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名作を読みませんかコミュのこころ  夏目漱石  83

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  三十


 「こんな風《ふう》にして歩いていると、
  暑さと疲労とで自然身体《からだ》の調子が狂って来るものです。
  もっとも病気とは違います。
  急に他《ひと》の身体の中へ、
  自分の霊魂が宿替《やどがえ》をしたような気分になるのです。

  私《わたくし》は平生《へいぜい》の通りKと口を利《き》きながら、
  どこかで平生の心持と離れるようになりました。
  彼に対する親しみも憎しみも、旅中《りょちゅう》限《かぎ》りという、
  特別な性質を帯《お》びる風になったのです。

  つまり二人は暑さのため、潮《しお》のため、また歩行のため、
  在来と異なった新しい関係に入る事ができたのでしょう。
  その時の我々はあたかも道づれになった行商《ぎょうしょう》のようなものでした。
  いくら話をしてもいつもと違って、頭を使う込み入った問題には触れませんでした。

  我々はこの調子でとうとう銚子《ちょうし》まで行ったのですが、
  道中たった一つの例外があったのを今に忘れる事ができないのです。

  まだ房州を離れない前、二人は小湊《こみなと》という所で、
  鯛《たい》の浦《うら》を見物しました。
  もう年数《ねんすう》もよほど経《た》っていますし、
  それに私にはそれほど興味のない事ですから、判然《はんぜん》とは覚えていませんが、
  何でもそこは日蓮《にちれん》の生れた村だとかいう話でした。

  日蓮の生れた日に、鯛が二尾《び》磯《いそ》に打ち上げられていたとかいう、
  言伝《いいつた》えになっているのです。
  それ以来村の漁師が鯛をとる事を遠慮して今に至ったのだから、浦には鯛が沢山いるのです。

  我々は小舟を傭《やと》って、その鯛をわざわざ見に出掛けたのです。
  その時私はただ一図《いちず》に波を見ていました。
  そうしてその波の中に動く少し紫がかった鯛の色を、
  面白い現象の一つとして飽かず眺めました。

  しかしKは私ほどそれに興味をもち得なかったものとみえます。
  彼は鯛よりもかえって日蓮の方を頭の中で想像していたらしいのです。
  ちょうどそこに誕生寺《たんじょうじ》という寺がありました。
  日蓮の生れた村だから誕生寺とでも名を付けたものでしょう、
  立派な伽藍《がらん》でした。

  Kはその寺に行って住持《じゅうじ》に会ってみるといい出しました。
  実をいうと、我々はずいぶん変な服装《なり》をしていたのです。
  ことにKは風のために帽子を海に吹き飛ばされた結果、
  菅笠《すげがさ》を買って被《かぶ》っていました。
  着物は固《もと》より双方とも垢《あか》じみた上に汗で臭《くさ》くなっていました。

  私は坊さんなどに会うのは止《よ》そうといいました。
  Kは強情《ごうじょう》だから聞きません。
  厭《いや》なら私だけ外に待っていろというのです。

  私は仕方がないからいっしょに玄関にかかりましたが、
  心のうちではきっと断られるに違いないと思っていました。
  ところが坊さんというものは案外丁寧《ていねい》なもので、
  広い立派な座敷へ私たちを通して、すぐ会ってくれました。

  その時分の私はKと大分《だいぶ》考えが違っていましたから、
  坊さんとKの談話にそれほど耳を傾ける気も起りませんでしたが、
  Kはしきりに日蓮の事を聞いていたようです。

  日蓮は草日蓮《そうにちれん》といわれるくらいで、
  草書《そうしょ》が大変上手であったと坊さんがいった時、
  字の拙《まず》いKは、何だ下らないという顔をしたのを私はまだ覚えています。

  Kはそんな事よりも、もっと深い意味の日蓮が知りたかったのでしょう。
  坊さんがその点でKを満足させたかどうかは疑問ですが、
  彼は寺の境内《けいだい》を出ると、
  しきりに私に向って日蓮の事を云々《うんぬん》し出しました。

  私は暑くて草臥《くたび》れて、それどころではありませんでしたから、
  ただ口の先で好《い》い加減な挨拶《あいさつ》をしていました。
  それも面倒になってしまいには全く黙ってしまったのです。

  たしかその翌《あく》る晩の事だと思いますが、二人は宿へ着いて飯《めし》を食って、
  もう寝ようという少し前になってから、急にむずかしい問題を論じ合い出しました。

  Kは昨日《きのう》自分の方から話しかけた日蓮の事について、私が取り合わなかったのを、
  快く思っていなかったのです。
  精神的に向上心がないものは馬鹿だといって、
  何だか私をさも軽薄もののようにやり込めるのです。

  ところが私の胸にはお嬢さんの事が蟠《わだかま》っていますから、
  彼の侮蔑《ぶべつ》に近い言葉をただ笑って受け取る訳にいきません。
  私は私で弁解を始めたのです。

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