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名作を読みませんかコミュの次郎物語  下村湖人  169

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 塾生たちは、もうそのころには、とうに食事を終わっていた。
 来賓もほとんど全部箸《はし》をおろしており、まだすんでいないのは、目が不自由なうえに、何かと議論を吹《ふ》きかけていた荒田老と、その相手になっていた朝倉先生ぐらいなものであった。

 しかし、この二人も、話をやめると間もなく箸をおろした。
 来賓たちは、畳敷《たたみじ》きの広間のガラス窓いっぱいに、あたたかい陽《ひ》がさしこんでいるのが気に入ったらしく、食事がすんで塾生たちが退散したあとでも、窓ぎわに集まって、たばこを吸い、雑談をまじえた。

 そのうちに荒田老に付《つ》き添《そ》っていた鈴田が、平木中佐と何かしめしあわせたあと、朝倉先生の近くによって来てたずねた。
 「今日も、午後は例のとおり懇談会をおやりになるんですか。」

 「ええ、その予定です。
  しかし今日は、懇談らしい懇談にはいるのはおそらく夜になるでしょう。
  私から前もっていっておきたいことは、今日はもう大体、式場で話してしまいましたし、
  午後集まったら、さっそく、ご存じの『探検』にとりかからしたいと思っています。」

 鈴田はすぐもとの位置にもどった。
 そして荒田老と平木中佐を相手に、何か小声で話しながら、おりおり横目で朝倉先生のほうを見たり、にやにや笑ったりしていたが、まもなく、荒田老の手をとって立ちあがった。
 すると平木中佐も立ちあがった。

 三人の自動車が玄関をはなれると、ほかの来賓たちの話し声は、急に解放されたようににぎやかになった。
 しかし、話の内容は決して愉快《ゆかい》なものではなかった。
 塾の将来に対する憂慮《ゆうりょ》や、理事長と塾長に対する同情と激励《げきれい》の言葉が、ほとんどそのすべてであった。

 そして、具体的対策については、何一つ示唆《しさ》が与えられないまま、それから二十分ばかりの間に、来賓たちの姿もつぎつぎに消えて行った。

 田沼理事長だけは、今日はめずらしくゆっくりしていた。
 そして、来賓たちを送り出すと、すぐ、朝倉先生と二人で塾長室にはいって行った。

 次郎は、一人になると、急にほっとしたような、それでいて何か固いものを胸の中におしこまれたような、変な気持ちになり、もう一度広間にはいって、窓によりかかった。
 今日は式の時間がのびたので、午後の行事は、三十分ほどくり下げて一時半からということになっていた。

 それまでには、まだ十五六分の時間がある。
 いつもなら、そうしたわずかな時間でも、ぼんやりしてはいないかれだったが、今日の式場と食卓とでうけた刺激《しげき》の余波《よは》は、かれに小まめな仕事をやらせるには、まだあまりに高かったし、床の間の「平常心」の掛軸《かけじく》は、やはりかれにとっては全くべつの世界の消息をつたえるものでしかなかったのである。

 かれは、荒田老と平木中佐の顔を代わる代わる思いうかべながら、陽を背にして眼をつぶっていた。すると、だしぬけに、
 「どうだ、つかれたかね。
  昨日から、ずいぶん忙《いそが》しかったろう。」
 そういってはいって来たのは田沼先生だった。

 次郎は、目を見ひらき、あわてて居《い》ずまいを正した。
 「そう窮屈《きゅうくつ》にならんでもいい。」
 田沼先生は、次郎とならんで窓わくによりかかりながら、
 「今度の塾生には、変わったのが一人いるらしいね。」

 「ええ。」
 次郎の頭には、すぐ大河無門の顔がうかんで来た。
 しかし、「変わった」という先生の言葉の意味がちょっとうたがわしかったらしく、
 「大河っていう人のことでしょう。」
 「うむ、大河無門、さっき名簿で見たんだが、めずらしい名前だね。」

 「ええ、名前もめずらしいんですが、人間も非常にめずらしいんじゃないかと思います。」
 「私もそう思う。
  たしかにめずらしい青年だよ。」
 「もう本人をご存じなんですか。」
 「まだ直接会ってはいない。
  しかし、式場で眼についたので、朝倉先生にたずねて見たんだ。」

 次郎は、「式場で眼についた」ときいた瞬間《しゅんかん》、何か明るいものが胸の中にさしこんだような気がした。
 かれはうれしくなって、膝《ひざ》をのり出しながら、
 「あの人、大学を出ているんです。」

 「そうだってね。」
 「年も、ぼくよりずっと上なんです。」
 「そうだろう。
  顔を見ただけでも、たしかに君の兄さんだ。
  それに――」
 と田沼先生は、ちょっと微笑して、
 「精神年齢《ねんれい》のほうでは、いっそう年上らしいね。」

 次郎はそれを冗談だとは受け取らなかった。
 かれは真剣《しんけん》な顔をして、
 「ぼく、あの人が塾生で、ぼくが助手では、変だと思うんですけれど……」

 「どうして?
  それはかまわんさ。
  本人が塾生を希望しているし、また、君が助手だからといって、
  大河を先輩《せんぱい》として尊敬できないという理由もないだろう。」

 「それはむろんそうですけれど……」
 「それとも、大河に気押《けお》されて、やるべきことがやれないとでもいうのかね。」
 「そんなことはありません。
  ぼくはただ朝倉先生のあとについて、仕事をやっていくだけのことなんですから。」

 「じゃあ、何も気にすることはないじゃないかね。」
 「ええ。」
 と、次郎はこたえたが、まだ何となく気持ちを始末しかねているふうであった。

 田沼先生は、しばらくその様子を見まもったあと、
 「やはり気がひけるらしいね。」
 「ええ、ぼく、代われたら代わりたいと思うぐらいなんです。」
 「代わる?
  そんなことはできないよ。かりにできたところで、それは小細工《こざいく》というもんだ。

  そんな小細工をするよりか、与《あた》えられた立場をそのまますなおに受け取って、
  それを生かす工夫《くふう》をしたらどうだ。
  君自身のためにも、大河のためにも、塾生たちみんなのためにも、
  生かそうと思えばどんなにでも生かされると思うがね。

  私は、ある意味では、むしろ、いいチャンスが、君にめぐまれたとさえ思っている。
  元来、環境《かんきょう》というものは、それが不合理であっても、
  無理に小細工をして変えようとしてはならないものなんだ。
  まずその環境をそのまま受け取って、その中で自分を練りあげる。

  それでこそほんとうの意味で環境に打《う》ち克《か》てるし、またそれでこそ、
  どんな不合理も自然に正されていくだろう。
  私は何事についても、そういう考えから出発したいと思っている。
  暴力に訴《うった》える社会革命に私が絶対に賛成できないのも、
  根本はそういうところにあるんだ。」

 次郎はじっと考えこんだ。
 すると田沼先生は急に笑いだし、
 「つい、話がとんでもない、大きな問題に飛躍《ひやく》してしまったね。
  しかし、真理は問題の大小にかかわらないんだ。

  小細工はいわば小さな暴力革命だし、暴力革命はいわば大きな小細工だからね。
  大きな小細工なんて、言葉はちょっと変だが。
  とにかく君は、君のやるべきことを落ちついてやって行くことだ。

  大河に気おくれして仕事がにぶってもならないし、かといって、
  大河に心で兄事《けいじ》することを忘れてもならない。
  世間には、先生よりも弟子《でし》のほうが偉《えら》い場合だってよくあることだし、
  それは気にすることはない。
  大事なのは、そういう関係を先生も弟子も、どう生かすかを考えることだよ。」

 次郎はやはり考えこんでいた。
 田沼先生も何かしばらく考えるふうだったが、
 「ところで、どうだね、今日の気持ちは?
  式場では、いつもに似ず、まごついていたようだったが。……」

 次郎は、田沼先生が、わざわざ広間にやって来て自分に話しかけた目的はこれだな、と直感した。
 同時に、かれの胸の中では、感謝したいような気持ちと圧迫《あっぱく》されるような気持ちとが入りみだれた。

 かれはすぐには答えることができなかった。
 自分の感想を、あからさまにいうのが、何となくはばかられたのである。
 それに、今はもう式場や食卓で感じた不愉快な気持ちもかなりうすらいでいて、だれかにそれをぶちまけなければ治まらないというほどではなかった。

 大河無門が早くも田沼先生の注目をひいているということを知ったことで、かれの気分がかなり明るくなっていたうえに、さっきから二人で取りかわした問答の間から、自分の生き方に何か新しい方向を見いだしたような気になり、そのほうにかれの関心が高まりつつあったのである。

 かれには、これまでとはまるでちがった気持ちと態度とをもって、戦いに臨《のぞ》もうとする意志が、ほのかに湧《わ》きかけていた。
 むろんそれが決定的にかれの行動を左右するまでには、まだ数多くの試練を経《へ》なければならなかったであろう。

 しかし、少なくともかれの頭だけでは、そうした意志に生きることの必要が、かなりはっきりと理解されていたようであった。
 真の勝利は、相手を憎《にく》み、がむしゃらに相手に組みつくだけでは、決して得られるものではない。

 自分みずからを充実《じゅうじつ》させることのみが、それを決定的にするのだ。
 友愛塾の精神を勝利に導く手段もまたそこにある。
 そして、友愛塾の内容を充実させるために、自分にとって必要なことは、友愛塾の助手としての自分の道を、ただまっしぐらにつき進みつつ、人間としての自分を充実させることであって、いたずらに荒田老や平木中佐の言動を気にし、かれらに対して感情的に戦いをいどむことではない。

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