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仏教コミュの「空」について、中村元は間違っていた、わかっていなかった?

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中村元は、「空の論理」(中村元選集22、春秋社1994年)の中で、

 <空>は大乗仏教の根本概念であるおいうことは、だれでも知っている。では、<空>とは何か、ということになると、なかなか答えは簡単には出て来ない。

 <空>を説いた文献に関する研究は、毎年無数に多く刊行されている。しかし「<空>とは何か?」という端的な問題にたいしては、かならずしも答えが与えられていない。学者はとかく避けて通っているという傾きがある。

と書いています。

 その一方で、いろいろなところで、「<空>とは実体がない」ということであるともいってます。

 あるところで<空>は「実体がない」と説明しつつも、それが正しい理解であるということに、中村元は自信がなかった。この矛盾した記述のどちらが正しいかということよりも、彼自身、空についてよくわからずに論述をしていたという点が重要だと思います。

 中村元は、間違っているかもしれない。少なくとも、彼自身、自分で納得のいく空理解をもっていなかったのではないか。

 そこで、質問です。

 皆さんの中で、<空>について、自分自身で答えをみつけた方はおられますか。本で読んだり、誰かの受け売りとして、なんとなくわかったつもりになっているというのではなく、ああ、空とはこういうことだったのだという体験をされた方はおられますか。自分自身で空を悟ったという体験をお持ちのかたがおられましたら、ぜひひと言お願いします。

 実は、僕は、12月に天台宗のお寺で修行中に、「空とは実体がないということが、理解できないのです」と和尚さんに相談したところ、和尚さんは、「そんなことより作務をひとつお願いします。」ときたのです。

 その作務というのは、寺の裏の小川の脇に捨てられていた大きな鋳物の五右衛門風呂のお釜(大人2,3人入れるくらいの大きな釜)を、数人で、ひっぱり上げる作業でした。将来芋煮会のときに、そのお釜を使うかもしれないというのです。

 お釜にロープをかけて、真ん中に棒を通して引っ張り上げて、雨の後でぬかるんでいた崖っぷちを、6、7人で、ゆっくりゆっくり上げました。
 
 一歩間違えると、お釜が落ちてきて怪我をすると思うと、みんな真剣です。声を掛け合いながら、高低差3mほどの崖を、一歩、また一歩と上がっていったのです。

 頭の中は、お釜、足場、ロープ、棒と、作業のことだけでいっぱいになりました。

 幸い作業は、五分くらいで、無事に終わりました。

 そして思ったのです。

 あらゆるものに実体がないという言葉には、まったく意味がない。

 僕たちは、お釜という実体が、自分の足の上に落ちてこないようにと真剣に考えていました。お釜の実体そのものと、対峙していたのでした。

 <空>は「実体がない」という言説は、間違いであり、世の中から追放すべきかもしれない。

コメント(337)

ちの姫(mixi否認)さま、

はじめまして、トピ主です。

掘り起こしありがとうございます。

記号論的にいうと、ことばには、意味はない。
ことばは、音声符号にすぎず、
それぞれの人間の個人的な体験をよびさますのみである。

だから、空なるものを体験した人間はその意味を知っているが、
体験したことがなく、頭の上でこねくり回している人間には
その言葉には意味がない。

そういう言い方も可能かなと思いました。
宗教自体オカルトやろ。
それに物事を文章化できるなら、「空」の定義くらい、とっくの昔にできとんやないん。
空を定義したら色になっちゃうのよね
有と無の二辺を破すること。

ものごとに実体が有ると思っても無いと思っても苦は無くなりません。
「空」は実体がない(物事はすべて縁起からなる)という意味で
それ自身の意味をさぐるよりも、使われ方の文脈を観るべきである
と思います。

何故、それを今までのような縁起とか無常という用語ですまさない
かといえば、そうした教え(=言葉)も実体がない(=縁起からなる)
ということをいうからだと思います。

「空」は、一方方向ではなく、往復運動なんです。

そういうわけで、不完全な言葉で話す仏陀の教えも普遍的な「真理」と
いうことが立てられず、すべてが「方便」(ある人にとっての真理)に
なります。

言葉に対する反省なく、仏陀の教えをすべて「真理」とすると「真理」
を担保する対象を外界に建てなければならず、(言葉というものは常に
言葉に対する対象を求めます)いろいろな「世界」が出てきます。
(「今」が大切なのに、テラワーダの教義を観ると、言葉に対する反省
がないから、そこかしこに「世界」を作ってしまいます。

「空」を徹底すると「涅槃」という世界もないし、完全な「さとり」も
ないし(おそらく、小さな「さとり」の連続)、「輪廻」もなくなります。

>#307(「今」が大切なのに、テラワーダの教義を観ると、言葉に対する反省
がないから、そこかしこに「世界」を作ってしまいます。
「空」を徹底すると「涅槃」という世界もないし、完全な「さとり」も
ないし(おそらく、小さな「さとり」の連続)、「輪廻」もなくなります。


何故今が大切なのですか?

今が有っても無くても苦は有ります。

「空を徹底する」といっても実践の方法が必要です。 実践方法がなければ正に机上の空論です。

寝るとよいとか気絶するとよいという人もいますが。




皆さんが、そのように意見を述べることが空なのです。
>300
ちの姫さま

いえいえ、空たりといえども、
体験しないことには、意味がない、
体験しないと、言葉にならない

体験せずして、どうして言葉に表せますか?


たとえば、エクスタシーとか、恍惚感とか、
「いくぅー」とか
そんな言葉ですら、
体験があるときとないときとでは違うのです

空といえども同じ

そもそもそれを表現した人は、何かを感じたのだと思います
色は多元的であり人はそれを理解できるが、一元的にしか感じることしかできない。
いま自分が感じている色の他の有り様が空であると理解している。
いわゆる第六感で感じる物事の本質があることを知っていても、それが常に思慮の範疇にある訳ではない。
したがって、「色即是空」の理解として森羅万象の変化の理のすべて常に想いを馳せている訳にはゆかない人間の思考回路の空白の部分を空と呼んでいる。
もちろん独断と偏見に満ちた沙門の戯言であるわけですが…あせあせ
kodekさん
今をすてるから苦が生ずるということは理解できますが、空を徹底すればなにも無くなるとのお考えのことだと思いますが(間違いだったらごめんなさい)、私は空を徹底すれば色が徹底され、色を徹底すれば空が徹底されると思うのですが、この考えは間違っているのでしょうか。よろしければ教えください。
DOCHIRADEMOYOIさん

過去や未来に想いをはせるから執着や怒りが続くのであって、「今」に
こころを置けば、「苦」の原因とされる「五蘊」の機能は滅するはずです。
(「五蘊」は想いが生じることによって生まれるその都度の機能だと思い
ます。)

「空を徹底する」といっても、「空」の理解がそれぞれ恣意的である以上、
「今」をはずさない実践をすることが、「空」を観ずることになると
思います。

「今」に心を置くことは、いわゆる「識」にない「自己」になることであり、
それは「非自己」ともいう「自己」の表れではないでしょうか。
(ここの辺は私もでかいことは言えないです。)

そういうことが、瞑想や日々の行いの実践を通じて観られれば、仏教は
よりよく生きるためのガイダンスになるし、わざわざ、「涅槃」や「業」
「輪廻」などという「空」なる言葉の脅かしに乗らなくてもすむと思って
います。


>私は空を徹底すれば色が徹底され、色を徹底すれば空が徹底される
>と思うのですが

このような表現は「空」の往復運動を象徴しているのであって
真意は教えの対象も「空」、教える言葉も「空」(絶対の真理として
とるな)ということだと思います。
kodekさん
ご説明有難うございます。
私も自己を捨てるこてができれば、思いが消え今ここのみを生きることができると思います。(思うというような思いが在る間はまだまだなんでしょうね)
さて私は「空と色は全く同時であり区別がないもの」であると思います。空と色が全く同時であり区別がない瞬間が今ここであり、すべてが変化し生まれかわる瞬間であると思います。故に今こことは時空間を超越したところであり、宇宙のすべてが内包されているところだと思います。最も躍動感溢れ瞬間が今ここだと思います。植物や野生動物たちは、先を考えず今ここのみを生きることができ、私たち人間よりかははるかに高等な生き方をしていると思います。申し訳ありませんがご意見をお聞かせください(言葉すれば何の意味もないとうことも理解できますが…)
DOCHIRADEMOYOIさん

>「空と色は全く同時であり区別がないもの」であると思います。空と色が全く
>同時であり区別がない瞬間が今ここであり、すべてが変化し生まれかわる瞬間
>であると思います。

たぶんに「老荘思想」が入り込んだ禅の考え方と似ているDOCHIRADEMOYOIさん
のような考え方と、どう折り合いをつけたらいいのか思案中です。
私の師にもそのような考え方が入りこんでいますので。

>植物や野生動物たちは、先を考えず今ここのみを生きることができ、
>私たち人間よりかははるかに高等な生き方をしていると思います。

ある種の動物や幼児は成人と同じように1人称から「世界」を見ますが、
「五蘊」の機能が働いているか疑問です。
あるいは「五蘊」のような意思伝達はするけれど、成人のような「苦」は
生じないというのでしょうか。

ここらへんのことをどう表現したらいいのか、自分の日記でも苦労して
います。

ある種の動物や幼児には、おそらく過去も未来といった概念もなく、
自己もなく(ある種の万能感はある)、現在の中だけで生きているという
存在なので「苦」は生じないということでは同じ意見です。

ただ、成人は、その先の存在なので(笑)。





確かに動物の生き方から学ぶべきことはたくさんある。

ところが、だ。
動物は本能に縛られており自由自在がない。
人間だけがこの依存のステージから自立(主体性)のステージ(自灯明)へと昇ることが出来る。

仏教は人として生まれてしまった僕らがいかに人として生きることが出来るか…その道を示唆しているのだ。
kodekさん
先日は貴重なご意見有り難うございます。大変参考になりました。
また書きます。お許しください。

苦が生ずる因があるとするならば、それは等しい二つのもののなかより自己の都合にあわせて一方のみを選択するからではないでしょうか?我々人類は生を選択させられた為にその反対側にある死をかならず選択しなければならない運命にあり、生を選択したと同時に死を選択しなければという苦が始まっているのだどおもいます。
もし仮に植物や動物たちが今ここのみを生きることができ(生への執着が格段に少ないのかもしれませんが)、生と死へのこだわりが小さいものであるとするならば、彼等には我々人類ほどの苦はないのではないだろうか?
すべて何もわからないままで勝手な妄想に耽っております。失礼します。
shinRaiさん
空についてわたしの気ままな意見を述べさせてください。
空とはあなたの和尚さんが「作務をお願いします」とおしゃられたことだと思います。
のび太さまへ

空についてのご指摘だと思いますが、ここには色即是空の深い味わいが潜んでいます。言葉の裏側もみて頂けば嬉しいです。
> <空>は大乗仏教の根本概念であるおいうことは、だれでも知っている。では、<空>とは何か、ということになると、なかなか答えは簡単には出て来ない。


法(dharma)の自性(svabhava) は空(sunya)であるということです。 これ以外の解釈は間違っています。 これ以上でもこれ以下でもありません。

相(laksana)が空という場合もあります。
私、真言宗の若年僧です。
常日頃「檀家さん達に対して空の何か分かりやすい表現はないかなぁ」と頭を悩ましております。生きている人間に対して「空」をどのように理解してもらうか・・・

特に人気の「色即是空 空即是色」のくだりですが、「色」は我々欲界の住人の境涯であるとして、「空」が仏さんの尊い境涯であるとします。もちろん「空」に実体はございません。
 我々欲界の人間は悲しいかな、なかなか「色」の世界から出られません。
「あんたが好きや」「私も好きや」の日々に幸せを感じずにいられません。愛別離苦とは申しましても子供のことは可愛くて可愛くてたまりません。家族を養うために他社の利益をけずり、自社の業績を伸ばさなければならない。そうすれば他社の家族が困る。というジレンマの住人です。しかし欲得、損得、自他分別の滅した「空」が仏さんの境涯であると聞き各々身にあった修行をすることで、生きながら仏さんの境涯を体験するべきであると。悪行の数より多く善行をなせともとれます。
だから空→色→空と説かれず、色→空→色の順序でお説きになられたのではと思いますし、この→が善行を積めば取れて、色即是空空即是色が不二、即身成仏の境涯を体験出来るのではないかと思います。
後に受想行識もこれに同じであると。
受想行識→空→受想行識

「空」は仏さんの尊い境涯
欲界を心身共に清らかに生きていくための通るべき道、心得とでもいいましょうか。

私にとっては「あこがれ」ですね。

この考え方いかがでしょう?
色即是空は「まいっか」
空即是色は「ありがとう」

こんなんでいかがでしょう?
>328
それもいいですね。すごく主観的で分かりやすいるんるん
個人個人それぞれに「色即是空 空即是色」って取りようが無限にあると思うんです。またそれも「空」ってことじゃぁないかなぁ、なんて

忙しい人には休め。だらだらしてる人には働け。みたいにやがて二人は「中道」で出会う。

どうでしょう?
>そして思ったのです。あらゆるものに実体がないという言葉にはまったく意味がない。僕たちはお釜という実体が、自分の足の上に落ちてこないようにと真剣に考えていました。お釜の実体そのものと対峙していたのでした。<空>は「実体がない」という言説は間違いであり、世の中から追放すべきかもしれない。


ここで使われている実体という言葉はほとんど西洋哲学伝来の意味合いで使われていて、仏教の中で極めて限定的な意味合いで言われる実体とは、言葉は同じでも意味規定に大きな違いがありますね。
>>[330]

仏教の中で極めて限定的な意味合いで使われる実体なる用語ってあります?
たぶん無いですよ。

トピ主は、実体を実物という意味で使ってるみたい。
実体(本質)は無いと聞いて、実物が無いという事と受け取ったんだな。
だから、間違いだなんて言ってる。

和尚さんがトピ主さんに告げたかったことは、「空であっても、日常生活は消えない」ってことよね。
常に変化して消え去る物の本質が無い事、五右衛門風呂も私達の肉体も現れては消えていく、それが空相、実体はどこに在るのでしょうか?
>>[332]
いや、実体は無いから。
西洋哲学は、たぶん、実体があるはずだ、という出発点があるんじゃないのかな。
仏教は、実体はない、ところから始まるでしょ。

実体(不変の本質と言っていい?)はないけど、実物はある。
この実物を大切にしていく。
壊れるからといって、ぞんざいに扱ってはいけない。

五蘊皆空と知って、見るもの触れるもの大切にしていくのが仏教かと。
現実は単なる幻想に過ぎない。非常にしつこいものではあるが。
Reality is merely an illusion, albeit a very persistent one.
アルバート・アインシュタイン
実物は有るし大事にしたほうが良いとおもいます。目で見てる世界、現れては消えて行く物の本質が無い事が空。命あるものたちは多重次元に同時に存在してます、実体はあるはずです、不変の本質(素敵な表現です)も永遠さえもスパンが長いだけで終わりは有るはずですが。
「私でないもの」が存在しなければ「私」は存在しない。
「私」が存在しなければ「私でないもの」は存在しない。
本質が無い時、よく寿命がある・壊れるといいます。これは事実です。ただちょっと思うのに、壊れることと、本質がないことは、また別かと。

山もいつかは海になるんですが、人間より遙かに寿命が長い。
仮に永遠に存在しても、空なんだと思います。永遠に存在したとしても本質は無いんじゃないかと愚考します。

こうしておくと、刹那滅などの概念を導入しなくてもいいんじゃないかと、ふと思っただけでした。

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