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唯識論コミュの唯識論における輪廻転生について

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唯識論は入門書を数冊読んだ程度で浅学はなはだしいのですが、どうしても疑問に思うことがあります。

唯識論において、輪廻転生の主体とは阿頼耶識である、という認識は正しいでしょうか?
そもそも原始仏教(というより釈尊の説話)において輪廻転生は事実であると考えられているのかどうかもあいまいです
(単にその当時一般的に信じられていた、という理由で方便として用いたに過ぎない?)。

これらの点についてご教授いただけませんでしょうか。
またこのことが解説されている書籍などありましたら合わせて教えていただけると幸いです。
宜しくお願いいたします。

コメント(103)

昨日はこの場を荒らしてしまいましたね。失礼いたしました。 求道されている皆様はお気になさらず、ただ精進なさってください。

心相続の根拠になると思われることは、いくらでもあるのですが、例えば、双子や三つ子は、同じような環境や文化に育っても、それぞれが全く違った個性をもっています。これは個性が生まれた時点で既に持っていた潜在力の発露ですが、生まれたばかりの赤ん坊は何故、個性の違いがあるんでしょうか?
ウチの妹も双子ですが、正反対という訳でもなく、全く違う個性です。
まあ、でもそんなことはどうでも良く、少しは役に立つ話しをしましょう。 僕は長いこと行のマニアックな宗門に居たことも手伝って、似たような傾向があるのですが、禅や密接の取組をしている人は、不立文字とかいって誤魔化すのです。

「わたし」・「主観」といった一人称世界で胡座を組む傾向があります。 自分だけの世界に埋没してしまうのです。

密接は尚更です。 自分の体験や知覚は、他の人は理解出来ないから、ヴィマラキールティ(維摩詰)の様に沈黙が全て語るといった初期大乗思想のスタンスでは、民衆は納得出来ないのです。

智慧の進化に向かう般若思想は、「論証」するという事に重きを置き、一般人には理解し難いもの程、論証すべきだという流れがあるのです。それが頓悟と斬悟の違いを決定的な違いとして際立たせましたが、頓悟の禅思想を駆逐した斬悟のインド仏教は、それも統合する形でチベット仏教のニンマ派でゾクチェンという形になってチベット仏教の源流になっています。

「チッタ(心)」についての話しをしましょう。
チッタというのは、サンスクリット語で心のことですが、「アーラヤ織」は我々の思考は主観と客観に分け、分離させる働きとされ、
心は更に二元的形態を展開させるものとされていますが、アーラヤ織の主観・客観の意識は、識別作用の働きでもあるので、意識で良いじゃなあか?
と思うのでアーラヤは仮設しなくても良いのではなかろうか?というのが思うところです。 ですが心のデータベースの蓄積と送り出しという機能は、「サンスカーラ(行ー意志)が担っているので、やはりアーラヤは要らないと言えば、伝統的ヨーガチャーラからは、文句やクレームが予想されます。
>>[77]

本当は書きたく無かったのですが、窪田さんの問いなので、敢えて書きます。

論議することに、意味があるか無いか分かりませんが、論理的に思考を研鑽し合うのは、意義あるかも知れません。

実際、死後の世界があるのか無いのかを決定付けるのは、個人的な経験に基づく認識によります。
何故なら、今の物資的価値観の中で、それを実証することが出来ないのです。 輪廻があるとか無いとかも全く同じです。
ブッダが無記として敢えて語らなかった事柄は、考えても意味が無いからです。 逆にそれを考えるのは膨大な時間を掛けても答えが出無いものです。

大乗仏教は、小乗仏教が陥った名称に実体を見てしまうー自性を観るー ことは「空の思想」で一刀両断にしています。

解り辛いですが、「輪廻」や「悟り」や「自我」などの言葉が指す内容は実体は有りません。 具体的な対象物では無いということです。

だからと言って「だから、無い」と言うのは言葉に自性を観るということです。 こういうのも否定されるべき偏った認識です。

生きている上で「自我」というものは確かに実体は有りません、だからと言って自我(エゴ)はないのでしょうか?
結論から言いますと、有ると無いとの両極端から離れることが、推奨されています。

「輪廻」が有る無いに拘ることが執着で、そんなことはどっちでも良いのです。 ただ、有るにしても、無いにしても、それを頼りにして生きることは、偏っているんですよ。
自分が納得出来るなら、どちらでも良いのです。
僕はそう思います。
>>[79]

おお、いい纏めですね。 素晴らしい。
窪田さん、我々は素晴らしい学びの場を提供して貰っています。
意識が発達する過程で、宗教・宗派の主張する価値観は、「自分の信じている道は、絶対的に正しい」と思いたい願いを根底に抱えています。

観ていて判ると、思いますが、複数の共感を得て、納得を得るには、論理的に普遍性のある説明する必要があります。 自分の思い込みが通用するのは、極めて限られた閉じた世界の中だけです。
自分の経験だけ、価値観だけでは、独りよがりなだけで役には立ちません。

意識が発達する過程では、相対的段階を経過すると、あらゆる価値観や世界観は絶対的なものではないとう洞察を継承します。 その先には全てを統合して行くようになるのですが、どんなに説得力のある理論でも、本質的に「虚構」であることが認識されるのです。
なので多様な存在物は議論や討論を通して他者を反駁することは、大した意味は無く、虚構されたものに価値と叡智を内包するものであると理解して、それらと共存する枠組みを構築する様にした方が賢明なことだと思います。
背景にあるのは、「誰もが正しいが、部分的である」とするインテグラル思想であり、リメーパ運動家の根底の思想なのです。
>>[78]

とても良いお話を有難うございます!
>>[52]

アーラヤ識というかしこまった名前が出てくると、途端に私たちはそれを実体視して受け取りがちですが、あくまで自己の心を深く深く探ってゆく中で、そのようなものがなければ説明できないなあと仮設されたものであることを忘れてはなりませんね。
ついつい私たちは教えられた道具だてを、実体としてそのように有るものとしてドグマのように受け取りがちですね。
>>[99]
仮設された(名づけられたもの)ものに対し、自性(実体)を見てしまうのは、私たちの特性なんでしょうね。  その全てを勝義として見れば、何も起こらない、何も生じない「空」と名づけられた「フラットランド」がが実際にあるかの観念の世界を作りだしてしまいます。
 その為に、「勝義諦」と「世俗諦」を勝者(ジナ)達は唱えてらっしゃいました。
>>[100]

>その全てを勝義として見れば、何も起こらない、何も生じない「空」と名づけられた「フラットランド」が実際にあるかの観念の世界を作りだしてしまいます。

「その全てを勝義として見れば」というのは、本当には仮設されたに過ぎないものを自らの力によって立つ実体として見る、という意味でしょうか。
また、そういう見方をすると空という名前のフラットランドが実際にあるかのように思ってしまう、というのは空をも実体視してしまうなら、ということですね。
そういう人にとっては空とは「フラットランド」のように思われるという「フラットランド」とはどういう意味でしょうか。
>>[101]
すいません、意味を読み取れないので、解りやすく書いてもらえると嬉しいです。
>>[101]
ウィルバーの使う「フラットランド」とは、平坦な面の世界、二次元の世界を指しているのだと思っているのですが、思考(イメージ)で捉えようとすると、同じ様に深みの無い認識は出来ずに、マニュアルに忠実な答えが、正しい様な気になります。
つまり、実際には「勝義」の視点も持てずに理屈とも言えないものになりかねません。
言葉だけは似た様なものを指し示している様に見えますが、実際にはピントがずれているので、実際の有り様とは違う事を、「フラットランド」と揶揄しているのでは無いでしょうか?

言葉が足りない感じがあるのですが・・・
アップします。

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