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政治の動きコミュの239.アベノミクスはバブルの歴史から学べるか 現代日本を知るために(14)東工大講義録から

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 このところ書店で株に関する書籍が急激に売れるようになってきたそうです。日経平均株価が急上昇したことで、これまで株から遠ざかっていた個人投資家が戻りつつあるのでしょうか。

 急激な株価の上昇には過熱感も漂いますが、これまで長期低迷状態だったのが、本来の姿に戻る過程であるという見方もできるでしょう。

 この動きを見て、「バブルよもう一度」と願う人もいるようですが、いまの大学生には、「バブル」は遠い過去です。広末涼子主演の映画『バブルへGO!!』でバブルのことを知ったという学生もいるほどです。そこで今回は、1990年前後の日本のバブルについて取り上げます。

■東京の土地価格で米国全土が買える

 バブルとは、いろいろな定義がありますが、ここでは「実体価格を超えた資産価格の上昇に伴う過熱景気」としておきましょう。実体を超えた経済状態に、多くの人が浮かれてしまったのです。

 バブル景気は、1986年(昭和61年)12月から1991年(平成3年)2月までの数年間でした。株や土地などの資産価格は上昇し、異常なまでの好景気が続きました。

 1991年2月頃にバブルがはじけると、しばらくして、人々は、「ああ、これまでの好景気はバブルだったのか」と気づいたのですが、崩壊後の傷痕は深く、いまも負の影響が残っています。バブルの最中には、人はなかなかバブルだと気づかないもの。はじけて初めて、バブルだったと気づくのです。

 バブルがどれほど凄(すご)いものだったのか。当時、計算上は東京の土地価格で米国全土が買えるという状態でした。それほどまでに日本の土地価格は高騰したのです。

 また、日経平均株価は1989年(平成元年)12月のピーク時には高値3万8915円をつけました。1万円前後で低迷していたのがウソのようです。

 当時、金曜の夜には六本木や銀座でタクシーが拾えないという状態でした。会社の景気がよく、接待も高級店が使われ、会社が気前よくタクシーチケットの使用を認めてくれ、タクシーへの需要が激増したからです。「需要と供給」の関係を身をもって体験した人も多いのではないでしょうか。

 当時、私は先輩に、「タクシーを止めるには手に白い紙を持って振るといい」というアドバイスを受けました。タクシー運転手に、白い紙がタクシーチケットに見えるからです。「タクシーチケットなら自腹を切るわけではないから、遠距離でもタクシーに乗るだろう」と考えた運転手が車を止めてくれるというわけです。2万円や3万円かけてタクシーで帰る人もいました。

http://www.nikkei.com/article/DGXNASGH0900H_Z00C13A1000000/

 どうして、そんなことが起きたのでしょうか。きっかけは、「プラザ合意」でした。

 1985年(昭和60年)9月、ニューヨークの高級ホテル「プラザホテル」で、米、英、仏、西独、日本の先進5カ国の大蔵大臣・中央銀行総裁会議が開かれ、ドルを引き下げ、日本の円を引き上げるために各国が協力することで合意したのです。会議が開かれた場所の名前からプラザ合意と呼ばれます。

 当時の米国には、日本製品が大量に流れ込み、貿易赤字に苦しんでいました。いまの米中関係のようです。当時の為替レートは1ドル=240円でした。いまから見れば、大変な円安だったのです。

 米国のレーガン政権は、円高・ドル安に誘導することで、米国の貿易赤字を削減しようと考え、日本や先進各国に協力を求めました。大国・米国が、頼み込まなければならないほど、経済状況が弱り始めたということでもあります。米国経済がおかしくなっては、世界経済にも悪影響を及ぼす。そう考えた各国は、米国の依頼を承諾しました。

 この合意にもとづき、9月24日から大蔵省(現・財務省)と日銀による大規模な円買い・ドル売りが始まります。

 一方、米国は金利を下げ、ドル安に誘導します。その結果、為替レートは翌年1月に1ドル=200円を突破する円高水準に達しました。

■円高対策で「公定歩合」下げ

 米国に協力して円高政策をとった日本ですが、急激な円高は、日本経済にとってマイナスです。輸出産業の収益が急激に落ち込み、日本は不況に陥ります。「円高不況」です。

 景気対策には、まず金融政策。日銀は、公定歩合を引き下げます。1986年(昭和61年)から1987年(昭和62年)にかけて合計5回も引き下げ、2.5%にします。

 現在の日銀は、金利を市場で誘導する政策金利を基準にしていますが、当時は、日銀が民間の銀行に資金を貸し出す際の金利である「公定歩合」を上下させていたのです。

 金利が2.5%というのは、いまから見れば、ずいぶんと高い水準に見えますが、当時としては大変な低金利だったのです。この低い金利で資金を借り、他の場所で運用すれば、多額の収益が見込めました。さまざまな企業や投資家が、一斉に資金を借りたのです。

 企業は低金利で資金を借りて事業を拡大します。その一方で、円高で輸入品が値下がりし、空前の消費ブームが巻き起こります。景気上昇によって土地価格も上昇。その土地を担保にして低金利で資金が借りられますから、さらに土地を購入します。

■財テクブーム到来

 財産を殖やす「財テク」がブームになりました。「財テクをしない経営者は失格だ」と言い出す経営評論家も現れ、多くの企業が、本業そっちのけで資金の運用を始めます。資金の流入先は、株や土地でした。

 この勢いに拍車をかけたのが、政府の動きでした。1985年(昭和60年)5月、当時の国土庁(現・国土交通省)が、「首都改造計画」を公表しました。「東京のオフィスは2000年までに合計約5000ヘクタール、超高層ビルにして250棟分が必要になる」というものでした。

 これは、「だから土地対策が必要だ」という本論の前段部分なのですが、「土地不足で地価はまだ上がる」というように受け止められてしまいました。

 日本には外資系金融機関が続々と進出していました。こうした企業は、事務所や社員の居住用に都心の高級不動産を購入します。この動きが地価高騰に拍車をかけました。

 さらに、株が一大ブームになります。きっかけは、NTT株の売り出しでした。

 かつての電電公社は、民営化でNTTに衣替えし、政府が保有していた株を売りに出したのです。

 1987年(昭和62年)、NTT株が東京証券取引所に上場されました。政府売り出し価格は1株119万円でした。売り出し前に証券会社を通じて希望を募ったところ、申し込みが殺到。抽選で購入の権利を得るという状態でした。

 それだけの希望者がいましたから、売りに出されると、株価は急上昇。2カ月後に318万円に達しました。119万円で購入して318万円で売れば、単純計算で200万円近い利益が得られたことになります。まさに“濡れ手で粟(あわ)”という言葉通り。「株は簡単に儲(もう)かるもの」という印象を与え、素人が株取引を始めるようになり、株価は上昇を続けました。

 このように株価が上昇すると、企業は株を時価発行することで資金を容易に得ることができます。大量に資金を得て、工場設備を拡張したり、土地を購入したりします。

 株で資金を得た投資家が、土地を購入するようにもなります。いわゆる「資産効果」です。資産効果とは、株価や土地価格の上昇で資産価値が増えたことで、持ち主の消費が拡大することをいいます。

 こうした地価上昇によって、東京の土地価格の総額が米国全土に匹敵するほどの大きさになってしまったのです。

 日本企業は、豊富な資金で海外投資を始めます。ソニーは、米国のコロンビア映画を買収。三菱地所は、ニューヨークのシンボルのひとつロックフェラーセンタービルを購入しました。

 これには米国内で、「米国の財産が買われてしまう」との反発も出ます。その後、ロックフェラーセンタービルは、売却で損失が出ますが、ソニーの映画部門は、ソニーの経営に寄与するようになります。

 地価が上がることで、土地付き一戸建てに住んでいる人の土地価格も上昇します。ここでも資産効果です。多くの人の財布のひもが緩くなり、高級品が飛ぶように売れました。

■高いから売れる「シーマ現象」

 特にこの頃、日産自動車の高級車シーマがよく売れました。当時の値段でもおよそ500万円ですから、大変な価格です。なぜシーマを購入したのかというアンケートの1位は、「高い車だから」でした。高いから売れる。これぞバブルの典型でした。これは「シーマ現象」と呼ばれました。

 老舗のゴルフクラブである小金井カントリー倶楽部のゴルフ会員権は、1989年(平成元年)末には、4億円を超えていたという記事も残っています。こうなると、ゴルフ会員権も財テクの対象になってしまいます。

 銀行は、土地を持っている人には競って融資をします。融資先を見つけるため、銀行員たちは、空き地を探して歩きます。空き地を見つけると、土地登記謄本を調べ、地主と交渉。「空いている土地にマンションを建てませんか。低利で融資します」と持ちかけます。

 融資限度額は、通常、担保価値の7割から8割ですが、土地価格が上がり続けているのですから、そのときの取引価格の100%まで担保価値を認めて融資するということも起こりました。

 「地上げ屋」と呼ばれる職業が注目を浴びたのも、この頃です。中小の住宅が密集している地域の住宅をすべて買い上げ、広い空き地にしてから巨大マンションなどを建設する手法が多くなり、大手不動産企業の下請けとして、土地買い上げを担当する業者たちです。中には、恐喝まがいの手法を取る業者も出現します。

 周辺が空き地になった中で一軒だけ頑張っている住宅や商店に、突然、無人のダンプカーが飛び込んできたり、不審火が起きたりするようなことがあったようです。

 この景気の過熱ぶりには、さすがに政府も日銀も危機感を抱くようになり、日銀は、公定歩合の引き上げを計画します。

 ところが1987年(昭和62年)10月、ニューヨーク株式市場で株価が暴落します。これは「ブラック・マンデー」と呼ばれます。

■日銀、景気過熱を冷ますのが遅れる

 どうして暴落が起きたのか。当時は、日本とドイツで景気が過熱していました。おそらく両国とも金利を引き上げるのではないか。そうなれば、ニューヨーク株式市場から資金が逃げ出し、ドイツや日本に向かうのではないか。こう考えた投資家たちが、株価が下がる前に株を売却しようと考えます。そして、みんなが同じことを考えて一斉に株を売ったため、暴落を引き起こしてしまったのです。予言したことが実現してしまう。こういう状況を「予言の自己実現」といいます。

 こうなると米国としては、ドイツと日本に対して、「金利の引き上げは先送りしてほしい」と働きかけます。

 米国に頼まれると断れない日本。日銀はしばらく公定歩合を上げることができなくなってしまいます。

 一方のドイツは、米国に言われようが我関せず。さっさと金利を上げ、バブル発生を未然に防ぎました。

 結局、日銀が公定歩合を引き上げたのは1989年(平成元年)5月になってから。米国への遠慮が、バブルを膨らませたのです。

■地価対策でバブル崩壊

 土地価格が高騰すると、資産家は嬉(うれ)しくても、庶民の不満は高まります。サラリーマンにしてみると、マイホーム取得が夢になってしまったからです。

 庶民の不満を政府として放っておくわけにいきません。地価抑制に動き出します。1990年(平成2年)、大蔵省が不動産融資の「総量規制」に踏み切ります。これは、銀行に対して、不動産購入のための融資額に関しては、その伸び率を、他の融資の伸びの範囲内に収めるように、と指導したのです。もっと有り体に言えば、「不動産購入のための資金の貸し出しは慎重に」というものでした。

 これ以降、土地を購入しようと銀行に融資を頼みに行っても、銀行がウンと言わない、という事態になります。これでは不動産が買えません。突然、不動産に対する需要が消えてしまったのです。

 こうなると、土地価格は暴落します。売りたくても、買ってくれる人がいないのですから。

 さらに政府は、1992年(平成4年)1月から0.2%の地価税を導入します。広大な土地を保有していると、税金の支払額も増える。土地売却に走る企業が出ますが、土地は売れません。ますます暴落しました。

 日銀も、ようやくバブルつぶしに乗り出します。公定歩合を1989年(平成元年)5月から1年3カ月の間に5回も引き上げ、2.5%から6%にします。

 金利が高くなるのですから、銀行からお金を借りようという人はいなくなります。低利で資金を借りて株や土地に投資(投機)する人がいなくなりました。

 かくしてバブルははじけました。

 土地の再開発を目指した地上げは中断。都心の各地に小さな空き地が残されました。売るに売れない地主は、土地を遊ばせておくわけにもいかず、各地にコインパーキングが出現しました。バブルの落とし子なのです。

 土地の値段が下がるということは、銀行貸し出しの担保になっていた土地の値下がりにもつながります。貸出金額より担保価値が低くなってしまったのです。これでは不良債権です。

 このときに銀行が果敢に不良債権を処理していれば傷は浅かったのですが、そうはなりませんでした。日本人お得意の戦術「先送り」をしたのです。

 人々は、「土地神話」に囚(とら)われていました。狭い日本では、土地価格が下がるはずはない、という思い込みです。「いまは一時的に土地価格が下がっているが、いずれ上昇に転じるだろう。そうなれば担保価値が上がって、不良債権は優良債権に転化する」。こう考えての先送りでした。

 また、先輩や上司が実行した融資を不良債権として処理することは、先輩や上司の批判になります。そう考えて遠慮した担当者も大勢いました。社内秩序に配慮し、自分の身の安全を守ったのです。これは、銀行の身の安全を守ることにはなりませんでした。

■金融システム不安、山一証券が破綻

 みんなが先送りをしている間にも、不動産価格の下落は続き、最初は浅かった金融機関の傷は、次第に深くなり、遂(つい)には致命傷になってしまいます。

 1997年(平成9年)11月、バブル期の過大投資が祟(たた)った三洋証券が破綻します。準大手証券会社の破綻は、金融界に波紋を広げ、金融機関同士の資金の貸し借りの機能がマヒします。同月、三洋証券破綻の影響で資金繰りが苦しくなった都市銀行の北海道拓殖銀行が破綻します(1998年に北洋銀行へ営業譲渡)。さらに同月、大手の山一証券が破綻し、仙台市の地方銀行である徳陽シティ銀行も破綻します。

 なんと1カ月で金融機関4社が破綻したのです。

 こうなると、銀行間で疑心暗鬼が広がります。金融機関は、互いに短期間の資金を貸し借りするコール市場で資金をやりとりしていますが、ここで資金を借りるのが困難になってしまったのです。

 さらに預金者も金融機関に対する信用を失います。ひとまず資金を引き出しておこう。こう考えた人たちが、金融機関の前に長蛇の列を作ります。

 金融機関の前に行列ができてしまっては、まるで取り付け騒ぎです。金融機関は慌ててお客を店内に誘導。会議室や階段に並んでもらって、外から預金引き出しの行列が見えないようにする工夫に追われました。

 もはや金融パニックでした。

■そして長いデフレに

 こうして、日本経済はどん底に転落。しばらく這い上がることはできませんでした。小泉内閣の時代に、金融機関の不良債権処理が強制的に実施された結果、体力が落ちた金融機関同士の合併が進み、日本のメガバンクは、3つにまで絞られました。

 その後も、日銀による低金利政策にもかかわらず、民間企業の投資意欲は高まらず、日本経済は、長いデフレが続きました。

 バブルは、いったん生まれると、はじけたときに甚大な被害をもたらします。バブルのつぶし方がむずかしいのです。バブルを事前に予防することが望ましいのですが、人間は性懲りもなく同じ間違いを繰り返し続けます。

 バブルは約30年ごとに繰り返すともいわれます。なぜか。バブルで痛い目にあった人たちは、バブルを引き起こさないのですが、この人たちが経済の表舞台から去った後、バブルを知らない世代が中心になると、また同じ間違いを犯しがちになるのです。

 愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。この言葉を覚えておきたいものです。

 さて、今回の「アベノミクス」で、日本経済はデフレ脱却なるのでしょうか。それとも行き過ぎてバブル再来になってしまうのか、注目しましょう。

http://www.nikkei.com/article/DGXNASGH0900H_Z00C13A1000000/?df=6

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