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日本人物放談コミュの福沢諭吉

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1835年〜1901年啓蒙思想家、慶応義塾創立者。豊前中津藩士として大阪に生まれる。緒方江庵の適塾で蘭学を学んだ後、英学に転じる。1860年、咸臨丸に乗りアメリカへ渡る。
欧米視察後、「西洋事情」などの著書を通じて西洋文明を紹介。明治維新後は在野の代表的啓蒙思想家として活躍、1882年には「時事新報」を創刊した。
著書に「学問のすすめ」「文明論の概略」などがある。

コメント(12)

韓国中国では右翼の親玉みたいな扱いですが文明論や学問のすすめによると
彼の言う報国心は西洋の市民社会的なナショナリズムに近いですよね、昨今の伝統、慣習をすっぽかした日本の左翼の言う市民社会と違って(人に頼らないだけでなく積極的に国に貢献できるという意味において)独立した一身は国体の上に立っているという考えが特徴的です、また人間交際により活発な議論と学問により人間の価値を高めよという学問のすすめのテーゼはアリストテレス的自由やアーレントの活動的生活、観照的生活に近いです、丸山真男が福沢を絶賛したゆえんたる「封建社会から近代への発展を機会にしてお上意識から脱却して自ら事をなすべし」という市民的ナショナリズムは現代においても達成されていない気がします。まあ丸山は福沢の揶揄した開化先生になってしまってますが・・・


脱亜論は非難されますが清、朝鮮を支援した後現状を知った絶望の表れだと思います。
> 鍾馗さん
文明論の概論とはまさにこの事について記した論文と言えます。
一個人が国だけに頼らず学問し、新しきイデオロギーを生み出す力を養うためになにが必要かということでしょう。
コメントのレベルが高い…
私は、「福翁自伝」から
蘭学者なので、オランダ語の能力は申し分ないのですが
その後覚えた英語は難があって
和訳は問題ないのですが
英訳はダメだったみたいですね。
咸臨丸には通訳としての役割を期待されて乗船したようですが
アメリカに着いて大恥をかいたとか

現代人にとって、福沢諭吉の英語力は
いい目標かもしれません(笑)
(辞書なしで第2外国語をここまで習得する
のは十分凄いんですけどね)
1つ書いたら、思い出してきた。
福沢諭吉は、日本人に向かって
政治に興味を持つように訴え続けています。

『由らしむべし、知らしむべからず』
が為政者の美徳だった時代の終わりを告げているようです。
福翁自伝の適塾での修業時代のはなしを見ると遊廓は嫌いでも若い頃は結構やんちゃだったみたいですね、攘夷志士に狙われながらも若者の啓蒙を続け、維新後も政界からのオファーを蹴って塾の運営にとりくんだ本物の先生です(慶應義塾では福沢だけが先生で他は弟子ということになってるそうです)、国民が放縦なら政府は厳しくなり、国民が規律を守っていたら政府は寛容になる、帝国憲法の臣民の権利条項の理念もこれに通じるものがあると思います 



興亜会顧問から脱亜論への変遷の過程を見ることは今の東亜細亜を読み解く助けになりそうです、北康利さんの「福沢諭吉国を支えて国を頼らず」を今度読もうと思います。
> きやっちさん
そうですね。
辞書なしの和訳なんて想像したらかなり難度の高い作業だと想像できます。
> 鍾馗さん
福翁自伝は読んだことありませんが、政治のオファーを断ったというのはやはり遊郭嫌いに起因しているのではなかろうかと想像できます。
なぜなら、英雄色を好むの通り政治の世界に身を賭す人士はリビドー的に人並み外れたところのあるものが多いと言われます。
そうしたことはあったのかもしれない。
平熱の改革と学問こそが生き甲斐だたのでしょう。
教え子を何人か、政府に送り込んでいるからというのもありますね
九鬼隆一が代表といえば代表なのですが…
福沢諭吉は彼の為に仲人まで勤める関係だったのにも関わらず
晩年は、酷評しています。

富国強兵の旗印のもと、大学と政府の足並みが揃っていた時期はそれなりに順調なのですが
美濃部達吉が天皇機関説を提唱するあたりから
西洋思想の市民社会やマルクスの階級闘争といった思想を
政府が危険視し始めます。

この頃から、九鬼隆一との関係に暗雲が立ち込めてきたと記憶しています。
> きやっちさん

天皇機関説は1930年代辺りまで政府公式見解でしたよ、司法試験は美濃部でないと受からんということで学生が集まりにくくなった主権説の上杉慎吉が陸軍大学校で教えるようになったことが軍部と政府の対立の原因になったように思えます、ちなみに彼はルソーを尊敬しており一般意志と天皇の一体化を考えていました。

政府の中では岩倉使節団がパリコミューンの惨状を見てきたこともあって民衆に懐疑的な考えが多く、それが市民社会への警戒につながったようです、実際帝国憲法はフランス革命批判の急先鋒エドマンド・バークの影響をかなり受けています(実際起草者の1人の金子堅太郎はバークの著者の妙訳を政治論略として出版しています)このへんの福沢と政府の認識のズレとともに九鬼が尊大な性格だったことも不和に関係しているようです。



なるほど…
下半分は自分が抱いてる大まかな歴史観で
史実とは差異がありました
指摘感謝します。

書く前にwikiと辻褄が合ってないのは
気になってました。

学問のススメが理論で福翁自伝がその実践と捉えてます。
って私は、学問のススメが未読なので書くとボロが出ます。

福沢諭吉の知識が福翁自伝と名著講義/藤原正彦の2冊の私はここら辺が限界ですね
> 鍾馗さん
啓蒙主義であり保守であったことの証明ですね。
> きやっちさん
戦前の大本営も今の財務省もそうですが、官僚主導の問題とは一般的な視観に欠けることが最大の理由ですね。

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