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人間論および人間学コミュのアリストテレス『形而上学』をひたすら読む

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こんにちは、Insightと申します。
このトピでは、私が、ひたすら岩波版『形而上学』(出隆さん訳)を要約していくという、基本的にただそれだけのトピックです。
トピックを立てるにあたり、そもそも「人間学とは何か?」ということを考察すべきではありましょうが、手元によろしい資料(たぶん、菅野盾樹さんの『人間学とは何か』(産業図書)かな)がないので、管理人のお言葉に甘えて、「哲学」という括りで、たてさせて頂きます。
たまに、私の感想などが書いてありますので、その読み方は違うなど(或はその読みは素晴らしい?)いろいろ、ご意見いただけると嬉しいです。

コメント(11)

まず、人物と著作の確認からです。

アリストテレスは一人の人物です。
偶に、アリス と テレス の二人組みだと思っておいでの方がいらっしゃいます。確かに、哲学から、政治、倫理、動物学に心理学、天文、気象とさまざまなことを一人でやっているので、無理もないのですが、紀元後三八四年にアテネ北方のスタゲイラで生まれています。
(ちなみに、ソクラテスの刑死が三九九です。)
その後、老プラトンに弟子入りしますが、すぐに遍歴にでます。

彼の作った学園リュケイオンでの講義録がCorpus Aristotelicumとして残されているアリストテレス全集です。
編纂は紀元後一世紀にロドスのアンドロニコスによって行われています。ですから、この『形而上学(タ・メタ・フィジカ)』も編集の手が加えられており、アリストテレスが講義した順序そのままというわけではありません。
997b1
 プラトンは『国家』509D〜511Eに於いて、線分の比喩を説く。四分割された線分は、人知の対象を示す。理性によって知られるノエーシス。何らかの補助(図や線)を使って悟性により知られるディアノイア、すなわち数学。そして、エイカシアー(間接知覚)とピスティス(直接知覚)。最後の二つはドクサストン、つまり感覚される仮の姿である。
 この内、ノエーシスはイデア、エイドス、永遠なる真実在だ。

 アリストテレスは、この説を受けて、まず独立に存在するエイドスは存在しないのではないかと問う。この世から独立なエイドスたちは、この世を基にして空想した別世界、「感覚の永遠化にすぎない」というわけだ。(もちろん、プラトンは比喩によってそんなことを主張したのではないという反論も成り立つ。)
 音を考えてみよ。(アリストテレスは言う。)音は感覚され変化するが、音のエイドスが別世界にあるなら、それも変化するというのか!? エイドスが不変であることに矛盾する。
 では、アリストテレス、あなたはあの謎の人と同じように万物流転を説くのですか?
 測量された価は、流転するのか。確かに川の水位は変化しよう。だが、だからといって、ある時、測った測定値までは流転しまい。何らかのエイドスはあるのだ。
 そうすると、その在り方が問題となる。だが、プラトンの言うように、数学のエイドスをドクサストンとノエーシスの中間に置くことはやはり、この世ならぬ別世界の空想にほかならない。

 1953年にクワインにより発表された「経験主義の二つのドグマ」は論理実証主義への反旗であった。論理実証主義の領袖カルナップは、数学的命題をアプリオリな分析命題とする。そして、数学的真は規約による真なのだ。この考えは勿論、プラトン的実在論に与するものではないが、二元論の構造をとる。すなわち、還元主義的経験論によって、もう一方では、有意味な命題は直接経験の報告に過ぎないのだ。
 クワインはこれら二つのドグマ、分析性と還元主義を打ち砕く。まず、分析性をその説明が循環にならざるを得ないことを示し、最後の砦である還元主義に追い込む。しかし、還元主義によって分析性、例えば「運動量は速度に比例する。」が救えるはずがない。かくして、論理実証主義の規約主義は崩れ、もう少し緩やかなholismへと移っていく。(淵で感じるholism)
 holismに於いて数学は、ゲームにすぎない。数学の必然性は、プラグマティックな観点からゲームが改訂しづらいゆえに必然的であるにすぎない。

 さてでは、アリストテレスは数学をどう考えるか!?
 それはまた、別の話。
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 実念論vs唯名論
 まず、最上位の類は何かという問題が立てられる。例えば、善や美がその座を占めるとしたなら、「一なるもの」という条件にはずれるだろう。形相因はそれぞれのものに一つであろうに。ならば、善や美の上に「一」がある。繰り返すが、「一」はないのではなく、あるのだ。だから、「存在」も形相であろう。「一なるもの」これが最上位の形相である。
 これを受けて、実念論と唯名論のそれぞれに障害が叩きつけられる。
 種差(specific difference)を考えるとき、種差は類で足りるか? 例えば、Suicaペンギンを考えようか。これの類は「縫いぐるみである」。種差はSuicaペンギンだけが持っている類であろうか。

 ピングーにはなく、Suicaペンギンにだけある性質とは?

 これは、アリストテレスの文脈を離れても、思いつくのに時間の掛かるということでは、かなりの難問である。当然のことながら、「Suicaペンギンである」ことは種差にならない。これは、同語反復を作るだけで、定義としては不十分だ。Suicaペンギンがidentitiy crisisに陥ってしまう。「JR東日本のキャラクターである」ことなら、Suicaペンギンを定義づけるに相応しい性質だ。しかし、この概念の中には「JR東日本」などとう固有名詞が入ってをり、類概念としては下位概念にあたる。ここをもって、類は種なくしては定義なしといえよう。
 同じことが、唯名論にも当てはまる。Suicaペンギンの定義は「縫いぐるみであり、JR東日本のキャラクターであるもの」であった。ここで、種概念を外せないように、類概念もやはり外せない。
 以上がアポリアの七である。

 アポリアの八に入る前に、アリストテレスが議論の前提にしていることをみる。
?知るとは述語付けのことだ。
?事物は質量(ヒュレー)と形相(エイドス)の結合体(シノロン)だ。
 この二つを受けいれてしまうと、唯名論の側には、?から、無限に多くの個々の事物を知ることができるのかという問いが叩きつけられる。しかたがなしに?を受けいれて、形相を含んだ論の形成に向かうしかない。(多分、それがクワインの議論ではないか!?)
 実念論の側にとっては、?を受けいれるなら、形相とはいかなる様態で存在するのかという問いが待ち構えている。少し考えてみれば明らかなように、結合体と形相が共通部分をもってしまってはいけない場合がある。思惟の対象だ。善や美は、ここにあるのではんく、ここから目指されるべき形相だ。したがって、【形相は結合体とは別にある】という(奇妙な)結論がえられる。

[感想]
 中世末期14世紀のオッカムあたりまで、西洋では実念論が常識であった。この世は神が作りたもうたのだから、普遍が前提とされる。一にして全なる存在(=神)が天上から光を降り注いでいる。
 この考えは神学的色彩を取ると、なかなか良くできた哲学思想だ。普遍を前提にしてしまえば、人間は、自然からの刺激をうけて、それを生得的な普遍概念によって処理する。後は、この「普遍から個体への過程」(=個体化の原理)を探求するだけである。トマス・アキナスの恩寵の光と自然の光という考え。(しかし、それではどうして人は間違えるのか? 誤謬とは何か?)
 クワインの方略にも、観察文とは何を観察しているのかという難題が付き纏うが、こちらの方がまだましな気がする。
 では、アリストテレスを読む意味は何なのか? 今日は面白かったからいいようなものの、つまらない日は何をやっているのか? 「本の運命」という神話を信じたとしても、現代哲学だけでいいのではないかという誘惑が頭を擡げる。それでも、読むからには、アリストテレスの中にだけある問題意識を抽出しなければ読んだことにはならない。

参考文献 八木雄二『中世哲学への招待』
ぬいぐみのうさぎが、「ほんとうのうさぎ」に成りたいと思うお話。「ほんとうのうさぎ」になれば、もっと男の子と遊ぶことができると、ぬいぐるみのうさぎは考えるのだ。ここには、ぬきさしならない問題があるだろう。
 第一に、「ぬいぐるみのうさぎ」が、考えることができるのかという問題。内部構造「綿」のうさぎが考えているのである。こういうことは、当人(当ぬいぐるみ!?)にしかわからないだろうから、シナダに聴いてみる。
「おい、シナダ、おまえは何か考えてるのか?」
「・・・・」
「考えてないのか!」
「・・・・」
「自分の意見は、ちゃんと言葉にしないとわかんないんだよ。何のために口があると思っているの?」
「・・・・」
 シナダというのは、我が家にうじゃうじゃあるタヌキのぬいぐみの一つで、シナダ社の製品なので、シナダという。シナダは何か考えているような、考えていないような顔をしている。仕方が無いから、潰してみる。ギュ〜ウ〜。「・・・・」
 口を割らない。我慢強い奴だ。同類の秘密を明かすまいと、義理立てしているのか。それとも、本当にただの綿なのか!?
 これ以上、こんなことを続けても埒が明かないし、記述のリアルさに読者諸賢に呆然とされても困る。そこで、『名指しと必然性』の第三講義をざっと読み返してみる。
 クリプケの考えでは、われわれが現実において認定したものが、そのものの本質として発見されるのだ。シナダの本質は「綿が包まれていること」である。だから、ぬいぐるみ。
 しかし、将来高性能の「綿」が開発されて、ぬいぐるみが意識をもつというのはありそうなことだ。(近頃は他我問題より心身問題の方が流行りのようだが、どちらも心理学では「心の理論」で片がつく。私にとって目下、問題なのは自我問題[独我論ではなく]だが、話が逸れた。)そして、心理学者たちによるあらゆるテストを経て、意識があることが確認される。高性能の「綿」は綿じゃないと言われるかもしれない。簡単に、小人と綿を一緒に縫いぐるんだものでもいい。ぬいぐるみ進化論。
 さて、第二の問題は、こうして「心の理論」を持った(簡単に心を持ったでもかまわない)ぬいぐるみは果たして、本物になったのだろうか? ここが大問題だ。シナダに聴いてみよう。今度はちょっと紳士的に。
「シナダくん、君は心がほしいかね。」
「・・・・」
「まあ、そう恥ずかしがらずに答えてみたまえ。」
 首を振るシナダ。(正確には振らせた)
「そうか、今のままがいいのか。なかなか、お利口だねぇ〜。」
 クリプケの見解では、シナダは、たとえ突然話し出したとしても、「ぬいぐるみ」なのだ。そして、たとえ、ほんとうのタヌキのような行動をとったとしても「ぬいぐるみ」なのだ。では、可能世界Cくらいで、同じことが起こったらどうか!? 可能世界なのだから、「タヌキのぬいぐるみが、ほんとうのタヌキになる」ことはありそうではないか!? しかし、クリプケによれば、この現実世界の認定がもとになっているのだから、可能世界Cで起こっていることは、「タヌキまがい」の出現に他ならない。(もう少し離れて、可能世界Eまで行っても同じ。)クリプケというのは案外、頭の固い奴だ。

 残る手立ては、われわれの言語の規則をそっくり変えてしまうことだろうか。

 アリストテレスもクリプケと同意見なのだろうか? あるいは、絵本の中に書かれていることは嘘なのか!? 十二時に成ったらほんとうの姿に戻るというあの空話のように。

「そこまでして、タヌキになったところで・・・」
 やや呆れ顔のシナダであった。
第四巻・第三章と第四章

 前回までで、私たちは、存在を存在としてなす原因を探求するという課題を立てたのであった。

 存在(ト・オン)は全ての事物にあてはまる。これも、アポリア集において確認したことがらであった。

 ところで、理論的研究者(テオーレテイコイ)によって、扱われる数学的諸学科、その中でも公理(アキシオーマタ)と私たちの学との関連を考えてみよう。

 アキシオーマタは、自然学者(フィシオロゴイ)が扱うような特定の類(ゲノス)にだけ関わる学と違い、存在すべてに該当する。そのことは、数論の基礎である一(ト・ヘン)が事物の全てに当てはまることを考えれば容易に判断がつくだろう。

 すると、事物の全てに当てはまることとして、ト・オンとアキシオーマタの二つがあるわけだ。ここから、私たちは、「存在の公理」の可能性に導かれる。
 
 この存在の公理は、?実体を全体としてありのまま研究し、?諸々の推理上の原理を検討し、?あらゆる存在の最も確かな原理を説く者、すなわち哲学者(フイロソフォイ)によって、探求せられるべきであろう。

 存在の公理、それはすなわち、矛盾律[〜(A∧〜A)]である。一見、これに反すると思われるヘラクレイトスもやはりこのアキシオーマタに忠実であった。

 人は、このアキシオーマタの論証を私たちに求めるかもしれない。しかし、早まってはいけない。事柄には論証に適するものとそうでないものとがあるのだ。

 論証(アポディクシス)は、ある命題の成立を示す。
 それに対し、
 弁駁(エレンコス)は、ある命題の不成立を示す。

 私たちは、〜(A∧〜A)を論証することはできないが、A∧〜Aを弁駁することはできる。すなわち、この弁駁は私たちの側から始めるのではなく、この存在の公理を認めないという人々が代わりに認めているものを言わせることからはじまる。

[感想]
 1005b20は、論理学史上はじめて矛盾律が公言された箇所と人々の記憶にとどめられてきたのだった。などと出隆先生の注が付いているが、矛盾律に気づくのは、それほど偉いことなのだろうか? 私はそうは思わない。それを記号化するかどうかは別として、多くの生活人が子どもの頃にすでに意識している常識だろう。そして、それが存在の公理である(つまり、どんなものでも当てはまる)ことも常識だ。
 アリストテレスは、矛盾律宣言をしたから偉いわけではない。(ご本人も偉いことをしていると思っていなかったろうが。)その後に続く、矛盾律は弁駁されることでしか示されないという矛盾律のあり方に気づいたことが偉い。気づかないと一生を矛盾律の論証を求めて生きることになる。私たちの世界は、その基底を掘り返せる部分と、鋤を当ててもその鋤が跳ね返されるしかない底の底があるのだ。
Insightさん、トビ立てありがとうございます。
管理人以外になかなかトビ立てしてくださる方がおられないので、議論がかたよってしまうのではないか、退く人が多いのではないかと危惧しておりまして、他のメンバーの方もこういうトビ立てをどんどんお願いいたします。

「アリストテレスの形而上学をひたすら読む」ということで、哲学という括りでトピ立てをされることの是非についてですが、哲学という括りでトピ立てをされることは大いに結構です。ただし、その場合、哲学と人間学は同じであるとか、哲学は人間学に含まれるという自覚が欲しいですね。

たとえばカント哲学だと哲学は広義の人間学ですし、西田幾多郎も哲学は人間学だと述べています。

私の管理しているコミュニティには「倫理が好き」があります。「倫理学」は人間はいかに考えるべきかという意味での「哲学」を含むわけです。ですからそちらに移動されれば全く問題はありません。

ただぬいぐるみは考えるようになったら本物になるかと言う問題は極めて人間学的な問題で、そういう思考が続くなら、このまま是非このコミュニティで展開してください。

私も「鉄腕アトムは人間か」というファンタジーでその問題を扱っております。もしコメントいただければ幸甚です。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~yasui_yutaka/daiboukenall/1s.htm




>やすいさんへ
 ご忠告、かたじけないです。
 私の「哲学」についての態度は、私の日記「哲学の作法」を御覧下さい。
 それぞれの学が何であるかという議論は、その学におけるパラダイムの転換がなされるときに、必ず引き起こされる議論でありました。
 ですから、それぞれの時代で、「哲学」の意味が変わってくるのは当然といえましょう。
 また、これも興味深い問題なのですが、現代の日本において「哲学」と称されるものは、幾つかに色分けできると思います。私は、長く、大森荘蔵の影響下にあり、私の哲学は私の知らぬところで、大森哲学の色合いを濃く帯びていると思います。多くの対象を扱ったとしても、哲学は対象が何であるかよりも思索の姿勢がどうであるかによって色分け(それが可能なら)されるべきというのが私の基本線です。
 この大森哲学に対して、(私の尊敬する哲学者の一人)広松渉さんは、「人間を捉えられない」とはっきり批評しておいでです。(文春文庫『哲学になにができるか』) そして、「人間論」という部立ては、まさにカッシッラーによるものなのですから、たとえ、アリストテレスを読むとしても、そこに、広松さんの影響を受ける方々からすれば、異質なものを見られることは、納得のいくところです。
 やはり、少々、私の為し様は、勇み足だったとおもいます。もう少し、熟慮の上に、今後の展開をどうするか検討したいと思います。

 ありがとうございます。
やすいさんからのアドバイスを受け、
このトピは、菅野さんの『人間学とは何か』を読んで、人間学と哲学のスタンスを決めてから、スタートすることにします。

そのまえに二つばかり注。

カント。カント自身の学に対する部立ては、『人倫の形而上学原論』の初っ端に詳しく展開されています。興味の在る方は、そちらを。

アリストテレスとぬいぐるみ。アリストテレスの関心は甚だ本質にありました。ぬいぐるみの話は、心の問題というよりは、たぬきの本質の問題でした。ここ、伝わり難かったのは私の文章の稚拙のゆえです。
>>[002]

とてもわかりやすい論述でした。
どうもありがとうございます。
>>[1]

ソクラテスが刑死した時、アリストテレスは15歳ほどだったのですか。
プラトンはいくつぐらいだったのでしょう。

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