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名作を読みませんかコミュの吾輩は猫である 夏目漱石 9

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 三毛子はこの近辺で有名な美貌家《びぼうか》である。
 吾輩は猫には相違ないが物の情《なさ》けは一通り心得ている。
 うちで主人の苦《にが》い顔を見たり、御三の険突《けんつく》を食って気分が勝《すぐ》れん時は必ずこの異性の朋友《ほうゆう》の許《もと》を訪問していろいろな話をする。
 すると、いつの間《ま》にか心が晴々《せいせい》して今までの心配も苦労も何もかも忘れて、生れ変ったような心持になる。

 女性の影響というものは実に莫大《ばくだい》なものだ。
 杉垣の隙から、いるかなと思って見渡すと、三毛子は正月だから首輪の新しいのをして行儀よく椽側《えんがわ》に坐っている。

 その背中の丸さ加減が言うに言われんほど美しい。
 曲線の美を尽している。
 尻尾《しっぽ》の曲がり加減、足の折り具合、物憂《ものう》げに耳をちょいちょい振る景色《けしき》なども到底《とうてい》形容が出来ん。

 ことによく日の当る所に暖かそうに、品《ひん》よく控《ひか》えているものだから、身体は静粛端正の態度を有するにも関らず、天鵞毛《びろうど》を欺《あざむ》くほどの滑《なめ》らかな満身の毛は春の光りを反射して風なきにむらむらと微動するごとくに思われる。

 吾輩はしばらく恍惚《こうこつ》として眺《なが》めていたが、やがて我に帰ると同時に、低い声で「三毛子さん三毛子さん」といいながら前足で招いた。
 三毛子は「あら先生」と椽を下りる。

 赤い首輪につけた鈴がちゃらちゃらと鳴る。
 おや正月になったら鈴までつけたな、どうもいい音《ね》だと感心している間《ま》に、吾輩の傍《そば》に来て「あら先生、おめでとう」と尾を左《ひだ》りへ振る。

 吾等猫属《ねこぞく》間で御互に挨拶をするときには尾を棒のごとく立てて、それを左りへぐるりと廻すのである。
 町内で吾輩を先生と呼んでくれるのはこの三毛子ばかりである。
 吾輩は前回断わった通りまだ名はないのであるが、教師の家《うち》にいるものだから三毛子だけは尊敬して先生先生といってくれる。
 吾輩も先生と云われて満更《まんざら》悪い心持ちもしないから、はいはいと返事をしている。

 「やあおめでとう、大層立派に御化粧が出来ましたね」
 「ええ去年の暮御師匠《おししょう》さんに買って頂いたの、宜《い》いでしょう」
 とちゃらちゃら鳴らして見せる。

 「なるほど善い音《ね》ですな、
  吾輩などは生れてから、そんな立派なものは見た事がないですよ」
 「あらいやだ、みんなぶら下げるのよ」
 とまたちゃらちゃら鳴らす。

 「いい音《ね》でしょう、あたし嬉しいわ」
 とちゃらちゃらちゃらちゃら続け様に鳴らす。
 「あなたのうちの御師匠さんは大変あなたを可愛がっていると見えますね」
 と吾身に引きくらべて暗《あん》に欣羨《きんせん》の意を洩《も》らす。

 三毛子は無邪気なものである
 「ほんとよ、まるで自分の小供のようよ」
 とあどけなく笑う。

 猫だって笑わないとは限らない。
 人間は自分よりほかに笑えるものが無いように思っているのは間違いである。
 吾輩が笑うのは鼻の孔《あな》を三角にして咽喉仏《のどぼとけ》を震動させて笑うのだから人間にはわからぬはずである。

 「一体あなたの所《とこ》の御主人は何ですか」
 「あら御主人だって、妙なのね。
  御師匠《おししょう》さんだわ。
  二絃琴《にげんきん》の御師匠さんよ」

 「それは吾輩も知っていますがね。
  その御身分は何なんです。
  いずれ昔《むか》しは立派な方なんでしょうな」
 「ええ」

 君を待つ間《ま》の姫小松……………
 障子の内で御師匠さんが二絃琴を弾《ひ》き出す。
 「宜《い》い声でしょう」
 と三毛子は自慢する。

 「宜《い》いようだが、吾輩にはよくわからん。
  全体何というものですか」
 「あれ?
  あれは何とかってものよ。
  御師匠さんはあれが大好きなの。
  御師匠さんはあれで六十二よ。
  随分丈夫だわね」
 六十二で生きているくらいだから丈夫と云わねばなるまい。

 吾輩は「はあ」と返事をした。
 少し間《ま》が抜けたようだが別に名答も出て来なかったから仕方がない。

 「あれでも、もとは身分が大変好かったんだって。
  いつでもそうおっしゃるの」
 「へえ元は何だったんです」
 「何でも天璋院《てんしょういん》様の御祐筆《ごゆうひつ》の、
  妹の御嫁に行った先《さ》きの御《お》っかさんの甥《おい》の娘なんだって」

 「何ですって?」
 「あの天璋院様の御祐筆の妹の御嫁にいった……」
 「なるほど。
  少し待って下さい。
  天璋院様の妹の御祐筆の……」

 「あらそうじゃないの、天璋院様の御祐筆の妹の……」
 「よろしい分りました天璋院様のでしょう」
 「ええ」
 「御祐筆のでしょう」
 「そうよ」

 「御嫁に行った」
 「妹の御嫁に行ったですよ」
 「そうそう間違った。
  妹の御嫁に入《い》った先きの」
 「御っかさんの甥の娘なんですとさ」

 「御っかさんの甥の娘なんですか」
 「ええ。分ったでしょう」
 「いいえ。何だか混雑して要領を得ないですよ。
  詰《つま》るところ天璋院様の何になるんですか」

 「あなたもよっぽど分らないのね。
  だから天璋院様の御祐筆の妹の御嫁に行った先きの御っかさんの甥の娘なんだって、
  先《さ》っきっから言ってるんじゃありませんか」
 「それはすっかり分っているんですがね」
 「それが分りさえすればいいんでしょう」
 「ええ」
 と仕方がないから降参をした。
 吾々は時とすると理詰の虚言《うそ》を吐《つ》かねばならぬ事がある。

 障子の中《うち》で二絃琴の音《ね》がぱったりやむと、御師匠さんの声で「三毛や三毛や御飯だよ」と呼ぶ。
 三毛子は嬉しそうに
 「あら御師匠さんが呼んでいらっしゃるから、私《あた》し帰るわ、よくって?」
 わるいと云ったって仕方がない。

 「それじゃまた遊びにいらっしゃい」
 と鈴をちゃらちゃら鳴らして庭先までかけて行ったが急に戻って来て、
 「あなた大変色が悪くってよ。
  どうかしやしなくって」
 と心配そうに問いかける。

 まさか雑煮《ぞうに》を食って踊りを踊ったとも云われないから
 「何別段の事もありませんが、少し考え事をしたら頭痛がしてね。
  あなたと話しでもしたら直るだろうと思って実は出掛けて来たのですよ」
 「そう。御大事になさいまし。さようなら」
 少しは名残《なご》り惜し気に見えた。

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