ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

ジュディス・バトラーコミュの『自分自身を説明すること』邦訳刊行予定

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
月曜社のブログに以下のエントリーがありました.
どうぞご参考までに.
http://urag.exblog.jp/7310044/

−−−−−以下転載
◎08年8月8日発売予定新刊【人文・哲学思想】

『自分自身を説明すること――倫理的暴力の批判』
ジュディス・バトラー:著 佐藤嘉幸+清水知子:訳
税込定価2625円 46判並製カバー装288頁 ISBN978-4-901477-42-0

内容:他者との関わり合いにおいて主体は形作られ、他者への責任=応答可能性において主体は自らを変革する。道徳が暴力に陥る危険性を問い質し、普遍性の押し付けによって個性を圧殺する倫理的暴力の論理に抗いつつ、危機の時代に「私」と「あなた」を結び直して希望の隘路を辿る、剣呑な哲学。暴力論叢書第三弾刊行!

目次◆第一章:自分自身の説明[呼びかけの光景/フーコー的主体/ポスト・ヘーゲル的問い/「あなたは誰か」]◆第二章:倫理的暴力に抗して[判断の限界/精神分析/「私」と「あなた」]◆第三章:責任=応答可能性[ラプランシュとレヴィナス ――他者の優位/間になることをめぐるアドルノ/彼自身を批判的に説明するフーコー]◆訳者解説:「倫理」への転回

原著:原書:”Giving an account of oneself”, by Judith Butler, 2005, New York: Fordham University Press.

***
『自分自身を説明すること』推薦文

アドルノとレヴィナスについての驚くほどオリジナルな解釈のなかで、ジュディス・バトラーは、倫理の問題が道徳的自己と暴力との共犯関係に不可避的に取り組まざるをえないことを説得的に示している。剏造的な再解釈の諸前提を提示しつつ、本書は、これら二人の著者についての議論、彼らの未来への遺贈が、ある意味で始まったばかりであることを示している。バトラーは、人間情念の最も残酷で最も破壊的な部分に対抗し、それを別の方向へと導くために哲学的知性の最大の力と悦びを結集する点で、真にスピノザ的精神において著述している。見事な議論とすばらしい文章によって、『自分自身を説明すること』は、現代の文化と政治を考える哲学者と学生にとって必ずや古典となり、必読書となるだろう。――ヘント・デ・ヴリーズ(ジョンズ・ホプキンス大学)

アイデンティティと責任=応答可能性との交差をめぐる力強い探究である『自分自身を説明すること』は、私たちの時代の最も重要な思想家たち―アドルノ、フーコー、レヴィナス、ラプランシュ―と対話する最良のジュディス・バトラーを見せてくれる。これらの思想家が異議を申し立てようとする社会的、道徳的規範との関係でのみ現れる、アイデンティティの問題と対峙しつつ、バトラーは、自己理解の諸限界――それは私たちを人間にしてくれる―との関係から、責任=応答可能性を再考しようとするのである。――ジョナサン・カラー(コーネル大学)

『自分自身を説明すること』においてジュディス・バトラーは、自己認識を切望する際にさえ放棄され、耐え忍ばれ、経験されねばならないものとは何かと問うている。彼女は、人間の個体化に伴う衰弱について、大胆な仕方で探究を続けているのである。そこから彼女が示唆するのは次のようなことだ。つまり、自己意識の絶頂とは、洞察には危険が伴っており、知覚には裂け目があり、判断には根拠が乏しいことを自己について認識する点にある、と。本書は、勇気ある思想家による、勇敢な書物である。――ヘイドン・ホワイト(カリフォルニア大学/スタンフォード大学)

***
著者:ジュディス・バトラー(Judith Butler)カリフォルニア大学バークレー校、修辞学・比較文学科教授。訳書に以下のものがある。『ジェンダー・トラブル』(竹村和子訳、青土社、 1999 年)、『アンティゴネーの主張』(竹村和子訳、青土社、2002 年)、『触発する言葉』(竹村和子訳、岩波書店、2004 年)、『生のあやうさ』(本橋哲也訳、以文社、2007 年)。共著:『偶発性・ヘゲモニー・普遍性』(エルネスト・ラクラウおよびスラヴォイ・ジジェクとの共著、竹村和子+村山敏勝訳、青土社、2002 年)、『国家を歌うのは誰か』(ガヤトリ・C・スピヴァクとの共著、竹村和子訳、岩波書店、2008 年)。

訳者:佐藤嘉幸(さとう・よしゆき)京都大学大学院経済学研究科博士課程修了後、パリ第十大学大学院にて博士号(哲学)取得。現在、筑波大学大学院人文社会科学研究科専任講師。著書に『権力と抵抗――フーコー、ドゥルーズ、デリダ、アルチュセール』(人文書院、近刊[2008 年])、共著に『ドゥルーズ/ガタリの現在』(平凡社、2008 年)などがある。

訳者:清水知子(しみず・ともこ)筑波大学大学院博士課程文芸・言語研究科修了。博士(文学)。現在、筑波大学大学院人文社会科学研究科専任講師。共著に『越える文化、交錯する境界――トランス・アジアを翔るメディア文化』(山川出版社、2004 年)、『ドゥルーズ/ガタリの現在』(平凡社、2008 年)、訳書にスラヴォイ・ジジェク『ジジェク自身によるジジェク』(河出書房新社、2005 年)などがある。

***
■暴力論叢書

現代における〈暴力〉の多様なる位相と変容に迫る! デリダ=ハーバーマス以後の現代思想の最前線で活躍する重要思想家たちの星座を出現させるアクチュアルなシリーズ。初訳の思想家によるオリジナル論集多数。

破壊と拡散 〔暴力論叢書1〕
サミュエル・ウェーバー(1940-):著 野内聡(1971-):訳
05年11月 2520円 46判並製232頁 ISBN4-901477-20-X
戦争のスペクタクル化が進行する〈9.11〉以後の現代における政治的暴力の動態を分析。フロイト論文「戦争と死に関する同時代的なもの」の新訳を付す。松葉祥一氏評「アイデンティティと暴力および戦争との関係について、スリリングな議論を展開」。

他自律――多文化主義批判のために 〔暴力論叢書2〕
ヴェルナー・ハーマッハー(1948-):著 増田靖彦(1967-):訳
07年11月 2310円 46判並製200頁 ISBN978-4-901477-37-6
文化融合主義ではない多文化主義と、無条件に開かれた民主主義を展望する果敢な試み。十川幸司氏評「著者のアフォーマティヴという概念は、長年停滞している言語行為論をさらに先に進めるアイデアとなりうる」。

続刊予定
ヘント・デ・ヴリーズ
ピーター・フェンヴズ
ルイ・サラ=モランス
アレクサンダー・ガルシア・デュットマン
ジャコブ・ロゴザンスキー
ロドルフ・ガシェ
−−−−−転載以上

コメント(13)

ありがとうございます。

ウラゲツですね。

ロゴザンスキーは当てにしてないけれども、ガシェの何を訳すのか気になります。The Tain of The Mirrorは、いい加減訳してほしい。
 
yukiさん

えーっと『生のあやうさ』も翻訳は竹村さんじゃありませんでしたよね、と確認。

バトラー=竹村和子なのはあう意味ではお定まりなんでしょうけれども……
ゼミでレジュメ担当があたり、2か月ほどにらめっこです。特に3章のフーコーあたりを要約しきれません。

だいぶすごい本です。これで約2700円とは安いと思います。

 訳はだいぶ読みやすいものですが、気になる点が数点。
 dispossessionを「収奪」と(『生のあやうさ』だと「剥奪」と訳されています)訳されています。しかし、199頁でdeprivingを「剥奪」と訳し、213頁でdisqualifyを同じく「剥奪」と訳しながら一方で212頁でdispossessionを「剥奪」と訳されています。計19回出てくるという使用頻度だけでなく、意味的にも重要なものを課されている単語ですから、もう少しナイーヴに扱ってほしかったです。

 もうひとつ、「我有化」と訳されるappropriation(appropriate)ですが、これは“不当なる”性格をもつものですから、「我有化」だけでは意味を含み切れていいないのでは? と。
 さらに原著30頁でのappropriatedの使用が、訳の中(邦訳55頁)でどこに当たるのか不明です。該当箇所を試訳してみると、「こうした諸規範は呼びかけられる文脈の中で我々に作用するので、特異性(singularity)の問題は、生きた道徳性の中に我有化されたこうした諸規範を通じて、特殊な呼びかけの光景を理解する出発点を供給するだろう」となります。

 
 これらを抜きにしても「現代」の名著、と私は思います。
くねさん

私は、この本を日本語訳で読んではいません。 また、この分野を専門に勉強しているわけではありませんので、「我有化」について質問させてください。
この訳語は、当該研究分野ではよく使われている語彙なのでしょうか、あるいは、日本語としての用語の一つになっているのでしょうか。
広辞苑(第5版)に「我有化」という項目はありません。だから初見での理解は不可能だと思われます。

原著だと5頁、邦訳だと13頁に初出します。ここでの用いられ方は「生き生きとしたかたちで」の規範の我有化といった文脈においてです。他の用いられ方も軒並みこれに従います。appropriateには適当な、とか適切なといった意味もありますが、むしろ動詞の「占有する」や「不当に私用に着服する」といった不当性に光を当てた用い方、これに力点を置いてバトラーは用いているようです。

訳語の代替案はありませんが、なんらかの説明があってもいいのではないか、と読んでいて思いました。

私もバトラーの専門家ではないので何とも言えませんが、バトラーが"Bodies that Matters"のp.242において「言語に収奪される(expropriated in)」というとき、ここで用いられるexpropriateが、「我有化」の反対語だと思います。

オレゴンパパさん、答えになっていますでしょうか?
早速のご回答ありがとうございます。
私は、「我有化」などという漢字/漢語の訳になぜしたのだろうかとふと思ったのです。 (訳者への悪口だと誤解されると困るのですが)どうしてもこの訳にする必要があったのであれば、それなりの経緯というか注釈を附すのが読者への親切というものではないのかと思いますね(クリップ広辞苑にも出ていないとなれば、なおさらでしょう)。 
仮に、翻訳者達の創意工夫の結果として産まれた/編み出された訳語でもないとなるとコーヒー・・・、この日本語はいったいどこから目持ち出されて来たのでしょうかね(あぁ、今夜眠れなくなってしまいそうです)。  
『生のあやうさ』だと、原著119頁で、violent appropriate of Palestinaという用法で、邦訳191頁で「パレスチナ人の土地の暴力的な領有」と訳されていました。
また、原著123頁で二度登場する「anti-Semitic appropriation」 については、訳ではどう訳されているか探ってみても、該当する部分(邦訳197頁)を見ても見つけることができません。

他の著作は確認していませんが、殊『生のあやうさ』に「我有化」は登場していないみたいです。
>うきいねさん

 本当ですか? 聞いていただけると大変助かります!!
 よろしくお願いします。
付け加えます。

57頁の「アレントは理性的政治を確立するために「誰」の政治に焦点を絞っており…」とありますが、ここでの「理性的政治」の原語はrelational politicsであり、本来は「関係の政治」です。

もう一点は論理上の問題です。
バトラーはアドルノの「非人間的(inhuman)」→「人間的(human)」となる構図を紹介していますが、アドルノは「人間的」を皮肉的に用いているはずです。つまり、ちょっと楽観的な使用をしているのではないか、と思うわけです(細見和之「アドルのとバトラー」『現代思想』青土社、2006年10月臨時増刊号、100頁)。

それと、愛の告白でふられること、傷つくことで人は人になる、という話を引いていますが、「ふることの傷」については考えなくてはいいのでしょうか。確かにふられた側の悲劇性、ルサンチマンのドラマが語られやすいでしょうけれども…(「愛はいつも傷つけるだけって言葉つぶやいて信じることをやめて生きてたんだろ」Uberworld『儚くも永久の悲し』)
>うきいねさわーい(嬉しい顔)ーん手(パー)目

その後、お便りがないようですが、何か情報はございませんでしょうか。
楽しみにしているのですが・・・。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

ジュディス・バトラー 更新情報

ジュディス・バトラーのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング