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司法試験・質問掲示板コミュの適用審査の答案の書き方

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適用違憲がなされうるのは、芦部先生の分類ですと、①合憲限定解釈ができないが本件に適用する限りでは違憲とする場合、②合憲限定解釈をなすべきであったにもかかわらず、それをなさずに適用した事が違憲であるとする場合、③法令自体には問題がないにもかかわらず、その解釈適用が違憲であった場合に分けられると思います。

ここで質問なのですが、この①の類型において、法令自体の憲法判断に入ることはせずに適用上違憲とする事は答案作成上好ましくないと思われますか?ご意見をお聞かせください。

仮に、法令自体の憲法判断に入ってもなお適用上違憲の判断を為すとすれば、まず当該法令を合憲としなければならないと思われます。
例えば、尊属殺の事案において、「立法目的は正当で、その手段も目的との合理的関連性を有するから当該規定は合憲であるが、本件のように尊属から虐待を受け続け、それから逃れるべく殺してしまった場合には本件規定を適用することは違憲である」といったようにです。
※ちなみに、このような手法をとった裁判例としては、猿払事件の1審が有名ですが、最高裁はこのような適用違憲判決を認めることには消極的のようですね。

しかし、今、答案において、アメリカの違憲審査制のように、まずは適用違憲を考え、
およそ考えうる場合に適用上違憲となってしまう場合や禁止規定の文言が漠然としており国民の自由を萎縮させてしまう恐れのある場合、制限規定が民主制の過程で自己回復することが難しいなどの場合にのみ例外的に法令違憲審査に踏み切る立場を採ろうとすると、法令自体の憲法判断は、答案上も回避される事になってしまいます。

それでも大丈夫なんでしょうか?

コメント(22)

ご回答ありがとうございます。
確かに、おっしゃる通りですね。
合憲限定解釈ができない事を実際に言うためには、すくなくとも何かしらの法令を客体とした判断が必要ですね。

今まで、私は適用違憲の類型を芦部先生の分類にこじつけて全て解釈しておりましたが、そもそも芦部先生の分類は、適用違憲の判断をなすために、まず法令合憲の判断を先にするという日本の違憲審査の慣行を前提にしにしているのかもしれませんね。

こう考えると、純粋に適用違憲のみを考慮するような類型は、芦部先生の分類にはないんですね。

ただ、合憲限定解釈ができない、合憲限定解釈をするべきだった、法令は合憲であるにもかかわらず、という芦部先生の説明の趣旨を、それぞれは潜在的な場合も含みうると解釈できるのであれば、1の類型においても実際に合憲限定解釈ができないことを示す必要は必ずしもないと思うのです。

そして、憲法判断回避の立場からすれば、法令の憲法判断に全く立ち入らないということそれ自体に意味があると思うのです。

しかし、こうすると、あまりに通常の答案と書くことが変わってきますから、それが許されるのか不安だったのですが、処分の合憲性判断から入ることも答案上許される場合もあるときいて少し安心しました。

とはいえ、その場合でも自分があえて憲法判断を回避している旨、その理由などは別途論述したほうがよさそうですね。
> アメリカの違憲審査制のように、まずは適用違憲を考え、およそ考えうる場合に適用上違憲となってしまう場合や禁止規定の文言が漠然としており国民の自由を萎縮させてしまう恐れのある場合、制限規定が民主制の過程で自己回復することが難しいなどの場合にのみ例外的に法令違憲審査に踏み切る立場

あまり聞いたことない立場なんですけど、どの先生の立場なんですか?
芦部説だと上の真ん中くらいに書いてあることでいいと思いますけど。
>>ひで様
適用審査活用論は様々な先生が述べておられますが、私は、少なくともこれを投稿するに当たっては、主に憲法訴訟論をご専門になさっている立命館大学教授の市川正人先生の下記の論文*と、それを半ば要約したようなかたちである「憲法の争点」における市川先生の記事を参考に適用審査を考えておりました。

ただ、市川先生は、私が述べたような「アメリカの違憲審査制のように、まずは適用違憲を考え、およそ考えうる場合に適用上違憲となってしまう場合や禁止規定の文言が漠然としており国民の自由を萎縮させてしまう恐れのある場合、制限規定が民主制の過程で自己回復することが難しいなどの場合にのみ例外的に法令違憲審査に踏み切る」立場そのものを採っておられるわけではありません。

市川先生は、まずアメリカの違憲審査制を紹介されておられます。日本はアメリカ型の違憲審査制を導入したのであるからアメリカの違憲審査制に学ぶ事は多いだろうとのことだと思います。そして、私が読む限りでは、アメリカの違憲審査は基本が適用審査であり、法令審査は例外的な場合に限るようです。
他方、日本においては、法令審査が行われ、それのみで完結する場合や、適用審査をなす場合でも法令が合憲とされた場合に限って適用審査に入るのが常であるように思われます。

この点、多くの学者の方々によって、日本の裁判所は法令違憲判決の立法へのダメージの大きさから、裁判所による積極的な私権保障が求められているような事案においても、違憲判断に消極になりがちであることが指摘されていますが、これを、いわば立法を否定することなく私権を保障できる、「適用違憲」の積極的な活用によって解決を図ろうとするのが市川先生の議論の大筋であると思われるのです。

そこで、私見としては、「司法消極主義+適用違憲活用論」を前提に、どういう場合に司法は法令審査に積極的であるべきか(司法積極主義に転じるべきか)を類型的に論じている幾人かの方の論文からアイディアを拝借して、「適用違憲メイン、事案によっては積極的に法令審査」というひで様が引用してくださった立場に至ったのです(とはいえ、どのような立場で答案を書くかどうかについては未だ考えあぐねております。この点、日本の最高裁の伝統にもある程度親和的な市川先生の立場が魅力的にも見えます。)。

*pdf:文面審査と適用審査・再考
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/08-5/itikawa.pdf
なるほど、ありがとうございます。
少数説に立つ場合は規範を厚めに書かなきゃいけませんけど、そこで自分の立場をしっかり表明しておけば、適用審査から入っても問題ないと思います。
法令の合憲性が明らかな場合は、芦部説でも法令審査の論述はパスすることも多いので、実際はあまり変わらないかもしれませんけど。
論理性という見地からは、法令審査から述べた方がよいと思います。

なぜなら、具体的な適用行為が「合憲」である場合、それは法令が合憲であることを論理的に前提とするからです。

もちろん、違憲とするなら、そのような論理的縛りはないのでかまわないのですが、答案は違憲かどうか分からない体で書きはじめるわけですからね。

たしかに、「法令審査を常に先に行うべきとすると、立法への遠慮から、違憲判断に消極的となってしまい、妥当でないから、基本的には適用審査を先に行うべきである。」というのも、一つの知見だと思います。

しかし、それは試験の答案的には(言葉が悪く恐縮なのですが)「余計なお世話」レベルの配慮かもしれません。

論理的には法令審査が先立つわけですよね。それを、ある意味答案外在的な答案作成者の政策的姿勢でもって変えることは、試験的にはコストが高くつくように思われます。
>>ひで様
こちらこそありがとうございます。
そう言っていただけて少し安心しました。
確かに、規範は厚めに書く必要がありそうですね。

>>アキ様
ご意見ありがとうございます。
賛成してくださる方々の意見はとても心強いのですが、アキ様のようなご批判は特に、自分の意見を見直す上でも、あるいは再反論をすることによって自分の意見をさらに補強する上でも大きな助けとなります。

まず、論理性という見地からは、法令審査から述べたほうがよいとのご意見ですが、全くそのとおりであると思います。

ただ、ひとつ気になるのは、適用違憲を用いた憲法判断回避の、二重の基準との論理的レベルでのアナロジーです。二重の基準論はご存知のとおり、精神的自由に対する制約と経済的自由に対する制約を異なる審査基準で違憲審査するべきであるとするものですが、これはいわば司法と立法の役割分担(どちらが憲法判断をすべきか)という視点からの(ある種の)憲法判断回避の準則ともいえるのではないでしょうか。
憲法判断はもちろんですが、司法のみがなすものではなく、立法も行政もなします。そして、生の憲法判断(いわば神の目から見た憲法判断ともいえるでしょうか)としては、経済的自由に対する制約であっても、精神的自由に対する制約であっても、その基準を異ならせるべき理由はありません。しかし、これが「司法による事後的判断」の場合に限って、民主的過程での自己回復の困難性、事実上の審査能力などの理由から、精神的自由に対する制約に関して比較的積極的に、経済的自由に対する制約に関しては消極的に憲法判断をなすべきとするものです。
こう考えると、経済的自由に関して二重の基準論を用いた憲法判断をなす場合には、生の憲法判断として当該法令が違憲であることが論理的前提となっていると思われるのです。なぜならば、生の憲法判断が合憲であるのならば司法の役割としてもこれを合憲と宣言すべきことは明白であり、二重の基準論の出番の余地はないからです。

以上のように考えると、ある意味、「司法としては経済的自由に関しては消極的に判断すべきであるから、生の憲法判断は回避しよう=とりあえず荒い目の判断をもって合憲と宣言しよう」という政策的判断も「余計なお世話」レベルと言えないでしょうか。

つまり、「二重の基準論(特に経済的自由に対する制約)における生の憲法判断回避」と「立法への配慮から適用審査を法令審査に先立たせて憲法判断を回避する(裁判所は違憲審査を合憲違憲という二元的判断によって行いますから、法令自体は暗に合憲とすることになるでしょう。)」は同じレベルでの配慮ではないでしょうか。

以上から、二重の基準論を生の憲法判断をなさずに用いることが許されるのならば、法令審査に先立って適用審査をなすことも許されると考えます。(もっとも、「裁判所」はどのように判断すべきかといった趣旨の問題ならば生の憲法判断は当然せずともよいと思います。)

とはいえ、以上のことをもってしても、「試験的コストが高くつく」というご指摘は全くその通りであると思います。
私としても「答案作成上の経済」と「自分が本当に思っていることを書きたいし書くべきであろうという信念」を秤に乗せて苦悶している毎日であります。
そのような事情も私がこのような質問を投稿させていただいた大きなきっかけの一つです。
なるほど。裁判所の関与の度合いという見地からの配慮は同じなので、適用審査優先論で書くのが余計なお世話であるなら、二重の基準論を書くのも余計なお世話になってしまうがどうなのか、ということですよね。たしかにそうだなと思います。私の前記コメントは、ご理解いただいている通り、答案作成上の経済という点に重きを置いたものです。

そこで、答案作成上の経済という点を抜きにして思うことは、饅頭さん(すみません、読みやすさを重視してネームを省略させていただきます)が適用審査優先論を採ろうとしていることが、饅頭さんの意図するところに合致するものなのか、という点です。

4のコメントで紹介されている「市川先生の議論の大筋」等から察するのですが、饅頭さんが適用審査優先論を採ろうとしているのは、違憲判断に対する積極性の向上(立法府に配慮したうえでの)を意図されてのことでよろしいでしょうか。

こういうことなら分かります。すなわち、「仮に適用違憲という手法が許されないとしたら、法令が合憲であるか違憲であるかを判示することになるが、そうすると立法府への遠慮から、司法府は違憲判決を下すことに消極的となってしまう。だから、適用違憲という手法が許されるべきで、活用されるべきだ。」

しかし、そのことから、「原則として適用審査を法令審査よりも先に行うべきだ」ということが直ちに導かれるとは思われません。「論理的には法令審査が先立つので、法令審査を適用審査よりも先に行う」、という立場からも、立法府に遠慮したいときは、(適用違憲という手法が許されている以上)適用違憲の判決を下せばよいわけで、饅頭さんの適用審査優先論を採ることによって、違憲判断に対する積極性の度合いがどれだけ増加するのか、その辺のロジックが不透明かと思います。また、「遠慮したいときは適用違憲にすればいい、果敢にいきたいときは法令審査の段階で法令違憲にすることもできる」という立場の方が、違憲判断に対する積極性ということに適うのではないでしょうか。

もっとも、適用違憲という手法を肯定する以上、「適用違憲とすれば足りるのはどのような場合か、法令違憲とすべきなのはどのような場合か」といった区別論がなされることになろうかと思います。そうすると、「およそ考えうる場合に適用上違憲となってしまう場合や禁止規定の文言が漠然としており国民の自由を萎縮させてしまう恐れのある場合、制限規定が民主制の過程で自己回復することが難しいなどの場合」に法令違憲だ、というようなことになれば、実質的な差異は縮小するのでしょう。
>>アキ様
おっしゃるとおり、私の意図は、立法府への配慮と私権の最大限の保障(必ずしも違憲判断という手法にはこだわりません)の両立です。
そして、適用審査優先論を採ろうとしていることが、私のこの意図するところに合致するものなのか、という点ですが、仮に適用審査優先論が意図達成の十分条件であったとしても必要条件でないという点では、私もアキ様のご意見(しかし、そのことから、「原則として適用審査を法令審査よりも先に行うべきだ」ということが直ちに導かれるとは思われません。)と見解を同じくします。これは、市川先生ご本人がアメリカ型の「適用審査優先論(私見)」は採らず、ある種の「適用審査活用論」に留まっているところからも分かります。

そして、「適用審査優先論を採ることによって、違憲判断に対する積極性の度合いがどれだけ増加するのか、その辺のロジックが不透明」という点ですが、私も、単なる「適用審査活用論」と比べて、「適用審査優先論」の方が違憲判断に対する積極性の度合いが増すとは考えていません。
違憲判断に対する積極性の度合いとしては、論理的には、
「法令審査メイン(現状)」>「適用審査活用」≒「適用審査優先」
であると考えています。
そして、アキ様のおっしゃる「遠慮したいときは適用違憲にすればいい、果敢にいきたいときは法令審査の段階で法令違憲にすることもできる」という立場は、適用審査活用論、優先論のどちらにも共通する考えであり、適用審査、法令審査のどちらを原則(先議)とするかが異なるだけです。

では、なぜそこであえて、適用審査活用論ではなく適用審査優先論を採るかというと、ここには、今までは申し上げておりませんでしたが、「法の意味は具体的事実状況の中で明らかになる」という価値観があります。言い換えますと、裁判官の頭の中で法令が一般的に違憲かどうかを考えるのは基本的にあまり好ましいことではなく、個々の具体的事案に法令を実際に適用していき、適用違憲を積み重ねてから、はじめて、「もしかして、これは法令自体が違憲なのではないか?」という疑念を抱き、法令審査を検討し、場合によっては審査するべきであるという見解です。
かかる見解は適用審査活用論でもある程度反映されてはいるのですが、これを徹底しますと、適用審査優先(先議)となるわけです。


--ここからは余談ですが。
「論理的には法令審査が先立つので、基本的には法令審査を適用審査よりも先に行うべき」というご意見に前のコメントで同調させていただきました。そして、基本的には未だその姿勢は保っているのですが、「憲法判断」においては必ずしもそうは言えないのかなとも思ってきております。
例えば、すべての法令は、当該法令を制定する立法裁量の授権があること(つまり法令が合憲であること)を論理的前提としています。しかし、日本の最高裁は、ある処分が法令違反である場合には、当該法令に違憲の虞があっても、憲法判断には基本的に踏み込みません。ブランダイスルール第4準則も同様の立場を示します。
こう考えると、憲法判断が関係してくるときにおいてはは必ずしも論理的前提を先議する事を、「原則」としなくてもよいのではないかとさえ思えてくるのです。そして、「原則」としなくてもよいとするならば、その理由は「付随的」違憲審査制の意義にあるのではないかと思うのです。
>>オヨシ様
説明が下手で申し訳ございません。
おっしゃるとおりです。私は「制約最小限の原則」というものははじめて聞いたのですが、「人権は、経済的自由・精神的自由に関係なく、いかなる人権であっても、その制約は最小限であるべき」という考えに基づいた憲法判断が私の言う「生の憲法判断」です。

「この議論が、司法消極主義から脱却することで、裁判を通じて、より人権保障に資するためのものだと思っていたが、いつのまにか、立法府との関係で、いかに裁判所が「法令」審査を控えるべきかという権限分配構造の設計の問題になっている気がする」という点ですが、私は「立法への配慮」をある程度必要なものとして容認しつつ、「私権保障・憲法保障」をも十分なものとしてこれと両立させるために、適用審査を活用しようという立場です。
司法消極主義の意味するところにもよりますが、必ずしも、狭義の司法消極主義(違憲立法審査消極主義)からの脱却を目指しているわけではありません。なぜならば、適用審査を積極的になすことは違憲立法審査をなさずに済むことでもあるからです。
こう言っていいかは分かりませんが、私の立場は一文で言うと、「司法消極主義の立場を認めつつ、適用審査を活用することで私権保障の機能も拡充させ、特定の場合においては司法積極主義に転じることを求める」ものです。


このような議論が顕在化する事案ですか・・・
言ってしまえば、法令の合憲性が提起されたあるいは、提起されうるすべての場合です。
一応顕在化していると言いやすいであろう例を挙げるとすれば、尊属殺重罰規定や公園での集会を禁止する法令の合憲性判断でしょうか。

(1)尊属殺重罰規定
これに関しては、1で述べたとおりですが、尊属殺重罰規定は当たり前ながら一般人の目から見て特定の者のみを対象に規定していると読むことは出来ませんから、適用対象者に関する合憲限定解釈の余地はありません。そして最高裁は合憲限定解釈が出来ない場合の適用違憲に消極的ですから(猿払事件最高裁判決)、したがってここではまず、
最高裁:法令違憲 or 法令合憲
適用違憲活用(猿払1審等):法令違憲 or 法令合憲・適用違憲 or 法令合憲・適用合憲
適用違憲先議:適用違憲 or 適用合憲
となるものと思われます。

(2)公園での集会を禁止する法令(立法者意思としては暴走族排除。組合運動をしたい者が提訴)
過度の広汎性・漠然性を有する規定であることが争点だとして、
最高裁:合憲限定解釈・適用違憲 or 合憲限定解釈不可能・法令違憲 or 法令合憲
適用審査活用:合憲限定解釈・適用違憲 or 合憲限定解釈不可能・適用違憲 or 合憲限定解釈不可能・法令違憲 or 法令合憲
適用審査先議:適用違憲 or 適用合憲 →適用違憲の場合→国民の自由に過度の萎縮効果を与えないか→法令審査する or しない→法令違憲 or 法令合憲
*なお、「漠然性ゆえに文面上無効」となる余地があることは上3つの立場も共通する。

図(?)が分かりにくくてすみません。書いてる途中で何度か訂正したのですが、間違っているかもしれません。
酒蒸饅頭@受験直前さん

なるほど、「適用審査優先論」を採ったからといって違憲判断に対する積極性の度合いが「適用審査活用論」よりも増すとは考えないという点については、見解の一致があるわけですね。そして、饅頭さんが「適用審査優先論」を採る理由には、「『法の意味は具体的事実状況の中で明らかになる』という価値観」がある、ということですね。この価値観は私も(私なりの理解において)共有しているところであります。

ところで、饅頭さんが採ろうとしている「適用審査優先論」(この表現はたしか私の方から使用したものかもしれませんが)の具体的内容を確認させてください。

【A】原則として、法令の憲法適合性を判断することなく、処分の憲法適合性を判断する。判決理由においては、法令合憲/法令違憲かの判断を示さず、適用合憲/適用違憲かの判断を示す。

【B】法令の憲法適合性を判断したうえで、処分の憲法適合性を判断する。判決理由においては、原則として、法令合憲/法令違憲かの判断を示さず、適用合憲/適用違憲かの判断を示す。

【C】法令の憲法適合性を判断したうえで、処分の憲法適合性を判断する。判決理由においては、法令合憲/法令違憲かの判断を示してもよいし、それを示さないまま適用合憲/適用違憲かの判断を示してもよい。

饅頭さんのおっしゃる「適用審査優先論」の具体的内容は、(C)ではなく、(A)か(B)のどちらかであろうかと思うのですが、どちらであるのか(あるいはそもそも私の分類が不適切であればその旨)、ご教示ください。

もし、【B】であるならば、とくに異議を申し上げるところはありません。国民の予測可能性の確保、といった別の見地からの問題が俎上に上がってくるかとは思いますが。

もし、【A】であるならば、さらにその内容について疑問があります。以下の記述は、【A】を前提とします。

まず、<処分が法令に違反する場合>ならば、処分の法令違反を判示すれば足り(「法律による行政」から処分無効。もはや適用合憲/適用違憲かの判断も不要)、法令の憲法適合性を判断・判示する必要がありません。憲法判断回避の準則からです。饅頭さんも14のコメントで言及されていることですね。

つぎに、<処分が法令に違反しない場合>は、処分の憲法適合性を判断し、適用合憲/適用違憲かを判示することになりますよね。

そうすると、<処分が法令に違反するかしないか>という処分の法令適合性を判断することが処分の憲法適合性の判断に先立って求められます。処分の法令適合性の判断は三段論法によって行われ、その前提命題となる法令について(その文言が一義的に明確でなければ)解釈を行う作業を必要とします。その解釈作業には憲法規範を参照して行われるべきものがあるように思われます。憲法規範を参照して法令の規範を解釈するということはひっきょうそこで法令の憲法適合性の判断を行うことに至る、ということにはならないでしょうか。

法令の解釈には憲法規範を参照して行われるべきものがない、というのでしたら、とくに異議を申し上げるところはありません。また、法令の解釈には憲法規範を参照して行う必要のないものがあり、そのような法令が適用されようとしている場面が問題となっている事案については、法令の憲法適合性の判断を行うことに至りはしないだろう、という点についても、理解するところであります。

また、<処分が法令に違反するかしないか>という処分の法令適合性を判断することが処分の憲法適合性の判断に先立って求められることはない、というのでしたら、それでは<処分が法令に違反する場合>であるため法令違反として憲法判断を回避しうるにもかかわらず処分の憲法適合性の判断に入ることの当否が問題となるように思います。
[訂正] 14の投稿について訂正があります。申し訳ありません。
【正】「法令審査メイン(現状)」<「適用審査活用」≒「適用審査優先」
【誤】「法令審査メイン(現状)」>「適用審査活用」≒「適用審査優先」


>>オヨシ様
お付き合いいただき本当にありがとうございます。
よろしくお願いします。


>>アキ様
なるほど・・・。確かにおっしゃるとおり、【A】か【B】です。
【C】は適用審査活用論的といったところでしょうか。
そこで、私の言っているところが【A】なのか、【B】なのかという点についてですが、正直に申しますと、アキ様のご質問までこの点については考えておりませんでした。
思考の整理がまだつかないのですが、現段階での考えを一応投稿させいただきます。
意味の分からないことを書いてしまっていたらすみません。

まず、私見に関して私の説明大きな不足があったことをお詫びさせていただきます。
今まで、「法令の合憲性を検討しない」と申してきましたが、それは日本的な意味での法令の合憲性判断、すなわち、一般的な合憲性を判断しないというだけで、「当該事案のみを前提とした法令の合憲性」は当然判断しなければならないと思います。そして、今、「憲法判断回避」といった場合に回避したいのは「一般的合憲性」の判断です。

したがって、おっしゃる「法令の憲法適合性」が前者の意味なら【A】、後者の意味なら【B】となるといったところでしょうか。

そして、適用審査の結果どのような判決を書くかという点ですが、
?法令の解釈(特に合憲限定解釈)の結果本件には適用されないとする判決
?法令は本件に適用される限りで合憲とする判決
?法令は本件に適用される限りで違憲とする判決
?法令の適用(処分)自体が違憲とする判決
のいずれかになるものと思われます(市川先生の論文から)。

そして、?あるいは?の場合には、おっしゃるとおり、当該事案において法令が自己には適用されえないと主張する者に対して法令を適用することを、法令自体が予定していないという意味で、適用行為は法令違反になると思われます。さらに、この場合には、法令の一般的合憲性が論理的前提になっているといえると思います。

しかし、?の判決に関しては、適用上の違憲は法令違反とはならないと思われます。「当該事案限り」で憲法適合的・非適合的である法令に適合した処分(法の適用)であるからです。
かかる見解には、それはもはや単なる法令の一部違憲ではないか、との批判はあるでしょうが(最高裁はそう言っているようです:猿払事件)、それは、「法の意味は具体的事実状況の中で明らかになる」という価値観をどの程度徹底するかの違いだと思われます。
そしてこの場合には、「当該事案を前提とした法令の合憲性」のみを審査し、「法令の一般的合憲性」に関しては、判決理由に述べないばかりではなく検討もする必要はないのではないでしょうか。なぜならば、この場合の適用上違憲の判断の論理的前提は、「当該事案限りでの法令の合憲性判断」であって、「法令の一般的合憲性判断」ではないからです。もちろん、個々の裁判官が内心で法令の一般的合憲性に関して疑念を抱いているかどうかは別の話ですが。
まず、確認ですが、?と?の判決は法令違反のことである、?の判決は法令違反のことではない、というご指摘は、私が17のコメントで<処分が法令に違反する場合><処分が法令に違反しない場合>というように場合分けしたことの再表現にすぎないということでよいのですよね。

そして私は、処分の法令適合性の判断が処分の憲法適合性の判断に先立つところ、処分の法令適合性の判断には法令の解釈が求められ、そこで法令の憲法適合性を判断することに至るだろう、だから結局は法令の憲法適合性を判断したうえで処分の憲法適合性を判断するという順番になるだろう、と指摘したのですが、それに対する返答として、饅頭さんは、「処分が法令違反でない場合、当該事案を前提とした法令の合憲性のみを審査し、法令の一般的合憲性を判断する必要はない。この場合の適用違憲の判断の論理的前提は当該事案限りでの法令の合憲性判断だからである。」とおっしゃっているようにみえます。この点も、よろしいでしょうか。

しかし、饅頭さんのその論理には、判断過程として要求される(と私が申し上げている)ものを、結果としてなされる判断が少なくとも論理的前提としなければならないものによってすり替える、という転倒があるように思われます。
私は、判断過程として、法令の憲法適合性の判断を処分の憲法適合性の判断に先駆けて行うことになる、と申し上げているわけです。たしかに、適用違憲/適用合憲の判断は、結果的には、法令中当該具体的適用行為が該当する一部分の合憲性判断しか論理的に前提としないで済むでしょう。しかしそれは「だから法令の一部分の合憲性判断しか判断過程としても行うべきではない」ということにはならないのです。
第一段落目、第二段落目でご確認の件に関してはご理解の通りです。

「判断過程として要求される(と私が申し上げている)ものを、結果としてなされる判断が少なくとも論理的前提としなければならないものによってすり替える、という転倒」という点に関してですが、「結果論として論理的前提としなければならなかっただけのものを、論理的前提とすれば足りるとするのは転倒である」ということでよろしいでしょうか。
しかし、私は、少なくとも論理的前提しなければならなかった部分の確定は、結果論ではないと思います。なぜならば、法令審査に着手する前に、適用場面から演繹的に限定した法令の意味のみを特定することは可能であると考えるからです。
そして、繰り返しにはなりますが、その意味における法令の憲法適合性のみを判断(残余は回避)すればよいと考えます。
そしてこれ(少なくとも前提としなければならない部分以外は回避する法令審査)をあえてなすことこそがアメリカ型違憲審査制における適用審査だと思うのです。

例えば、以前、尊属殺の事例をあげましたが、そのときは被告人は適用が違憲となるような者でした。
しかし、今は、通常の尊属殺を行った者(変な言い方ですが)が被告人になった場合(以下「被告人A」)を考えた場合を考えていただけるでしょうか。
この場合、仮に被告人Aへの法令の適用を合憲とする場合には、アキ様の見解としては、法令の一般的合憲性が論理的前提として判断過程として要求されるということだと思いますが(違っていたらすみません)、私は、必ずしもそういえないと考えます。
先ほども申し上げましたが、なぜならば、法令審査に着手する前に、適用場面から演繹的に限定した法令の意味を特定することは可能であり、その意味における法令の憲法適合性のみを判断(残余は回避)すればよいと考えるからです。
つまり、尊属殺重罰規定が一般的に憲法適合的かどうかは全く考慮せずに、「被告人Aに対して」法令が規定する処分(尊属殺規定における刑罰)をなす権限を憲法が立法に対して授権しているか否かのみを考慮し、これを肯定すれば足りるということです。

確かに、法令に基づく処分は論理的には法令の一般的合憲性を前提としています。憲法の授権無き立法は当然に無効だからです。しかし、その判断を「付随的」違憲立法審査性の性質を根拠に回避することは依然可能だと思われるのです。
*つまり仮定的には一般的合憲性を肯定していることになります。浮動的有効といったところでしょうか。


---以下は17におけるアキ様のご意見に対しての私見です。
「そうすると、<処分が法令に違反するかしないか>という処分の法令適合性を判断することが処分の憲法適合性の判断に先立って求められます。処分の法令適合性の判断は三段論法によって行われ、その前提命題となる法令について(その文言が一義的に明確でなければ)解釈を行う作業を必要とします。その解釈作業には憲法規範を参照して行われるべきものがあるように思われます。憲法規範を参照して法令の規範を解釈するということはひっきょうそこで法令の憲法適合性の判断を行うことに至る、ということにはならないでしょうか。 」
という点に関してですが、確かにおっしゃるとおり、法令規範の意味を確定する必要があり、それには憲法判断を必要とする場合が多くあります。ただし、私が確定される必要があると考える「法令規範の意味」は、上述の通り、「適用場面から演繹的に限定した法令の意味」であり、これを確定するために憲法を参照し、憲法判断をなすことは法令の一般的憲法適合性を判断することにはなりません。

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