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コメント(26)

大都市生活の非人間性
http://blogs.yahoo.co.jp/tessai2005/28175205.html

随分昔に書かれたものだから、今はいろいろと個人レベルでは都会なりの
楽しみ方やら人との群がり方も出てきていると思うけど、とりあえず、メモ
非常に興味深く読みました。

>>貨幣経済と「理知の支配」とは本質的に結びついている。両者は、人間をも事物をも、きわめて即物的、事務的な態度で扱うという点で、共通している。「貨幣の支配」のもとでは、すべてが交換価値に還元され、個別の現象や、事物の質や独自性には関心が払われない。同様に、知性に支配された合理的な社会関係においては、人間も計量可能な数字のようなものとして扱われ、それぞれの人に独自の人格や個性には関心が向けられなくなる。

はここ数年よく考えていることです。
内田樹さんの「等価交換」という言葉も思い出します。
全てを「数量」で計りたい、という欲求が貨幣社会を猛烈にドライブさせて
いるような気もします。
貨幣社会になってそういう欲求が出てきた、という状況とあいなって。


>>いかにも大都会らしい、正気の沙汰とは思われぬ一人よがり、むら気、わざとらしさ。そうしたものの意味は全くもってその態度の内容にあるのではなく、ただ、人とは違うぞと自分を臆面もなくさらけだし、そのことで目立ちたいという形の方だけにある。これは多くの人にとっては要するに、他人の意識という廻り道を通って、自分もいっぱしの者だと思い、自分もそれなりの場を得ているのだという意識を、自分のためい救いだすための、唯一の手段にほかならない。

ここを読むと「自分らしく」という昨今流行の言葉を思い出します。
「自分らしく」が流行る理由はこれなんですね。
「自分らしく」病に襲われて、他人を疎かにしないことを祈るばかりです(笑)。


僕は古典は、古典であるだけで価値があると思っています。
なぜなら、何百年、何十年も前のものが、今でも読めるということは、
「未来の人も読めたほうがいい」という過去の人々の祈りの結果に
他ならないと思うからです。
そう思われる本には、状況が違っても有用な知見があるのだと思います。
そういう意味で僕は過去の人々を信じています。
また「有用な知見がある」と思いこんで読むことで、
それを発見できることもあるわけで、(誤解含む)
古典というだけですでに価値はありますね。
僕たちがやらなければいけないことは、
「未来の人々が読めるように、古典から知見を受け取って、
 「すげーなー」と思い、言うこと」だと思います。
都会=多数の未知なる人間とかかわらなくてはならない社会

田舎=既知の人間と密接な関係を築かなくてはならない社会
内田樹さんブログより
http://blog.tatsuru.com/2010/08/31_0927.php

特に

一昨日の高橋源一郎さん、渋谷陽一さんとの鼎談の最後の方のテーマは「シュリンクしてゆく社会で、市民はどんなふうにすれば尊厳を持って、かつ愉快に生きてゆくことができるか」ということであった。

以降
まだちゃんと読んでないけど、メモクリップ

絆(きずな)と柵(しがらみ) は違うのか? 何なのか?
(あと、しがらみを感じるのって世代によって違う?)

とりあえず、人のブログクリップ
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:tRKQXjc1g8sJ:ameblo.jp/superwoman-m/entry-10435418458.html+%E3%81%8D%E3%81%9A%E3%81%AA%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%8C%E3%82%89%E3%81%BF&cd=11&hl=ja&ct=clnk&gl=jp&client=firefox-a
メーカーは「下流食いビジネス」に参入すべきなのか
http://techon.nikkeibp.co.jp/article/TOPCOL/20100906/185465/

〜下記、記事より抜粋〜

"「サラ金(消費者金融)→パチスロ→法律事務所→ソーシャルゲームとTVCMに出稿する広告クライアントの主流は21世紀以降移り変わってきたけども,業態は違えど“これらのビジネスターゲット”が全く変わっていないことに注目すべき」"

"どんなサービスにも,光の部分もあれば影の部分もあります。例えば,SNSにとっては「出会い系としての利用をいかに食い止めるか」は永遠の課題です。「影の部分」をなるべく少なくしていく努力は必要ですが,本気でサービスに取り組みたいなら,「光の部分だけをつまみ食いしたい」というのは不可能です。今後,サービスを手掛けるメーカーは,「サービスには影の部分もある」と覚悟を決めなければならないと思います。 "
goo辞書より

絆
人と人との断つことのできないつながり。離れがたい結びつき。「夫婦の―」

しがらみ 
引き留め、まとわりつくもの。じゃまをするもの。「世間の―」


順番的には、
絆 ⇒ しがらみ
なんですかね。
しがらみから絆は発生しないけど、絆からしがらみは発生する、
というところから考えてみると何かあるかも。
>"「サラ金(消費者金融)→パチスロ→法律事務所→ソーシャルゲームとTVCMに出稿する広告クライアントの主流は21世紀以降移り変わってきたけども,業態は違えど“これらのビジネスターゲット”が全く変わっていないことに注目すべき」"

この意見は熱いですね。
多分共通項は
「下の方にひっぱる」ということですかね。

重力業界と呼ぼう(笑)
>順番的には、
>絆 ⇒ しがらみ
>なんですかね。
>しがらみから絆は発生しないけど、絆からしがらみは発生する、
>というところから考えてみると何かあるかも
なるほど、、そうか、確かにすね。
なんかそこ、ヒント!!
別でトピでたてるかもです。

>重力業界と呼ぼう(笑)
んなるほど、うまい(笑)
「科学は人間に何をもたらすか?」
http://poran.sblo.jp/article/35388297.html

〜下記、記事より抜粋〜
ひとつだけ茂木氏が
「科学は人間に何をもたらすか?」
と言う質問に彼はじっと考え込んで
「あるとすれば欲望を実現すること、
そして諦めること」と答えたのだった。
茂木さんの好きな部分って、
>「そして諦めること」
というとこですね。
この人、科学万能なんて全く思ってなくて、
人間じゃどうしようもできないことがある、ということを知りたくて
科学をやっているんじゃなかろうか、なんて思うことがあります。
とても知的ですね。
>6
メーカーは「下流食いビジネス」に参入すべきなのか
http://techon.nikkeibp.co.jp/article/TOPCOL/20100906/185465/

より。

>ユビキタスエンターテインメント 代表取締役社長 兼 CEOの清水亮氏が「あと,事実として1000万人近い人が遊んで面白いと思ってるものを下流とかいっても始まらないでしょう。ブラ三(注:「ブラウザ三国志」のこと)のヘビープレイヤーはみんな企業のトップとか医者とかだよ。趣味のゲームに100万円払うのと,趣味の車に2000万円使うのとなにが違うのか」と述べています

・ 事実として1000万人近い人が遊んで面白いと思ってるものを下流とかいっても始まらないでしょう。
⇒ 1000万人というかなり大きな規模が「下流」に落ちている、
  という指摘は有効でしょうか?
  「下流」の定義で変わっちゃいますが。
  多分、この記だったり、通常は経済的な意味で使われていると思いますけど、
  意味を大胆に広げて、経済的なものだけでなく
  知性とか他人に与える感情とか健康さとか、
  そんなものも加味した「下流」に定義しなおす、というのも興味あります。
  その定義なら1000万人の「下流」は多いに発生しうる、と思います。
  (現状既に発生しているかもしれません)

・ ブラ三(注:「ブラウザ三国志」のこと)のヘビープレイヤーはみんな企業のトップとか医者とかだよ。
⇒ そんなわけない。「みんな」とか使う人を僕は信じません(笑)。
  絶対に自分で調査できないことに対して、「みんな」なんて使う
  思慮の浅さは好きではありません。

・ 趣味のゲームに100万円払うのと,趣味の車に2000万円使うのとなにが違うのか。
⇒ ゲームと車の違いは僕にはよくわかりませんが、
  多分、清水亮さんはゲームをやりこんだことがないのかな、と思います。
  ゲームをやり込んだことがある人なら誰もが必ず思うはず、
  「あー、5時間もオレ何してたんだろ…。もったいない…。」と(笑)。
  このやり込み感覚があれば、多分、上記のような言葉は言えないと
  思うんですけどねえ。
  ゲームに100万円使う(100円分の時間を使う)ことの徒労感、ゲンナリ感
  は、十分「下流」への入り口に誘う力はあると思います。
>12 間違い訂正

(100円分の時間を使う) ⇒ (100万円分の時間を使う)

ゲームに100万円使う(100円分の時間を使う)ことの徒労感、ゲンナリ感 は、十分「下流」への入り口に誘う力はあると思います。

 ⇩

ゲームに100万円使う(100万円分の時間を使う)ことの徒労感、ゲンナリ感 は、十分「下流」への入り口に誘う力はあると思います。
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1005/21/news074.html
「ジンバブエ人は幸せか?」
ひるゆき氏と勝間氏の対談関連
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1334750&media_id=32
「お金があるほど幸福」ではない?――米大学が調査

----

お金があるほど幸せを感じるのは、年収7万5000ドル(およそ630万円)まで――米プリンストン大学の教授らがこのような調査結果を発表した

----

実際は知らないけど、ただ

「幸せはお金だけじゃない」という価値観を
持った方が、これからは幸せに生きて行ける、

ということは、けっこういけてる線ではないかと思います。
所在不明 きずなの断絶と孤立
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1337432&media_id=2

>全国で頻発した高齢者の所在不明問題は、「長寿社会」を根底から揺さぶった。厚生労働省によると9日現在、住所登録地に所在が確認できない100歳以上の高齢者は271人に及ぶ。不明者の周辺を取材すると、多くのケースに共通する光景が浮かび上がる。家族のきずなの断絶と地域社会での孤立だ。ひそかに蓄積されてきた社会のひずみ。その生々しい現実に気づいた今、行政も地域社会もたじろいでいる。


「家族のきずなの断絶と地域社会での孤立だ」

ここから始めていいのか?? ってことを最近思います。
これを前提に話をするのと、話の過程でこれがでてくるのとでは
まったく内容が変わるような気がします。

これ系のニュースなり、特集などをみると、
前提として「家族のきずなの断絶と地域社会での孤立だ」が
採用されていることが多いので、
全部似たり寄ったりなものになります。
内容は似てても全然いいんですけど、
何か別の道はないのかな、ってぼんやり感じています。
内田樹さんブログ 9/14
「成功について」
http://blog.tatsuru.com/2010/09/14_1114.php

「成功」についてのアンケートに答えた、という内容です。
とても面白いですよ。

>「幸福」についての物差しはあくまで個人の主観的印象です。
ですから、「私は幸福である」という言明は他人が否定しても、私が宣言すれば成立します。
この言明を否定する権利は他者にはありません。「あなたが幸福であるはずがない」という反論はほとんど無意味です。
しかし、「私は成功者である」という言明は個人的なものではあり得ません。
ここには「私は世間から成功者とみなされているはずである」という、「他人の判断についての評価」が含まれているからです。
ですから、それについては、「あなたの『他人の判断についての評価』は適切ではない」という反論が可能です。
「あなたは成功者ではない。現に、私はあなたを成功者だと思っていない」という言明は十分に破壊的です。
この記事↓!

読みづらいフォントで学習効果がアップ
http://slashdot.jp/articles/11/01/07/0731210.shtml
”プリンストン大学の心理学者チームの研究によれば、読みづらいフォントは学習効果を上げるとのこと”

電子書籍とリアルの本で読む時の話をしてた時に
ページをめくったりする「ひと手間」が
その本の内容の理解の深さが違うはずと言ってた
成さんの話を思い出しました。

すごくいろいろなものについても
「ひと手間の効用」
として、いろんな例を見つけれそうな気がしました。
今の時代「ひと手間」をいかに省くか、
ということに一生懸命で、それを出来る人がビジネスで勝者になれる、
という枠組みで物事が考えられているのが主流だと思います。

でも「ひと手間」は決して邪魔者ではない、と僕は思っています。
読みづらいフォントの話も、本、音楽も映画も何でもそれですけど、
「ひと手間」がもたらす効果は見逃すことができないと思います。

端的に言えば、
「自分は省けるはずの‘ひと手間’を省かずにこの本を読んでいる。
 なぜだろう? その理由を探さなくっちゃ。
 その‘ひと手間’かけた分はしっかりこの本から得なくちゃもったいないね。
 自分が‘ひと手間’かけるくらい価値があるもの、ということにしよう。
 そのために良いとこを見つけなくっちゃ。」
ということのように思います。
「ひと手間」かけた理由を自分で見つけることは、
その対象物への接着力を強めるんじゃないか、というのが僕の仮説です。

無料で手に入れたものより、自分でお金を出して買ったものの方が、
大事にするだろう、という子供っぽい論理に似ています。
でもそれは実際なんだと思います。
お金をだしたもの=身銭をきったものを自分で否定することは、
なかなか出来ないことです。
下手すると、お金を出した自分を否定することにもなり得ますし。
身銭を切ったものに対しては、何だかんだ理由をつけて
「良いもの」にしようとします。
ひどく功利的ですけど、僕はそれで良いと思っています。
それが「良いもの」を見つけるコツだ、くらいに思っています。
「良いもの」に出会いたければ身銭を切れ、
そして「良いもの」に仕立てちゃえ。

「ひと手間」とはこの「身銭を切る」ことだと思います。
お金ばかりでなく、
自分の時間やエネルギーや、様々な自分のものを使うこと。
その作業は、疲れるし、めんどくさいことが多いです。
だからこそそこから回収しなくては、と思います。

「読みづらいフォントを読んでるこの労力は、
 しっかり成績をあげることで相殺しよう」
この無意識的な帳尻合わせこそ、「ひと手間」の手柄ではないでしょうか。

物事をする際、何かしらめんどくさいものを
自分でさりげなく設置した方が良いと僕は思います。
そして自分で設置したことを忘れて(忘れたふりをして)、
それを乗り越える「ひと手間」を受け入れる。
その作業が、良いものを生み出す一つの核になるのではないでしょうか。
これも一種のプロレスです(笑)。

読みやすく、軽く、持ち運びやすく、安く、買いやすい。
そんな便利は「ひと手間」を作ることを否定します。
無料で音楽を聴くことも、無料で音楽を売ること(言い方が変だ)も、
「身銭を切る」行為を否定します。
(僕はこの件においてはRadioheadを否定します)
結果的にそんな便利は、物事の価値を蔑むことに繋がるのではないか。
そんな風に僕は思っています。

長々と失礼しました。
仕事中でした(笑)。
読み返してたらなかなか面白いではないですか(笑)
巨人渡辺会長粛清予告「誰がこんなにした」
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1664696&media_id=8

>今季4度目4連敗で、借金は2ケタ10に膨らんだ。前夜、「チームを救う『真の男』が出てこないな」と現状を嘆き、試合前にも「日替わりで出てきてくれれば、いいんだけどな」と、あらためて待望した。

>渡辺恒雄球団会長(85)もあきらめムードで、「誰がこんなことにしたのか、ちゃんと解明する」と早くも「粛清予告」まで行った。


組織が「誰が」とか「誰か」とか、
対象が個人に向かった時、何かが壊れる予兆が現れ始めるような気がします。
最近よく思います。
ずっと前からそうだったんろうけど、
地震に関連するものを見ていると、その傾向は確かなもののように思えます。
http://www.asahi.com/ad/clients/rikkyo/taidan/taidan25_01.html

図書館についてです。
mixi内コミュより

「「AERA」の最新号(2月7日号)をぱらぱらとめくっていたら、「ツイッターが生む “反”民主主義 「自分思考」がなくなっていく」という記事があった。

その中に、ツイッターなどのデジタルツールが、二元化情報や二元化思考を蔓延させている、という指摘があった。

大賛成か大反対か。
そのどちらか。

という思考が、ツイッターやネット世界では多い、ということである。

私はツイッターはあんまり使わないので、そうなのかよくわからないが、mixiのニュースについての日記や、政治関連のコミュニティを見ていると、本当にそれは痛感する。

大賛成か大反対か。
白か黒か。
ダメか丸か。
善か悪か。

そんな極端な二元思考がともすれば多い気がする。

現実の世の中は、そうそう明白な善や悪というのはあんまり多くはなく、良い部分も悪い部分も交じっているというのがほとんどだろう。
賛成か反対かというのも、部分的にこの部分には賛成だが、この部分には反対だというのが、是々非々の賢明な判断や慎慮というものではなかろうか。

どうも、どの部分に反対でどの部分に賛成か、どの部分が問題でどの部分は評価するのか、という個別具体的な検証をすっ飛ばして、単純な破壊主義や賛美に走る傾向が昨今は多い気がする。

それほど無責任で、単純で、粗雑なものはないと思うのだが、ネットなどのデジタルツールはそういう思考を育みやすいのだろうか。

うまく使えば、ネットは良質の議論や質の高い意見交換や情報収集の場にもなると思う。

ただ、たとえば140字しか表現できないツイッターでは、一回あたりはたいしたことが言えないのもたしかだろう。

ネットが人の思考や精神を良い方向に育むのか、はたまた粗雑な二元思考に堕落させるのかは、今のところまだ何とも言えないが、できれば後者ではなく前者であって欲しいと思う。
そのためには、後者の危険を自覚し、意識的に前者を心がけることが、すべてのユーザーに求めらている時代なのかもしれない。 」

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=48224354&comm_id=4680030


二元論的単純性は、ほんとうによく感じます。
これがネット発だとは思わないけど、
深く関係しているということは、感覚としてあります。
今パッと思いついたことは
・文字伝聞と口での伝聞の違い
です。
単語、熟語、フレーズなどとして、文字伝聞と口での伝聞でその意味自体が
かわることはありませんが、
その場での意味は変わるではないだろうか。
ニュアンスといいましょうか、雰囲気込みの意味といいましょうか。

文字伝聞は、雰囲気込みの意味を伝えることが苦手です。
とても平面的で言葉の意味そのものに大きく依存しているからです。
対して、口での伝聞は、雰囲気込みの意味を伝えることが得意です。
というか、それが主であるとさえいえるかもしれません。
顔の表情、声色、声の大きさ、しぐさなど、
言葉に意味を添える様々な要素があるため、
言葉通りの意味ではないことを伝えるのに優れた伝聞方法です。

ネットという、文字伝聞の世界では、
顔の表情、声色、声の大きさ、しぐさなどは無視されがちです。
それらを感知しにくいフォーマットであるのでそれは当然です。
それは、伝聞内容がシンプルにならざるを得ないことを意味しています。
ネットは、言葉それ自体の意味がメインとなるフォーマットです。
その構造が二元論に通じるのではないか。
辞書的にハッキリとした意味において、意見を述べ、反論し、議論する。
曖昧なものが入る余地のない中で進められて行く話において、
どっちつかずの姿勢は許されない、と感じるのではないでしょうか。
また、それを迫るのではないでしょうか。

効率化とか合理化とか、「曖昧」を排除することで
その意味をなすものは、二元論に通じるのかもしれません。
内田樹さんブログ
「雇用と競争について」2011.10.20
http://blog.tatsuru.com/

長過ぎてUPできずなので、ブログでどうぞ!

頭がクラクラします。
視界が広がるとはこのこと。
http://book.asahi.com/reviews/column/1201.html

古典について

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