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名作を読みませんかコミュの吾輩は猫である  夏目漱石  22

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 主人はまた行《ぎょう》を改める。

 彼の考によると行さえ改めれば詩か賛か語か録か何《なん》かになるだろうとただ宛《あて》もなく考えているらしい。

 やがて「天然居士は空間を研究し、論語を読み、焼芋《やきいも》を食い、鼻汁《はな》を垂らす人である」と言文一致体で一気呵成《いっきかせい》に書き流した、何となくごたごたした文章である。

 それから主人はこれを遠慮なく朗読して、いつになく「ハハハハ面白い」と笑ったが「鼻汁《はな》を垂らすのは、ちと酷《こく》だから消そう」とその句だけへ棒を引く。

 一本ですむところを二本引き三本引き、奇麗な併行線《へいこうせん》を描《か》く、線がほかの行《ぎょう》まで食《は》み出しても構わず引いている。

 線が八本並んでもあとの句が出来ないと見えて、今度は筆を捨てて髭《ひげ》を捻《ひね》って見る。

 文章を髭から捻り出して御覧に入れますと云う見幕《けんまく》で猛烈に捻ってはねじ上げ、ねじ下ろしているところへ、茶の間から妻君《さいくん》が出て来てぴたりと主人の鼻の先へ坐《す》わる。

 「あなたちょっと」と呼ぶ。

 「なんだ」と主人は水中で銅鑼《どら》を叩《たた》くような声を出す。

 返事が気に入らないと見えて妻君はまた「あなたちょっと」と出直す。

 「なんだよ」と今度は鼻の穴へ親指と人さし指を入れて鼻毛をぐっと抜く。

 「今月はちっと足りませんが……」

 「足りんはずはない、医者へも薬礼はすましたし、本屋へも先月払ったじゃないか。
  今月は余らなければならん」

 とすまして抜き取った鼻毛を天下の奇観のごとく眺《なが》めている。

 「それでもあなたが御飯を召し上らんで麺麭《パン》を御食《おた》べになったり、
  ジャムを御舐《おな》めになるものですから」

 「元来ジャムは幾缶《いくかん》舐めたのかい」

 「今月は八つ入《い》りましたよ」

 「八つ? そんなに舐めた覚えはない」

 「あなたばかりじゃありません、子供も舐めます」

 「いくら舐めたって五六円くらいなものだ」

 と主人は平気な顔で鼻毛を一本一本丁寧に原稿紙の上へ植付ける。

 肉が付いているのでぴんと針を立てたごとくに立つ。主人は思わぬ発見をして感じ入った体《てい》で、ふっと吹いて見る。

 粘着力《ねんちゃくりょく》が強いので決して飛ばない。

 「いやに頑固《がんこ》だな」と主人は一生懸命に吹く。

 「ジャムばかりじゃないんです、ほかに買わなけりゃ、ならない物もあります」

 と妻君は大《おおい》に不平な気色《けしき》を両頬に漲《みなぎ》らす。

 「あるかも知れないさ」と主人はまた指を突っ込んでぐいと鼻毛を抜く。

 赤いのや、黒いのや、種々の色が交《まじ》る中に一本真白なのがある。

 大に驚いた様子で穴の開《あ》くほど眺めていた主人は指の股へ挟んだまま、その鼻毛を妻君の顔の前へ出す。

 「あら、いやだ」と妻君は顔をしかめて、主人の手を突き戻す。

 「ちょっと見ろ、鼻毛の白髪《しらが》だ」

 と主人は大に感動した様子である。

 さすがの妻君も笑いながら茶の間へ這入《はい》る。

 経済問題は断念したらしい。

 主人はまた天然居士《てんねんこじ》に取り懸《かか》る。

 鼻毛で妻君を追払った主人は、まずこれで安心と云わぬばかりに鼻毛を抜いては原稿をかこうと焦《あせ》る体《てい》であるがなかなか筆は動かない。

 「焼芋を食うも蛇足《だそく》だ、割愛《かつあい》しよう」

 とついにこの句も抹殺《まっさつ》する。

 「香一もあまり唐突《とうとつ》だから已《や》めろ」と惜気もなく筆誅《ひっちゅう》する。

 余す所は「天然居士は空間を研究し論語を読む人である」と云う一句になってしまった。

 主人はこれでは何だか簡単過ぎるようだなと考えていたが、ええ面倒臭い、文章は御廃《おはい》しにして、銘だけにしろと、筆を十文字に揮《ふる》って原稿紙の上へ下手な文人画の蘭を勢よくかく。

 せっかくの苦心も一字残らず落第となった。

 それから裏を返して
 「空間に生れ、空間を究《きわ》め、空間に死す。
  空たり間たり天然居士《てんねんこじ》噫《ああ》」
 と意味不明な語を連《つら》ねているところへ例のごとく迷亭が這入《はい》って来る。

 迷亭は人の家《うち》も自分の家も同じものと心得ているのか案内も乞わず、ずかずか上ってくる、のみならず時には勝手口から飄然《ひょうぜん》と舞い込む事もある、心配、遠慮、気兼《きがね》、苦労、を生れる時どこかへ振り落した男である。

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