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歴史を楽しく学ぶ会[江戸編]コミュの江戸時代を襲った危機?(^O^)第2話 焦る幕府

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これは ロシア船を追い払うための幕府の方便でした(^O^)あせあせ(飛び散る汗)
徳川幕府は、寛永時代に 3代『家光』の時、ポルトガル船は来るな(`o´)むかっ(怒り)
中国・オランダの商人を、長崎の出島で管理された状態で 貿易を行ってきました(^O^)
幕府は、ロシア人がやってきたことにより 急に、幕府は 国を閉ざしていると言い出す(`o´)むかっ(怒り)
この時に、“鎖国”という言葉自体が 作られています(^O^)あせあせ(飛び散る汗)
『家光』の時代の 古文書には、“鎖国”という言葉は 出てきません(^O^)あせあせ(飛び散る汗)あせあせ(飛び散る汗)
この言葉は、ドイツ人医師『エンゲルベルト=ケンペル』が 日本に関しての「日本史」という書物を書いてますが、これを 1801(享和元)年に『志筑忠雄(しづき ただお)』が、和訳したときに “鎖国”という言葉自体が生まれます(^O^)人差し指
この時 始めて、日本人の中に“鎖国”という言葉が意識されてきます(^O^)人差し指
1806(文化3)年 2隻のロシア船が樺太(カラフト)の日本人居留地を 襲撃します(>_<)
樺太にある松前藩の建物や船を、ほとんど焼き払ってしまい 樺太が ロシア領であることを宣言します(^O^)人差し指
これが“露寇事件(ろこうじけん)”の始まりです(^_^;)
これは、『レザノフ』が 幕府の譲歩を ひきだそうとした 武力による圧力でした(`o´)むかっ(怒り)
この後、ロシア船は 択捉(エトロフ)島に行き ここで、水や食糧などを強奪します(`o´)むかっ(怒り)
当時、択捉(エトロフ)島には 幕府に派遣された200人の兵士がいましたが、守備隊は なんと戦わずして退散してしまったんです(>_<)あせあせ(飛び散る汗)
1807(文化4)年3月 幕府はロシアへの警戒感から、蝦夷地(えぞち)全域を 直轄地とし、松前奉行を設置します(^_^;)あせあせ(飛び散る汗)
ロシア襲撃をうけ、幕府は 東北諸藩に 蝦夷地への出兵を命じます(`o´)むかっ(怒り)むかっ(怒り)
津軽・秋田・庄内・南部の各藩から集まった総勢3000人の兵士が、蝦夷地に向けて出発しました(`o´)人差し指
3000人の兵士は、箱館・宗谷・斜里に配置され ロシアからの襲撃に備えました(^O^)人差し指
これだけ強化した警備体制にも関わらず、蝦夷地近海では 日本の商船が ロシア船に襲撃される事件が多発します(>_<)あせあせ(飛び散る汗)
ロシアと幕府との緊張は、一気に高まりました(`o´)衝撃(`o´)

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