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杜の会コミュの天橋立への旅 下調べ

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以下のように、楽天日記の方に紹介しております。

http://plaza.rakuten.co.jp/kinet/


天橋立への旅 (1)



天橋立

古くから名所として知られており、

一例として百人一首の小式部内侍の歌

「大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天橋立」

が見られるほか、丹後国風土記には、イザナギが天に昇るためのはしごが、イザナギが寝ている間に倒れて天橋立になったとの記述がある。

江戸時代から松島(現在の宮城県)、宮島(現在の広島県)とともに日本三景の一つに数えられた。





籠神社と天橋立

當宮の御鎮座は両宮共に、前期の如く、神代、又は懿徳天皇の御代と傳えられているが、當宮境内の地続きに有名な日本三景の一つである天橋立が存在する。

その起源については、上代は、當宮の神地神境否、神座とされていたもので、元初は、天神が天降られていて、国々島々を生み成されたとの傳であったが、

一般に知られている古風土記には、男神伊射奈岐神が、久志備の浜の北辺にある真名井原(女神所在の奥宮)へ天から通われる時に造られた梯(これを天浮橋と云う)が、大神が地上で一夜寝ていられた間に倒れ伏して出来たのが天橋立であるという説が伝えられている。

天橋立は、又、海橋立ともいって、別に海浮橋という古傳もあった。内海(阿蘇海)を、神輿が、神幸(船渡御)されて、龍穴から龍宮城へお出ましになった古傳もあり、海神の宮も橋立明神と稱して現存し、龍灯の松の傳もある。


 同大神は、真名井神社の裏側の磐座(磐境とも云う、社殿創始以前太古の祭場)西座にお祭りされてあり、この磐座を俗には、鶺鴒石或は子種石と呼んで、天照大神御出生の地と伝えられ、日之小宮という。








旅のメインは、元伊勢「籠神社・真名井神社」、そしてその参道と言われる天橋立、

笠松公園から望む天橋立・・・



天の真名井の水が湧き出ている真名井神社・・・ペットボトルをお忘れなく

この水が有る故に豊受大神が巫しますと言われ、



ケーブルカーで笠松公園へ行き天橋立を見て、降りて天橋立を歩き・・・良い運動になりそうです。





ここには「成相寺」があり・・・

願い事成り合う寺 西国三十三箇所第二十八番の寺です。

一人の僧が雪深い山の草庵に篭って修業中深雪の為、里人の来住もなく食糧も絶え何一つ食べる物もなくなり、餓死寸前となった。
死を予感した憎は「今日一日生きる食物をお恵み下さい」と本尊に祈った。すると夢ともうつつとも判らぬ中で堂の外に狼の為傷ついた猪(鹿)が倒れているのに気付いた。僧として、肉食の禁戒を破る事に思い悩んだが命に変えられず、決心して猪(鹿)の左右の腿をそいで鍋に入れて煮て食べた。

やがて雪も消え里人達が登って来て、堂内を見ると本尊の左右の腿が切り取られ鍋の中に木屑が散って居た。それを知らされた僧は観昔様が身代リとなって助けてくれた事を悟り、木屑を拾って腿につけると元の通りになった。此れよりこの寺を成合(相)と名付けた。




天橋立への旅  籠神社・・・ 



「籠神社」HPより

http://www.motoise.jp/main/yuisyo/index.html




神代と呼ばれる遠くはるかな昔から奥宮真名井原に豊受大神をお祭りして来ましたが、その御縁故によって人皇十代祟神天皇の御代に天照大神が大和国笠縫邑からおうつりになって、之を吉佐宮(よさのみや)と申して一緒にお祭り致しました。
その後天照大神は十一代垂仁天皇の御代に、又豊受大神は二十一代雄略天皇の御代にそれぞれ伊勢におうつりになりました。それに依って當社は元伊勢と云われております。
両大神が伊勢にお遷りの後、天孫彦火明命を主祭神とし、社名を籠宮(このみや)と改め、元伊勢の社として、又丹後国の一之宮として朝野の祟敬を集めて来ました。









亦名 天火明命・天照御魂神・天照国照彦火明命・饒速日命、 又極秘伝に依れば、同命は山城の賀茂別雷神と異名同神であり、その御祖の大神(下 鴨)も併せ祭られているとも伝えられる。尚、彦火火出見命は、養老年間以後境内の別宮に祭られて、現今に及んでいる。彦火明命は天孫として、天祖から息津鏡・辺津鏡を賜わり、大和国及丹後・丹波地方に降臨されて、これらの地方を開発せられ、丹波国造の祖神であらせられる。又別の古伝に依れば、十種神宝を將来された天照国照彦天火明櫛玉饒速日命であると云い、又彦火火出見命の御弟火明命と云い、更に又大汝命の御子であると云い、一に丹波道主王とも云う。
子孫長福、家内安全、諸病平癒の御神徳が聞こえる。





豊受大神は御饌津神とも申され、天照大神は、あまねく萬物を化育される天日の徳のように、天下蒼生を火の徳、高い徳を以ってお恵みに なり、生命を活動させられ、皇室や日本民族の大祖神と仰がれ、御饌津神は天照大神が崇祭された大神である。


大元霊神の御徳を分掌せられて、航海の安全、漁業の満足等をお司どりになる。


大元霊神の御徳を分掌せられて、水の徳を以って諸々の水利、水運、水道等をお司どりになる。奥宮相殿の罔象女命と共に神代以来最古の水神。




真名井神社に関しては、以下のサイトが興味深いです。

http://kammuri.com/s1/motoise2/manai/index.htm

名  称     籠神社奥宮真名井神社
所 在 地     京都府宮津市中野
磐座主座(上宮)   豊受大神(亦名天御中主神・国常立尊)
相  殿      罔象女命・彦火火出見尊・神代五大神
磐座西座(日之小宮) 天照大神・伊射奈岐大神・伊射奈美大神
祝  部      海部氏

御由緒(籠神社編纂による)

 古代丹波の最高神である豊受大神(天御中主神又は國常立尊とも云う)を氏神として戴いて当地方に天降られた天照國照彦火明命は、大神様をお祭りするのにふさわしい神聖なところとして、常世の波の寄せる天橋立のほとりのこの地をお選びになりました。こうして名勝天橋立の北端真名井原に御鎮座、第十代崇神天皇の時に天照皇大神の御霊代が當宮にお遷りになり、吉佐宮と申して豊受大神と御一緒に四年間お祭りされました。元伊勢の御由緒の起こりです。
 天照皇大神は人皇十一代垂仁天皇の御代に伊勢国伊須須川上へ御遷宮になり、豊受大神は人皇二十一代雄略天皇の御代に至るまで當地に御鎮座あらせられ、同天皇の御代二十二年に伊勢国度会郡の山田原に遷らせられました。
 奥宮は今、神代が現代に生きている聖地として信仰者の熱い祈りが日々捧げられています。



 真名井神社の本殿は一間社神明造で、屋根は桧皮葺です。 本殿は参道から直接磐座が見えないように建っており、本殿裏手には神様が磐座から社にお移りになるときに使われる神様用の出入り口があります。



真名井神社 背後には磐座がある


 恐らく社殿は最近になって建てられてものでしょう(それでも軽く数百年は経ているでしょうが・・・)。
 真名井神社を語るなら、社殿ではなく磐座を語らなければなりません。神が宿っているとして信じられ、神代から崇拝されてきた岩が社殿の背後にあるのです。向かって右側が豊受大神(天御中主神)の磐座、左側が天照大神・伊射奈岐大神・伊射奈美大神の磐座とされています。

伝聞・異聞

 時は昭和十三年、大本教信者の辻天水氏と三雲竜三氏の両名が真名井神社に参拝した際、三雲氏が突然神懸かり状態となりました。辻氏が審神を行ったところ、三雲氏に降りたのは真名井神社の眷属の龍神であることが判明しました。それ以後、真名井神社の龍神は昭和十八年にに至るまで神示を伝達し続けました。
 これが有名な『龍宮神示』です。
 神示の内容等については割愛しますが、真名井神社の龍神が神示を伝達した事に因んでか、参道には狛犬ならぬ狛龍が睨みを利かせています。(同様の狛龍は籠神社の末社、稲荷神社にもありますが、それは稲荷神社が近年真名井神社から籠神社へ移されたからです。)





真名井神社を語るとき、どうしても避けて通れない話題があります。それは下の画像についてのことです。



建立当初はこうだったが・・・・・ :現在はこうなっている

 真名井神社と彫られた石碑の向かって左にある石碑は、伝聞によると地中に埋まっていたものを有志が掘り起こして新しくしたものだそうです。真名井神社の由緒が彫られているのですが、建立当初は上部に籠目紋(六芒星)が刻まれていました。一説によるとこれは籠神社の裏神紋らしいのですが、籠目紋は「ダビデの星」とも呼ばれ、イスラエルの国旗にも描かれているマークであったため大騒ぎとなりました。以来いわゆる『日ユ同祖論(日本人とユダヤ人の祖先は同じであるとする論)』を扱った書籍等では、伊勢神宮の灯籠と並んで「日ユ同祖の証拠」として取り上げられる事となりましたが、風評があまりに大きくなったためか?はたまた野次馬の類が本来の信仰を妨げると判断されたためか?現在では籠目紋は削り取られ、籠神社神紋である三つ巴紋に変更されています。





上記のように、この神社参拝で霊感の強い方は、かなり影響を受けるようです。



六芒星が刻まれていた件は、以前からも聞かされてましたが、籠神社での籠目の紋(ダビデの星)で、やはり意味深です。



元伊勢の流れについて、先のサイトにあったので紹介です。



http://kammuri.com/s1/motoise/index.htm



皇女・豊鍬入姫命と倭姫命

天照大神の巡幸先は下記の通りです。

天照大神巡幸地一覧(倭姫命世紀による)

一、倭 国 笠縫邑
二、但波乃 吉佐宮
三、倭 国 伊豆加志本宮
四、木乃国 奈久佐濱宮
五、吉備国 名方濱宮
六、倭 国 彌和乃御室嶺上官
七、大和国 字多秋志野宮
八、大和国 佐々波多宮
九、伊賀国 隠市守宮
十、伊賀国 穴穂宮
十一、伊賀国 敢都美恵宮
十二、淡海国 甲可日雲宮
十三、淡海国 坂田宮
十四、美濃国 伊久良河宮
十五、尾張国 中嶋宮
十六、伊勢国 桑名野代宮
十七、伊勢国 奈具波志忍山宮
十八、伊勢国 阿佐加藤方片樋宮
十九、伊勢国 飯野高宮
二十、伊勢国 佐々牟江宮
二一、伊勢国 伊蘇宮
二二、伊勢国 大河之瀧原宮
二三、伊勢国 矢田宮
二四、伊勢国 家田田上宮
二五、伊勢国 五十鈴宮(現今の大神宮)


神宮(三重県伊勢市)


 天照大神は当初皇女豊鍬入姫命を御杖代(ミツエシロ)として各地を巡幸していましたが、豊鍬入姫命が老年になるに及んで御杖代を皇女倭姫命(ヤマトヒメノミコト)に交代しました。倭国、彌和乃御室嶺上宮(現・三輪山山頂か?)までは豊鍬入姫命が、以後は倭姫命が天照大神の御杖代となって諸国を巡幸しました。
 



次のような見方もあるようです。





但波乃吉佐宮

 天照大神の遷宮伝説を、大和朝廷の地方吸収劇が伝説化したのではないか?とする研究者もいます。なるほど但波・紀州・吉備・伊賀・近江・尾張・伊勢は本来海人族の勢力下であり、支配基盤を固める上で目の上の瘤だったことでしょう。

 倭国の笠縫邑を出発した天照大神が最初に向かったのが但波乃吉佐宮でした・・・





 伝説の吉佐宮に比定される神社は、

・籠神社
・皇大神社
・竹野神社

 の三ヶ所です。





丹後を懐かしんだ天照大神

 約六十年の歳月を要して二十五回も遷宮を繰り返した天照大神でしたが、伊勢内宮に鎮座したのちも安らかに鎮座することはできませんでした。
 雄略天皇の御代に天皇の夢に天照大神が現われこう仰せになったそうです。

 吾れ一所のみ坐すはいと苦し、しかのみならず大御饌も安く聞こし召さず、丹波国比治の真奈井に坐す等由気大神を、我が許に連れて参れ。

 天照大神の求めに応じて伊勢に招かれたのは、丹後遷宮の折りに御饌を大神に捧げられていた豊受大神(現在の伊勢神宮外宮祭神)でした。

豊饒の神と真名井

 豊受大神は真名井と呼ばれる水源と共に丹後各地を転々とした豊饒の神であり、その伝承は丹後各地に残っています。
 丹後に於ける豊受大神ゆかりの神社は、下記の通りです。

・籠神社奥宮真名井神社 
・元伊勢外宮豊受大神社 
・比沼麻奈爲神社
・田口神社 
・笑原神社 














天橋立、元伊勢、真名井神社、これらパワースポットの場所は歴史的にも深いものがあるようです。



元伊勢、興味深いのは滋賀県信楽にある「日雲神社」、紫香楽宮跡の近くにあるのです。

十二、淡海国 甲可日雲宮










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