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名作を読みませんかコミュの「道標」  宮本 百合子 23

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 伸子たちは、自然、停留場のあるその町角をつっきって、並木道《ブリワール》へ入った。
 並木道《ブリワール》も、よごれた雪の堆積がまだどっさりあるけれども、真中にひとすじ、柔かなしっとりした黒い土があらわれている。
 名残りの雪がその辺の到るところにあるだけに、その間にひとすじのあらわれた黒い土は、胸のときめくような新鮮さだった。
 艷と、もう芽立ちの用意のみえる並木道の菩提樹や楓《かえで》のしなやかさをました枝のこまやかなかげは、その樹々の根っこに残雪をもって瑞々しさはひとしお感覚に迫った。

 得体のしれない客に気分を圧しつけられていた伸子はしっとりした黒い土の上の道を、往き来の群集にまじって歩きながらふかい溜息をつくように、
 「ああ、防寒靴《ガローシ》をぬいでしまいたい!」
 と云った。
 冬のぼてついたものは、みんな体からぬいでしまいたい。
 早春の日曜日の並木道は、すべての人々をそういう心持にさせる風景だった。
 それでも、モスクワ人は北方の季節の重厚なうつりかわりをよく知っていて、まだガローシをぬいでいるものはなかったし、外套のボタンをはずしているものもなかった。
 とける雪、暖くしめった大地、芽立とうとしている樹木のかすかな樹液のにおい。

 それらが交りあって柔かく濃い空気をたのしみながら、伸子と素子とはしばらくだまって並木道《ブリワール》を歩いて行った。
 「わたし、びっくりしちゃった」
 歩きながら伸子が云った。
 「あんな風に出来るのねえ。
  わたしは、本気で行くさきを考えて、苦心したのよ」
 「ああでいいのさ」
 日本服なら、片手はふところででもしていそうな散歩の気分で素子が答えた。
 「先手をうてばいいのさ」

 「あの宮野ってひと……どういうんだと思う?」
 まだこだわって、伸子が云い出した。
 「ぶこちゃん、だいぶ神経質になってるね」
 「たしかにそうだわ。曖昧なんだもの。
  西片町の兄さんだのって――誰だって外国にいるとき、お金のことはもっと本気よ。
  まるで帰れと言われればすぐ帰る人間みたいじゃないの。
  あの話しぶり……」

 宮野という男が、室を出入りするとき妙にあたりの空気を動かさないで自分の体だけその場から抜いてゆくような感じだったことを思い出して、伸子は、それにもいい心持がしなかった。
 たとえば内海厚という人などにしても、どういう目的で秋山宇一と一緒にソヴェトに来ているのか、伸子たちにはちっともわかっていなかった。
 秋山宇一が日本へかえっても、彼だけはあとにのこるらしいくちぶりだけれど、それとてもモスクワでどんな生活をやって行こうとしているのか、伸子たちはしらない。
 知らないなりに、内海厚の万端のものごしはあたりまえで、あたりまえにがたついていて、伸子たちに不審の心を抱かせる点がなかった。

 「まあ、どうせいろんな人間がいるんだろうさ、それはそれなりにあしらっとけばいいのさ。
  何もわたしたちがわるいことしてやしまいし……」
 「そりゃそうよ。もちろんそうだわ。
  誰だって、ここでわるいことなんてしようとしてやしないのに。
  ソヴェトの人たち自身だってもよ――なぜ……」
 伸子はつまって言葉をきった。

 伸子も宮野という人を、暗い職業人だと断定してしまうことは憚られた。
 しばらく黙って歩きながら、やがて低い、不機嫌な声で続けた。
 「嗅《か》ぎまわるみたいなのさ!」
 「そんなこと、むこうの勝手じゃないか。
  こっちのかまったこっちゃありゃしない」

 伸子たちは、いつか並木道《ブリワール》が、アルバート広場で中断される地点まで来た。
 トゥウェルスカヤの大通りが並木道《ブリワール》を横切っているところにはプーシュキンの像が建っていた。
 ここの並木道《ブリワール》のつき当りには、ロシアの子供たちのために無数の寓話物語を与えたクルィロフの坐像が飾られていた。

 部屋着のようなゆるやかな服装で楽々と椅子にかけ、いくらか前こごみになって何か話してきかせているような老作家クルィロフの膝の前に、三四人の子供が顔を仰向けてそれにきき入っている群像だった。
 その台座には、クルィロフの寓話に描かれた、いくつもの有名な情景が厚肉の浮彫りでほりつけられている。
 伸子たちはしばらくそこに立って、芽立とうとする菩提樹を背にした親しみぶかいクルィロフの坐像と、そのぐるりで雪どけ水をしぶかせながら遊んでいるモスクワの子供たちを眺めていた。
 日曜の並木道《ブリワール》には父親や母親とつれ立って歩いている子供たちがどっさりあり、長外套をつけ、赤い星のついた尖り帽をかぶった赤軍の兵士が、小さい子の手をひいて幾組も歩いている姿が伸子に印象ふかかった。

 並木道《ブリワール》からアルバート広場へ出て、一軒の屋台店《キオスク》の前を通りがかったとき、伸子は、
 「あれなんだろう」
 と、その店先へよって行った。
 売り出されたばかりの「プロジェクトル」というグラフ雑誌が表紙いっぱいにゴーリキイの写真をのせて、幾冊も紐から吊り下げられていた。

        三

 その展覧会場の最後の仕切りの部分まで見終ると、伸子はゆっくり引かえして、また一番はじめのところへもどって行った。
 作家生活の三十年を記念するゴーリキイの展覧会のそこには、マルクス・レーニン研究所から出品された様々の写真や書類が陳列されていた。
 けれども、おしまいまで何心なく見て行った伸子は、これだけの写真の数の中にゴーリキイの子供の時分を撮《うつ》したものは見なかったような気がした。
 けれども、見なかったということも、確かでなかった。

 伸子は、またはじめっから、仕切りの壁に沿って見なおして行った。
 マクシム・ゴーリキイが生れて育った古いニージュニ・ノヴゴロドの市の全景がある。
 ヴォルガ河の船つき場や荷揚人足の群の写真があり、ニージュニの町はずれの大きなごみすて場のあったあたりもうつされている。
 写真の下に簡単な解説が貼られていた。

 このごみすて場からボロや古釘をひろって、祖母と彼のパンを買う「小銭を稼いだ」と。
 けれども、そこには、ごみすて場をあさっている少年ゴーリキイの写真は一枚もなかった。
 写真の列は年代を追って、伸子の前にカザンの市の眺望を示し、アゾフ海岸の景色や、近東風な風俗の群集が動いているチフリス市の光景をくりひろげた。

 解説は語っている。
 カザンで十五歳のゴーリキイを迎えたのは彼がそこへ入学したいと思ったカザン大学ではなくて、貧民窟と波止場人足。
 やがてパン焼職人として十四時間の労働であったと。
 ここにもゴーリキイそのひとは写っていない。

 伸子は、カバンの河岸という一枚の写真の前に立ちどまってしみじみ眺めた。
 ゴーリキイは、二十歳だった。
 そう解説は云っている。
 夜この河岸に坐って、ゴーリキイは水の面へ石を放りながらいつまでも三つの言葉をくりかえした。
 「俺は、どうしたら、いいんだ?」と。

 陳列されている写真の順でみると、それから間もなくゴーリキイはニージュニへかえり、ヴォルガの岸でピストル自殺をしかけている。
 苦しい、孤独な渾沌《こんとん》の時代。
 この時代にもゴーリキイは写真がない。
 黒い鍔びろ帽子を少しあみだにかぶって、ルバーシカの上に外套をひっかけ、日本の読者にもなじみの深いゴーリキイが、芸術家風というよりはむしろロシアの職人じみた長髪で、その荒削りの姿を写真の上に現しはじめたのは一九〇〇年になってからだった。

 その頃から急にどっさり、華々しい顔ぶれで撮影されている。
 記念写真のどれを見ても、当時のロシアとヨーロッパの真面目な人々が、ゴーリキイの出現に対して抱いた感動が伝えられていた。
 気むずかしげに角ばった老齢の大作家トルストイ。
 穏和なつよさと聰明のあふれているチェホフ。
 芸術座によって新しい劇運動をおこしはじめたスタニスラフスキーやダンチェンコ。

 だれもかれも、ロシアの人特有の本気さでゴーリキイとともにレンズに顔をむけてうつされている。
 「マカール・チュードラ」「鷹の歌」「三人」やがて「小市民」と「どん底」などの古い版が数々の記念写真の下の台に陳列されはじめている。
 ゴーリキイは、ツァーの専制の下で無智と野蛮の中に生を浪費していた人民の中から、「非凡、善、不屈、美と名づけられる細片」をあつめ描きだした、と解説は感動をこめて云っているのだった。

 その展覧会はやっときのう開かれたばかりだった。
 まだ邪魔になるほどの人もいない明るくしずかな会場のそこのところを、伸子は一二度小戻りして眺めた。
 有名になり、作品があらわれてからのゴーリキイは、こんなに写真にとられ、その存在はすべての人から関心をもたれている。
 だけれども、それまでのゴーリキイ、生きるためにあんなに骨を折らなければならなかった子供のゴーリキイ。
 卑猥《ひわい》で無智だったパン焼職人の若い衆仲間のなかで、遂に死のうとしたほど苦しがっていた青年時代のゴーリキイ。

 それらの最も苦しかった時代のゴーリキイの写真は一枚もなくて、ただ彼の生へのたたかいのその背景となった町々ばかりが写されているということに、伸子はその場を去りがたい感銘をうけた。
 ありふれた世間のなかに、そのひとの道がきまったとき、人々はそのものの存在のために場所をあけ、賞讚さえ惜しまれず無数の写真をあらそってうつす。
 けれども、まだゴーリキイが子供で、その子がその境遇の中で、生きとおせるものか、生きとおせないものか、それさえ確かでなく餓えとたたかい悪とたたかってごみすて場をさまよっていたとき、そして、若いものになって、ごみくたのような生活の中に生きながら自分のなかで疼きはじめた成長の欲望とあてどのない可能の予感のために苦しみもだえているとき、周囲は、その生について知らず、無頓着だった。

 「三人」や「マカール・チュードラ」を文学作品としてほめる瞬間、人々はそこに自分の知らない生についてのロマンティックな感動をうけるだけで平安なのだろうか。
 ゴーリキイの幼年と青年時代を通じて、一枚の写真さえとられていない事実を発見して、伸子は新しく鋭く人生の一つの面を拓らかれたように感じた。
 トルストイの幼年時代の写真は全集にもついていた。
 レーニンも。
 チェホフはどうだったろう? 

 会場の窓ぎわに置かれている大きい皮ばりの長椅子にかけて休みながら、伸子は思い出そうとした。
 チェホフの写真として伸子の記憶にあるのは、どれも、ここにゴーリキイとうつっているような時代になってからのチェホフの姿ばかりだった。
 少年のチェホフの写真をみた人があるかしら。
 記憶のあちこちをさぐっていた伸子は、一つのことにかっちりとせきとめられた。

 それはチェホフも少年時代はおそらく貧乏だったにちがいない、ということだった。
 チェホフの父は解放された農奴でタガンローグというアゾフ海の近くのどこかの町で屋台《キオスク》商人として生活していた。
 と読んだことが思い出された。
 そうだとすれば、チェホフも、少年の頃ちょいちょい写真をとってもらったりするような生活の雰囲気はもっていなかったのだ。

 それらのことに気がつくと、伸子はひとりでに腋《わき》の下がじっとりするような思いになった。
 雪どけが終って春の光が溢れるようになると、モスクワの並木道《ブリワール》やモスクワ大学の構内で、ときには繁華な通りでビルディングを背景に入れたりして、おたがいに写真をうつし合っているソヴェトの若い人たちを、どっさり見かけるようになった。
 つい二三日前、伸子と素子とがブリワールを散歩しているときだった。
 そこの菩提樹の下に古風な背景画を立て、三脚を立てた写真師が日本でなら日光や鎌倉などでやっているように店をはっていた。
 五十カペイキでうつすと書いた札が菩提樹の幹にはってあった。

 伸子たちが通りかかったとき丁度一人の若い断髪の女が、生真面目にレンズを見つめて、シャッターが切られようとしているところであった。
 その肥った娘の赭ら顔の上にあるひなびたよろこびや緊張を伸子は同感して見物した。
 ソヴェトらしい素朴な並木道《ブリワール》風景と思ってみた。

 けれども、同時に伸子は素子にこんなことを云った。
 「こういうところをみるとロシアって、やっぱりヨーロッパでは田舎なのねえ」
 そして、連想のままに、
 「ヨーロッパで、日本人を見わける法ってのがあるんだって。
  知っている?」
 「知らないよ」
 「黄色くって、眼鏡をかけて、立派な写真器をもって歩いているのは日本人てきまっているんだって」
 「なるほどねえ」
 展覧会場の長椅子の上で、伸子が思い出したのは、この自分の会話だった。

 ゴーリキイの幼年時代や青年の頃一枚の写真さえもっていなかったということ。
 そしてあんなにゴーリキイが愛して、命の糧のようにさえ思っていた話し上手のお祖母さんの写真さえ、ただ一枚スナップものこされていないという現実は、伸子に自分のお喋りの軽薄さを苦々しくかえりみさせた。
 ロシアの貧しかった人々の痛ましい生活の荒々しさ。
 無視された存在。

 現在ソヴェトの若い人たちが、あんなに嬉々として春の光を追っかけて互に写真をとりあっていることは、決してただ田舎っぽいもの珍しさだけではなかった。
 伸子は、あんな小憎らしい日本の言葉が、まわりの人たちにわからなかったことをすまなくも、またたすかったとも思った。
 これまでの社会で写真というものは、ただそれを写すとか写さないとかいうだけのものではなかったのだ。

 伸子ははじめて、その事実を知った。
 写真をうつすということが、金のかかることである時代、何かというと写真をうつす人々は、それだけ金があり自分たちを記念したり残したりする方法を知っている人たちであり、写真を眺めて、その愉快や愛を反復して永く存在させる手段をもった人々であった。
 写真というものがロシアのあの時代に、そういう性質のものでなかったのなら、ゴーリキイのロマンティックで野生な人間性のむき出された少年時代のスナップが、誰かによって撮られなかったということはなかったろう。
 チェホフの子供時代にしろ、小父さんのとった一二枚の写真はあり得ただろう。

 ソヴェトの若い人たちが、写真器をほしがり、一枚でも自分たちの写真をほしがっているのは、伸子が浅はかに思ったような田舎っぽい物珍しがりではなかった。
 金もちや権力からその存在を無視され、自分からも自分の存在について全く受け身でなげやりだった昔のロシアの貧しい人民《ナロード》は、自分の生活を写してとっておく意味も興味も、思いつきさえも持っていなかったのだろう。
 写真なんかというものは金のある連中のたのしみごととして。

 ソヴェト生活のきょう、その人民が写真ずきだということは、その人たちにとって生存のよろこびがあり、日々の活動の場面が多様で変化にとんで居り、生き甲斐を感じているからこそにちがいなかった。
 写真がすきということのかげに、幾百千万の存在が、めいめいの存在意義を自覚して生きて居り、同時に社会がそれを承認しているということを語っていると思われるのだった。
 こういう点にふれて来ると、伸子は、自分がどんなに写真というものについてひねくれた感情をもっているかと思わずにいられなかった。
 そして、ヨーロッパ見物の日本人について云われる皮肉と、ソヴェトの写真ばやりとを、同じ田舎くささのように思ったひとりよがりにも、胸をつかれた。

 伸子は、子供のときから、モスクワへ来てニキーチナ夫人と一緒にうつした写真まで、無数と云うぐらいどっさり写真をとられた。
 それは生後百日記念、佐々伸子、と父の字で裏がきされている赤坊の伸子の第一撮影からはじまった。
 そこには、ゴム乳首をくわえている幼い総領娘の手をひいた佐々泰造の若いときの姿があり、被布をきた祖母が居り、弟たち、母がいた。

 ニューヨークで佃と結婚したとき、伸子はその記念のためにとった写真の一つを思い出した。
 平凡に並んでうつしたほかに、伸子は自分のこのみで、佃と自分の顔をよせ、横から二人の輪廓を記念メダルの構想で写してもらった。
 佃の彫りの深い横顔を大きくあらわして、その輪廓に添えて、二十一歳の軟かく燃える伸子の顔の線をあらわすようにした。

 六年たって、佃と離婚したあと、伸子はその写真を見るに堪えなかった。
 写真がそんなに佃と自分との結合を記念して、消えないのが堪えがたかった。
 書いた日記を破ったりしたことがないほど生活をいとしむ伸子であったが、そのメダル風の写真は、台紙からはがしてストーヴの火のなかに入れた。
 伸子は写真ぎらいになっていた。

 十八ぐらいからあと、伸子は、自分が写真にとられなければならなくなる羽目そのものを厭うことから、写真ぎらいになって来た。
 それは見合い写真をとらされることから、気もちのはっきりした娘たちが屈辱に感じて、いやがるのとはちがった。
 ゴーリキイが人生にさらされたのと、反対の角度から、伸子は、早く世間にさらし出された。

 それは、伸子が少女の年で小説をかき出したということが、原因であった。
 伸子は、新聞や雑誌から来る写真班に、うつしてほしくないときでも写真をとられた。
 それらの写真は、いつも好奇心と娘について示される多計代の関心に対する皮肉と伸子の将来の発展に対する不信用の暗示をふくんだ文章とともに人目にさらされた。

 伸子には、それが辛かった。
 そういう人工的なめぐり合わせをいやがって、普通の女としての生活に身を投げるように佃と結婚したのだったが、そこにもまた写真はつきまとった。
 伸子が思いがけなく唐突な結婚をしたと云って。
 身もちになってしまったからそのあと始末に仕方なく佃というアメリカごろつきと夫婦にもなったのだそうだ、という噂などを添えて。
 それらすべては伸子にとって苦しく、伸子の意識を不自然にした。

 伸子が、母の多計代に対してはたで想像されないほど激越した反撥をもちつづける原因も、伸子のその苦悩を多計代が理解しないことによっている。
 世間の期待と云えば云えたのかもしれないが、伸子の感じから云えば無責任な要求に、多計代は娘を添わして行きたがった。
 伸子は、それに抵抗しないわけにゆかなかった。

 目の前に、赤い布で飾られたゴーリキイ展の一つの仕切りを眺めながら、伸子は限りなくくりひろがる自分の思いの裡にいたが、その赤い飾りの布の色は段々伸子の眼の中でぼやけた。
 あんなに自分の境遇に抵抗して来ているつもりでも、伸子は、やっぱりいやにすべっこくて艷のいいような浅薄さをもっている自分であることを認めずにいられなくなった。
 いやがる自分をうつそうとする写真を軽蔑しながら、結局伸子はうつされた。
 写されながらいやがって、写真を金のかかる貴重なものとし、大切にするねうちのあるものとして考える地味な正直な人々、一枚の写真のために自分で働いて稼いだ金のなかから支払わなければならない人々の心と、とおくはなれた。
 これは、中流的なあさはかさの上に所謂文化ですれた感覚だと伸子は思った。

 そう思うと展覧会の飾り布の赤い色が一層ぼやけた。
 すれっからしの自分を自分に認めるのは伸子にとって切なかった。
 伸子は、どこかしょんぼりとした恰好で、中央美術館のルネッサンス式の正面石段を一歩一歩おりて、通りへ出た。
 雪どけが終って、八分どおり道路が乾いたらモスクワは急に喧しいところになった。
 電車の響、磨滅して丸いようになった角石でしきつめられている車道の上を、頻繁に荷馬車や辻馬車が堅い車輪を鳴らし、蹄鉄としき石との間から小さい火花を散らしながら通行する物音。

 伸子が来たころモスクワは雪に物音の消されている白いモスクワだった。
 それから町じゅうに雪どけ水のせせらぎが流れ、日光が躍り雨樋がむせび、陽気ではねだらけでモスクワは音楽的だった。
 こうして、道が乾くと乾燥しはじめた春の大気のなかでは、電車の音響、人声、すべてが灰色だの古びた桃色だの剥《は》げかかった黄色だのの建物の外壁にぶつかって反響した。
 モスクワへ来て半年たったきょう伸子の心の中でも下地がむき出しにあらわされた。
 歩くに辛いその心の上を歩いてゆくように伸子はアストージェンカへの道を行った。

 ソヴェトの人たちが、ゴーリキイを我らの作家として認めている。
 それにはどんなに深く根ざした必然があるだろう。
 歩きながらも伸子はそのことを思わずにいられなかった。
 ソヴェトに子供の家のあること、児童図書館のあること。
 働く青年男女のために大学が開放されていること。
 ソヴェトの民衆は自分たちの努力と犠牲とでそういう社会を組み立てはじめたことについて誇りとよろこびとを感じている。

 少年時代のゴーリキイの日々は、ソヴェトの表現でベスプリゾールヌイ(保護者なき子)と云われる浮浪の子供たちの生活だった。
 ヴォルガ通いの汽船の料理番から本をよむことを習って大きくなったゴーリキイは、ソヴェトに出来はじめている児童図書館の事業を自分のやきつくような思い出とともに見守っているのだ。
 そしてすべての働く若もののために大学があることを。
 「私の大学」でない大学がソヴェトに出来たことを。

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