、意識は生まれる。意識は対象に依存するものである。対象は意識に依存するものである。対象の幻影のような真髄を考察してみたらそのものが見つかり得ない(例えば、無数の部分と原因しか無い)のであり、意識は何も認知し得なくなる。意識は認知した対象に依存するので、その認知した対象が無ければ、(上が下に依存するように)、意識もない。意識は実体が無く投影されたようなものだと言える。

問:「なぜ意識の存在性を否定することが重要なのであろうか。」

答:意識は実体性に欠けているのに、この意識を「私」あるいは「自己」だと思い誤る本能がある。自己、このこと自体は実際の基盤に欠けている。それなのに我々は単なる投影に執着し、感情が生まれる。苦しみと喜びの起源は実際の物事ではなく、我々の心から投影され、認知した物である。単に言えば、あなたはあなたの現実を作り上げているのである。自己がある限り、「私」と「他」(他人と私ではない宇宙の全て)との間の摩擦が生じる。意識を含む全てのものは実体が無く「空・Śūnyatā」である。

問:「これは単なる学説でしかないように聞こえる。実用性があるのか。」

答:治療的な要素がある。例えば、誰かに怒ったら直ぐに「私はどのようなものに怒っているのか」とよく考えて分析すればするほどその怒りの基盤がなくなり、落ち着いた境地に戻るであろう。「お前馬鹿野郎!」と言われたら、「私という対象はどこ?」と考えたら既述したようにその感情の基盤も見つかり得ないので、怒る実際の理由がない。映画のような投影に怒る必要がないことが分かるであろう。

一般人としても俗世的な役割を果たしながらも、聖人らしい考え方ができるのであろう。心を精錬させるのは何よりも重要なことであり、他人にも積極的な影響を与えるからである。

コメント(84)

>>[43]

私は、怒りなどというものは、本当には、ないと思います。

本当にあるのは、不安や当惑なのだと思います。
多くの人々は、不安や当惑から逃げるために、
ほとんど反射的に、足をバタつかせ地面を蹴って走って逃げようとします。
その姿のことを、「怒り」と呼ぶのだと思います。

しかし、そのように逃げることによっては、不安や当惑から逃れることはできません。
必ず、その不安や当惑はその人を追いかけ、その人のそばから離れることがありません。

ですから時に人は、そのような不安や当惑に身も心も任せて敗北することもあります。
これを悲しみと呼んだりするのだと思います。
これは逃げ続けるよりは少し、賢い方法と思います。
負けるが勝ちということがあるからです。
ですから、怒るよりは悲しんでいる方が、少しだけ浄土に近いように思います。

最も良いのは、不安や当惑と戦い、これを滅ぼしてしまうことだと思います。
信頼することによって不安は滅びます。
受け入れ味わい学ぶことによって当惑は滅びます。

ここに人の世の悪人がいて、皆が彼に怒り、彼に唾を吐き、彼を罵倒したとします。
これが、皆が彼を見て、不安を持ち、当惑し、彼から逃げようとしている有り様です。
このとき、悪人も、悪人を怒る人も、浄土から最も遠いところにいます。
悪人は自分こそ人間らしい人間であって他者のような偽善者ではないと内心で自らを誇り、
悪人に怒る人は自分こそ人間らしい人間であって悪人ではないと内心で自らを誇るかもしれません。
両者は共に、煩悩の内に住んでいます。
そこに1人、悪人を悲しみ、悪人を泣く者がいたとします。
この悪人を悲しみ、悪人を泣く者は、前者より浄土に近いところにいます。
本当にあるのは不安や当惑であったことに気付きつつある者です。
しかし、気付きつつあるだけで勇気のない者です。

この世界に仏様が生まれるとき、そこに信頼があります。
信頼があるので、不安は根こそぎに滅びます。
受け入れ味わい学ぶことがあるので、当惑も根こそぎに滅びます。
信頼は善なるものを生み出し、もたらし、人の世に浄土を建設します。
受け入れ味わい学ぶことは智慧の言葉を生み出し、方便の言葉をもたらし、人には決して見えない真実を、人に見せて教えます。
このようにして悪人も滅びます。


三毒を滅ぼすとは、このように、信頼することや受け入れ味わい学ぶことによって成されるのだと思います。
イエス様はこれを神の国の建設に例えたのだと思います。
同じことだと思います。

怒り、悪い言葉で罵り、あるいは暴力を振るい、人を傷つける人は、かわいそうに、自分の不安と当惑からただ逃げているばかりの、修行も信仰もない、弱い人間なのだと思います。
他者の怒りや悪い言葉や暴力によって、身体が傷つけられ汚されることがあっても、心は傷つかず汚されず、怒りに怒りを返さず明るさや朗らかさを失わず信頼している人は、すでに浄土に住んでいると思います。
怒る人の心の不安と当惑を見抜き、その怒りすら受け入れ、味わい学ぶなら、怒る人に智慧の言葉という如来の姿を現し示すことすらできるかもしれません。

私は、怒りなどというものは、本当には、ないと思います。
怒りとは嫌だという心です。
事実、生きていて嫌なことがなければ幸せでしょう笑
常に気づきがあれば嫌だという心から離れることができます。
それは心の鍛練で可能になります。
嫌だという反応がなくなれば他者にも優しくなれて慈悲の心も現れるのです。
>>[46]

一切に気付いている鏡は、幸せでもなければ他者への優しさもないと思います。

ただしその鏡は、苦しみを感じるその心が本当には信頼することや受け入れ学ぶことをこそ求めていてそれ故に苦しんでいる、そのありのままを映し出すと思います。

その鏡に映されて生きるなら、その人は鏡と等しくありながら、同時に人でもある存在となると思います。

本当の学びは、そこから始まると思います。

気付きと慈悲には、このような距離があるように思います。
>>[47]

たしかに気づきそのものは慈悲ではないですよね。
気づきによって自分という拘りがなくなるので結果的に他者に優しくなれるということですね。
今まで悪く思っていた人のことが、まるで子供が悪戯しているのを見て微笑ましく思えてくるような感じではないでしょうか笑
家や道場でやる瞑想は素振りみたいなものです。
日常的な生活の中で仕事中も何時でも気づきの瞑想をできるようにする事がメインになります。
今まで嫌と思われていた現象に対しても何時なんどきでも反応しないで対処できるようにです。

怒りの性質は大きく分けて2つに別れるようにあります。

一つは自家発電的な怒り。お腹すいたとか、頭が痛いとか、無視された…などの妄想とかです。因がまるまる自分にある怒り。

もう一つは他者との関わりの中で巡ってくる場当たり的な怒り。

前者は気付きを保つことで軽くしていくことが出来る怒りのように思います。

厄介なのが、後者の方だと思うのですが、お釈迦さまは「受け取らないこと」と言われていると思います。
怒りのエネルギーは受け取らず、混乱があるなら論理的に応対する。相手によっては怒りが増すこともあるので 余計にややこしくなる場合もあるため 黙ってるのが無難な場合もあると思います。

迂闊に怒りのエネルギーを受け取ってしまったら、体内に毒が回って定が保てなくなり、長患いしてしまったりするので、怒らないというより、受け取らないようにするのがいいように思います。
>>[45]

本当にあるか無いかという表現は、実体的に動かない恒常のものとして他と関わりなく存在しうるか否かという深い問題とかかわってくるので、もちろんその場合、怒りも他のすべての作られたもの(諸行)同様、無常であるがゆえに無我、すなわち自性はなく、本当に私たちが怒りに執着しなければいけないほどの実体的存在(実有)性はありませんね。
すなわち、他のあらゆるもの同様、怒りにこだわり、怒りにとどまり続けるなら、それはとりもなおさず自他を輪廻の苦しみに巻き込み続けることにしかならない。
怒りってのは自然な感情だからね。
恐怖もそうだけど、不安や怒りは、自然の感情なんだから、出るのが当たり前。

切られれば痛いし、殴られれば畜生めって思うし、美人みたらええ女やなと思うし、
いいんだよ。
感情が豊かなほうがいいよ。

怒りが身を滅ぼすことがあるけれど、それは怒りや不安に執着した時だと思う。
執着しなければ、そんなに続かない。
続かないのは、いろんな方法で怒りを鎮火する方法があるのでも分かる。

メソッドとして似てるものが多いよ。

ただまあ、頭で分かっても、このメソッドは使えない。
非論理的な行法により、だんだんと使えるようになると思います。
有身見が絶たれた経験があれば世間が映画みたいになるんですよ。
映画を観て笑ったり泣いたり怒ったりしても幻想だと判ってるからそれまでの事です。
>>[54]

>有身見が絶たれた経験があれば世間が映画みたいになるんですよ。

そうなったこと無いですよね?

あれば一発で小乗を捨てるんです。

主体が変わりますからね。
>>[55]

質問なんですが温泉さんはこのコミュニティで唯一、ミャンマーで小乗教団に入ってましたよね。
その教団内で有身見が絶えた経験のある人っていたんですか?
普通にいますよ。

小乗の場合はパニャニャーニャ(第7禅定)に入った人で、なんだか判らない人は、いないでしょうね。

問題は、そこから。

そのままの人も結構いるし抜け出す人もいますね。

まぁ、育った環境の問題かもしれんなぁって感じ。

ASEANの人以外は結局抜け出しちゃってるみたいですね。

よっぽど元がASEANっぽいなら抜けないかと言うと時間が掛かる人は居ても抜けるようです。

少なくとも例外は知りませんね。

抜けなきゃ本当に脳内パーリが居るって事なんだろうけど、実際は金日成のプラモデルで遊んでるレベル。

疑うとすると、まぁ殺人者の仲間と思われたく無いんでしょうかね?

けど、そんな風情も全くないですよ。
所詮さ。現実を生きなきゃ仕方ない訳で、そんときに殺人の親玉を選択したいって人はASEAN以外は

いないんだろうね。

中には根性の曲がった人もいそうだけど、今の所いません。

マハルカーナだけが上級コースに、ちょっとだけ行ったけど、あれが殺人コースです。

もう、ヤメちゃった、みたいなんで今は脳内パーリだけど、タケヤリ送金ヤメたんだから

ついでに小乗もヤメちゃえよって思うけどね。

日本じゃタダの大金玉の殺人鬼ですからね。
シャンティディーバの入菩薩行論は、全部読んじゃないけど、典型的な大乗の菩薩道っていう感じですが、これくらい理想化しないとなかなか、菩薩行なんて出来ないよなって感じはする。
自分の場合、自分レベルで、マインドフルネスとかやってみても、せいぜい現状維持。
入菩薩行論的なものを読んでも全然できなかったりですが、抑止力は有るかも。^_^;
>>[61]

おっしゃるように、シャーンティデーヴァの『入菩薩行論』を読むと、「凄いなあ」とその心のあり方に感銘を受けずにいられません。
そして教えられること、新たに心に火を灯されることがたくさんあります。
第6章 忍辱

1 千劫の時をかけて積んできた布施などの善行や如来への供物さえ、一瞬の怒りが生じることで粉微塵に砕けてしまう。

2 怒りほど悪い罪はなく、忍辱ほどの苦しい修行もない。ゆえに、絶えずさまざまな方法によって忍辱をわが身に染み込ませなさい。

3 怒りの苦しみが沸き立つ者は平安を得ることができない。あらゆる喜びは無縁となって、眠ることも安心することもできなくなるだろう。

4 慈悲深い主人が名誉と富をさずけ、庇護してきたような下僕でさえ、主人が一瞬でも怒りや憎悪にかられるのを前にしたら、それに反発し、主人を殺してしまうことがある。

5 怒りは家族や友人までも悲しませる。いくら褒美で釣ろうとしたところで、人は本当には尽くしてくれない。
怒りをたずさえている人が平安に暮らすことなどありえないのだ。
しかし僕は、例えば今、連日報道されている日大アメフト部のような問題について、怒りを覚えることはこの世俗世間をよりよいものにしてゆこうと考えている私たちにとって、当然いだいてしかるべき怒りだと思う。
そうした怒りを去勢された所には、真の真心も成立しないように思う。
悪いことには的確に悪いことだと怒る心がなければ、自らに対しても反省とか慚愧の心が生じてこない。
罪に怒りをもって対するは火を油で消そうとするようなものかもしれません。忍辱の鎧を着て対せば、火は類焼できないまま自ずから消える。
裁くのではなく一切衆生を速やかに仏道に入らしめるため。
>>[64]

では果たして、このような世俗的かつ純粋な怒りと仏教の戒はいかなる関係に立つものか。
僕が大事にしたいと思う無垢な怒りの気持ちは、仏教の教えを果たして台無しにするものか。

僕は決して仏教を必ずしもひっくり返してしまうものではないと思う。
単にわがままな私欲から発せられた怒りではなく、人のことを思い、世の中のことを思って、悪行に対して怒りの感情が湧く時、その感情が湧いてくるその出どころは、最も深い純粋で清らかな心につながっているように僕は思います。

もちろん人の心は一瞬一瞬、変化し堕落する危険さえあるものだから、初めは清らかな怒りを生じさせた人が、すぐさま次の瞬間には私欲をまじえた怒りにすり替えてしまうということも起こりうるから、
僕たちはよくよく自分の心に注意を向けていなければなりませんね。
>>[66]

>僕は決して仏教を必ずしもひっくり返してしまうものではないと思う。

はい、そう思いますよ。

ただ主眼では無いと言うこと。

で、主眼部分が全く無いのは問題でしょ?って事。

日頃は誰だって脳内で暮らしています。

だから脳内な話が出ても構わない訳です。

ただ、そうじゃない世界が記述してあるんですが

読み取れないでしょうか?

また脳内の話であれば、お調べになったほうが

賢明でしょう。



>>[66]
怒りというエネルギー自体が、涅槃を妨げ、一切衆生の成仏の邪魔になるのかもしれません。
怒りが沸き起こる気持ちはわかります。
でも、因縁から見れば、すべてが因縁の中の。出来事。された側もした側も抗し切れない因縁に突き動かされたとも見れます。
因縁から見れば、彼の監督やコーチのみが怒りの対象になるのはおかしいように思います。人の性に怒るならまた別。
清らかな怒りなんてあるのかな?
私は清らかでないので、日大の監督には、激しいタックルで、全治3カ月くらいにしてやりたいと思っています。w
仏教は時代によって、方向性ってあって、こっちの方向よってのがあるんです。

だから、まずどっち方面の事を言ってるか判らないといけない。

あとは、徐々にでも、そっちに移動しないとね。

とは言うものの日頃の自分も大事にしていかないといけない訳です。

ただ日頃の自分だけが大事と言う仏教も無いんです。
己心の如来や菩薩を面に出して人に接すれば、相手の中の如来や菩薩が呼ばれ、お互いに呼び呼ばれて向き合います。
畜生、餓鬼、地獄、どれも、互いに呼び呼ばれます。
怒りで接すれば、相手の地獄の相を呼び出すことになります。
一念三千の法門。

マスコミに心動かされるのも仕方はないと思うが、真は第三者ではわからない。まして枠の外の人間はなおさらだと思う。罪は罪。しかし、真の外で騒いでいるマスコミの方が私には腹立たしい。
ストレス社会などと言われているが、こんなマスコミに踊らされていたらと思うのだけど。怒りの矛先さえ決まらないことに怒っても仕方がない。今回のアメフト部の件にしろ、過去の相撲界の日馬富士の件にしろ、だから何?って感じ。政治家も同じ。重箱の隅をつつきあってるだけ。そこに踊らされている第三者の私達。
もっと『目の前のこと』に集中した方が良いのでは。そしてそれが修行なのだと思う。

(ー人ー)
>>[73]

人間にしろ、他の生き物にしろ、相手の中の感情の姿とか心のありようを直感的に感ずることってありますよね。
そのせいで、相手の感情に反射的に同化してしまって、怒りや憎しみに対して怒りや憎しみで応えてしまうということが、家庭内にしろ、世の中にしろ、しばしば見受けられる。
ブッダはこうした反射的な、怒りに怒りで応えるような循環を終わらせよと説く。
寂天菩薩著『入菩薩行論』第6章「忍辱」

5 怒りは家族や友をも悲しませる。
褒美で釣ろうとしても人は尽くしてくれない。
怒りを持ちながら平安に暮らせる者など一人もいはしないのだ。

6 あらゆる不幸は、苦しみをもたらす敵すなわち激しい怒りから生まれるのだ。
おのれの怒りをつかまえて、打ち砕く者は、今生でも転生の後でも喜びを見出すだろう。



怒りは時として私たちの心を湧き立たせたり、生き甲斐になったり、陶酔させたりもするものですが、確かに本当の安らぎはそこには無いのかもしれない。
自分の中に、そして他人の中に怒りを見つける人生は本当には幸せでないのかもしれない。
それを超越した心を安定的に自分のものとする丁寧な心の修行。
>7 望まないことが起きたり、反対に望んでることが起きなかったりすると不満が生じて、これが怒りの燃料となる。
怒りは段々大きくなって、ついにはわが身を滅ぼしてしまう。

8 ならば、この敵(怒り)の燃料を根絶やしにすればいいではないか。
この敵の目的は私を痛め、傷つけることに他ならない。



たとえ望まないことが起きたり、望んでいたことが起きなかったとしても、そのせいで心が失望したり動揺したり不満をつのらせるような反射的反応を相変わらず繰り返すことをしなければ、怒りの燃料は根絶やしにされる、
ということですね。
寂天菩薩著『入菩薩行論』第8章「禅定」

1 ここまで話したように精進して心を研ぎ澄まそう。心がたるみ注意散漫になっている者は、煩悩の餌食になるだろう。

2 ひとりでいれば身心の集中を乱されるようなことはない。だからこそ世間から離れて、心を乱すものをいっさい断つべきである。


多くの人はこの第2頌を時々は実践できても、ずうっと長い期間そうするというのはなかなか難しいことですね。
読み方によっては違う解釈もある。
>>[79]

文字通りにそのように実践された方々がいたからこそ素晴らしい教えの数々を今日私たちは聞くことができるのでしょうが、そのような人里からの絶縁を実践できない多くの人にとっての教えの精華が伝えられているのも、まさに文字通りに実践された方々がいらっしゃったからだと、心から敬服せずにいられません。
>>[74]

「目の前のことに集中すること」は一単提(いちたんてい)ですね!

目の前のことに集中して、そのことしか目に入らない状態ではなく、目の前のことに集中しながらも、後ろに目がついているかの如く、周囲の状況に目が行き届き、適切に働きかけることができる状態のことですね。

それができるようになるためには、「静」の修行の坐禅と「動」の修行の作務が必要だと思います。

私はまだまだ修行が足りないので、自分のことで精一杯です(T^T)あせあせ(飛び散る汗)
>>[81]

私も駆け出しのひよっ子です。

目の前のこと、つまり無常を受け入れる様になることが、苦から逃れることに繋がるのだと思います。その為の修行だと思っています。坐ることにより静を受け、静かな心で目の前の事を的確に判断できるのだと思います。時にはその判断が人から冷たいたと見られてしまう事があるかもしれませんが、自己を信じる事も、長い目で見ると、大切だと思っています。

あくまでも自分の捉え方ですが

(ー人ー)
>>[82]

「冷静な判断」、あ!冷たいっていう漢字使ってる!仰る通り、的確な判断が、人からは冷たく見えることがあると思います。
人間の世界のルールや価値判断は、必ずしも仏の道と一致しないと思います。
もしかしたら、「慈悲」は限りなくあたたかいものかもしれませんが、「智慧」は限りなく冷淡なものかもしれません。

仏道修行は厳しいですが、仏様のお導きに逆らえないし、逆らいたくないんですよね。
『入菩薩行論』第10章 廻向

3 生き物たちが輪廻をさまよう間は、どうかその喜びが損なわれませんように。
いつまでもいつまでも生き物たちがこの上なく幸せに暮らせますように。

4 この世界のあらゆる場所に地獄のような状況は存在しますが、そこにいる生き物たちがどうか極楽浄土の至福と平安とを手に入れることができますように。

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