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名作を読みませんかコミュのレ・ミゼラブル  ビクトル・ユーゴー 作   豊島与志雄 訳  50

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     四 喪服のマドレーヌ氏


 一八二一年の初めに、諸新聞は「ビヤンヴニュ閣下と綽名《あだな》せられた」ディーニュの司教ミリエル氏の死を報じた。
 八十二歳をもって聖者のごとく永眠したというのであった。

 新聞に書かれなかった一事をここにつけ加えておくが、ディーニュの司教はその生前数年来盲目であった、そして妹がそばにいてくれるので彼はその盲目に満足していたのだった。

 ついでに言う。
 盲目にしてしかも愛せられているということは、何も完全なるもののないこの世においては、実に最も美妙な幸福の一である。

 自分の傍《かたわら》に絶えず一人の女が、一人の娘が、一人の妹が、一人のかわいい者がある。
 彼女を自分は必要とし、また彼女も自分なしには生きてゆけないのである。彼女が自分に必要であるごとく、自分もまた彼女になくてならない者であることを知る。

 彼女が自分の傍にいてくれる度数によって、彼女の愛情を絶えず計ることができる。
 そして自ら言う、彼女がその時間をすべて私にささげてくれるのは、私が彼女の心をすべて占領しているからだと。

 彼女の顔は見えないけれどもその考えを見る。
 世界がすべて自分の眼界から逸した中にただ一人彼女の忠実なことを認める。
 翼の音のような彼女の衣擦《きぬず》れの音を感ずる。
 彼女が行き、きたり、外出し、帰り、話をし、歌をうたうのを聞く。

 そして自分は、その歩み、その言葉、その歌の中心であることを思う。
 各瞬間ごとに、彼女が自分に心牽《ひ》かれていることがわかる。
 身体が不具になればなるほどいっそう力強くなるのを感ずる。
 暗黒のうちに、また暗黒によって、自ら太陽となり、そのまわりにはこの天使が回転している。

 かくのごときはほとんど類《たぐ》いまれなる幸福というべきである。
 人生最上の幸福は、愛せられているという確信にある。
 直接自分自身が愛せられる、いや、むしろ自分自身の如何《いかん》にかかわらず愛せられるという確信にある。

 そういう確信は盲者にして初めて有し得る。惨《いた》ましき盲目のうちにおいては、世話を受くるはすなわち愛撫《あいぶ》を受くることにほかならない。
 彼にはその他に何かが不足するであろうか。
 いや、愛を有する以上、光明を失ったものではない。

 しかもその愛はいかなる愛であるか。
 まったく徳操をもって作られた愛である。
 確実なる信念があるところに失明なるものは存しない。
 魂は手探りに魂をさがしそれを見いだす。

 しかもその見いだされとらえられた魂は、一個の婦人である。
 汝をささえてくれる手、それは彼女の手である。
 汝の額に触れてくれる脣《くちびる》、それは彼女の脣である。
 汝はすぐそばに呼吸の音をきく、それは彼女である。

 その崇拝より憐憫《れんびん》に至るまで彼女のすべてを所有する。
 決してそばを離れられることがない。
 その弱々しい優しさで助けられる。
 その心確かな蘆《あし》のごとき弱き女性に身をささえる。

 直接おのれの手をもって神の摂理にふれ、おのれの腕のうちにそれを、肌に感じ得る神をいだく。
 これ実にいかなる喜悦であろうぞ!
 その心は、その人知れぬ聖《きよ》き花は、神秘のうちにひらく。

 それはあらゆる光明にもまさった影である。
 天使の魂がそこにある。
 常にある。

 もしそれが立ち去ることあっても、また再び帰りきたらんがためにである。
 それは夢のごとくに姿を消し、現実のごとくに再び現われる。
 暖きものの近づくのを感ずる時にはもはや、それがそこにある。

 清朗と喜悦と恍惚《こうこつ》とに人は満たされる。
 暗夜のうちにおける輝きである。
 そして数々の細かな心尽し。
 些細《ささい》なものもその空虚のうちにあっては巨大となる。

 得も言えぬ女声の音調は汝を揺籃《ゆりかご》に揺すり、汝のために消え失せし世界を補う。
 魂をもって愛撫せらるるのである。
 何物も見えないが、しかし鍾愛《しょうあい》せられてるのを感ずる。それは実に暗黒の楽園である。

 ビヤンヴニュ閣下は、かくのごとき楽園より他の天国へと逝《い》ったのであった。
 彼の死の報知は、モントルイュ・スュール・メールの地方新聞にも転載された。
 マドレーヌ氏はその翌日から、黒の喪服をつけ帽子に黒紗を巻いた。

 町の人々はその喪装に目を止めて、いろいろ噂をし合った。
 そのことはマドレーヌ氏の生まれについて一つの光明を投ずるものと思われた。
 人々は彼があの尊い司教と関係があるように推論した。

 「彼はディーニュの司教のために黒紗をつけた」と、町の社交界で噂に上った。
  そのことは大いにマドレーヌ氏の地位を高め、にわかにモントルイュ・スュール・メールの貴族社会において重きをなすようになった。

 その小都市のサン・ジェルマンとも称すべき区郭の人々は、おそらく司教の身寄りの者であるマドレーヌ氏の四旬節の勤めを止めさせようとした。
 マドレーヌ氏はまた、年取った女らの敬意と年若い婦人らのほほえみとの増したことを見て、自分の地位の上がったことを認めた。

 ある晩、その小都市の交際社会の首脳ともいうべき一人の老婦人が、老人の好奇心から彼に尋ねたことがあった。
 「市長さんはきっと亡《な》くなられたディーニュの司教の御親戚でございましょうね。」
 彼はいった。
 「そうではありません。」

 「けれども、」とその老婦人は言った。
 「あなたは司教のために喪服をつけていられるではありませんか。」

 彼は答えた。
 「それはただ、若い頃司教の家に使われていたことがあるからです。」
 なおも一つ人々の注意をひいたことには、地方を回って煙筒の掃除をして歩いてるサヴォア生まれの少年が町にやって来るたびごとに、市長はその少年を呼んで名前を尋ね、そして金を与えた。

 サヴォア生まれの少年らはそのことをよく語り合った、そしてわざわざやってきて金をもらってゆく者も多かった。

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