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名作を読みませんかコミュの次郎物語  下村湖人  157

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 塾長室のドアがしまると、ほとんど同時に田沼理事長が自動車を乗りつけた。
 次郎が出迎えて、小声で荒田老《あらたろう》のことを話すと、
 「そうか。」
 とうなずいて、すぐ塾長室にはいって行ったが、次郎には、気のせいか、そのうなずきかたに何か重くるしいものが感じられた。

 そのあと、いつもの顔ぶれの来賓《らいひん》がつぎつぎに見え、せまい塾長室はいっぱいになった。
 しかし、廊下にもれる話し声は、これまでの開塾式の日のようににぎやかではなかった。
 まるで話し声のきこえない時間がむしろ多いぐらいだった。
 次郎はいやにそれが気がかりだった。

 河瀬《かわせ》という少年の給仕がいて、茶菓《さか》をはこんだりするために、たびたび塾長室に出はいりしていたので、かれに中の様子をきいてみようかとも思ったが、それも何だか変だという気がして、ただひとりで気をもんでいた。

 定刻になって塾生を式場に入れ終わると、かれは来賓を案内するためにすぐ塾長室にはいって行ったが、その時にも、話し声はほとんどきこえなかった。
 見ると荒田老は両腕《りょううで》を深く組み、その上にあごをうずめて、居眠《いねむ》りでもしているかのような格好《かっこう》をしていた。

 ほかの人たちの中にも、頭を椅子《いす》の背にもたせて眼をつぶっているものが二三人あった。
 あとはみんなめいめいに塾生名簿に眼をとおしていたが、それも気まずさをそれでまぎらしているといったふうであった。

 やがて式場に案内されて着席してからの荒田老の姿は、まさに一個の怪奇《かいき》な木像であった。
 式の順序は一般《いっぱん》の教育施設とたいして変わったこともなく、何度か起立したり着席したりしなければならなかったが、老は着席となると、必す両手をきちんと膝《ひざ》の上におき、首をまっすぐにたて、黒眼鏡の奥《おく》からある一点を凝視《ぎょうし》しているといった姿勢になった。

 そして壇上《だんじょう》の声は、理事長、塾長、来賓と三たび変わり、たっぷり一時間を要したにもかかわらず、老は身じろぎ一つせず、黒眼鏡から反射する光に微動《びどう》さえも見られなかったぐらいであった。

 式がすむと、来賓も塾生といっしょに昼食をともにする段取りになっていた。
 しかし荒田老は式場を出るとそのまま塾長室にもはいらず、すぐ帰るといいだした。
 理事長が食事のことを言って引きとめようとすると、
 「めし?
  わしはめしはたくさんです。」
 と、そっけなく答え、付《つ》き添《そ》いの背広の男をうながし、さっさと自動車に乗ってしまった。

 朝倉夫人は第一回以来のしきたりで、その日は入塾生のこまごました世話をやいたり、炊事《すいじ》のほうの手助けをしたりしていたため、開式になって、はじめて荒田老の怪奇な姿に接し、非常におどろいたらしかった。

 そして、午後になって、理事長以下来賓が全部引きあげたあと、次郎に今朝のいきさつを話してきかされ、なお塾長室で、朝倉先生と三人集まっての話のときに、先生から老の人物や、その社会的勢力などについてあらましの話をきくと、夫人はさすがに心配そうに眉根《まゆね》をよせて言った。

 「塾の中だけのむずかしさなら、かえって張《は》りあいがあって楽しみですけれど、
  外からいろいろ干渉《かんしょう》されたりするのは、いやですわね。」
 しかし、朝倉先生はそれに対して無雑作《むぞうさ》にこたえた。
 「外からの圧力の加わらない共同生活なんか、あり得ないさ。
  あっても無意味だろう。
  そういう点からいって、実はこれまでのここの生活は少し甘《あま》すぎたんだ。
  これからがほんものだよ。」

 その後は、開塾式にも閉塾式にもきまって荒田老の姿が見えた。
 こちらからそのたびごとに案内を出すことになったのである。
 式場における理事長と塾長とのあいさつは、時によって多少表現こそちがえ、趣旨《しゅし》は第一回以来少しも変わっていないので、荒田老も何回となく同じ内容のことをきくわけであった。

 そして式がすむとすぐ帰ってしまうのだから、何がおもしろくて毎回わざわざ顔を見せるのか、次郎にはわけがわからなかった。
 世間には来賓祝辞を所望《しょもう》される機会が来るのを一つの楽しみにして、学校の卒業式などに臨《のぞ》む人も少なくはないが、それにしては人がらが少し変わりすぎている。

 少なくとも、それほど低俗《ていぞく》で凡庸《ぼんよう》な人物だとは思えない。
 内々心配されているように、指導方針について何か文句をつけたがっているとすれば、すでに最初からがその機会だったはずである。
 にもかかわらず、いつも黙々《もくもく》として式場にのぞみ、黙々として理事長と塾長とのあいさつをきき、そして黙々として帰って行く。

 次郎には、それが不思議でならないのだった。
 怪奇な容貌《ようぼう》がいよいよ怪奇に見え、気味わるくさえ感じられて来たのである。
 しかしこの謎《なぞ》は、このまえの第九回の開塾式の日についに解けた。
 その日、荒田老は、めずらしく式後に居残《いのこ》ってみんなと食事をともにした。
 そして食事がすんだあとも、いつになく軽妙《けいみょう》なしゃれを飛ばしたりして、他の来賓たちと雑談をかわし、なかなか帰ろうとしなかった。

 で、いつもなら食後三十分もたてば引きあげるはずの他の来賓たちも、荒田老に対する気がねから、かなりながいこと尻《しり》をおちつけていた。
 しかし二、三の来賓がとうとうたまりかねたように立ちあがり、その一人が荒田老に近づいて、
 「お先にはなはだ失礼ですが、ちょっと急な用をひかえていますので……」
 と、いかにも恐縮《きょうしゅく》したようにいうと、荒田老は、黒眼鏡の顔をとぼけたようにそのほうに向けて答えた。

 「わしですか。
  わしにならどうぞおかまいなく。
  今日はわしは午後までゆっくり見学さしてもらうことにしておりますので。」
 それから朝倉先生のすわっているほうに黒眼鏡を向け、
 「塾長さん、ご迷惑ではないでしょうかな。」
 「いいえ、いっこうかまいません。
  どうぞごゆっくり。」

 朝倉先生は、みんなの緊張した視線の交錯《こうさく》の中でこたえた。
 わざとらしくない、おちついた答えだった。
 「実はね、塾長さん――」
 と、荒田老はいくらか威圧《いあつ》するような声で、
 「式場であんたのいわれることは、毎度きいていて、大よそは、わかったつもりです。
  しかし、ちょっと腑《ふ》におちないところがありましてな。
  これは、理事長のいわれることについても同じじゃが。
  で、もう少し立ち入っておききしたいと思っているんです。」

 「いや、それはどうも。
  なにぶん式場ではじっくり話すというわけにはまいりませんので。
  で、どういう点にご不審《ふしん》がおありでしょうか。」
 立ちかけていた来賓たちも、そのまま棒立ちになって、荒田老の言葉を待っていた。

 すると荒田老はどなるように言った。
 「わしとあんたの間で問答しても、何の役にもたたん。」
 「は?」
 と、朝倉先生はけげんそうな顔をしている。

 「あんたがこれから塾生に何を言われるか、それがききたいのです。」
 「なるほど、ごもっともです。」
 朝倉先生は微笑《びしょう》してうなずいた。

 「今日、式場で、あんたは午後の懇談会《こんだいかい》で、
  あんたの考えをもっと委《くわ》しく話すといわれましたな。」
 「ええ、申しました。」
 「わしは、それを傍聴《ぼうちょう》さしてもらえば結構です。」

 「なるほど、よくわかりました。
  どうか、ご随意《ずいい》になすっていただきます。」
 来賓たちは、あとに気を残しながら、間もなく引きあげた。

 田沼《たぬま》理事裏もすぐあとを追って引きあげたが、立ちがけに荒田老の肩《かた》を軽くたたきながら、冗談《じょうだん》まじりに言った。
 「どうぞごゆっくり、私はお先に失礼します。
  あとは塾長まかせですが、塾長に何かまちがったことがありましたら、
  お叱《しか》りは私がうけますから、よろしく願いますよ。」
 荒田老は、それに対してはうんともすんとも答えず、腕を組んで木像のようにすわっているきりだった。

 そのあと、玄関で、塾長と理事長との間に小声でつぎのような問答がかわされたのを、次郎はきいた。
 「行事はいつもの通りにすすめていくつもりです。」
 「むろん。」
 「さけ得られる摩擦《まさつ》はなるだけさけたいと思っていますが……。」
 「そう。
  それはできるだけ。
  しかし、それも塾の方針があいまいにならない程度でないと……」

 「それは、いうまでもありません。」
 やがて午後の懇談会の時刻になった。
 合い図はすべて、事務室の前につるした板木《ばんぎ》――寺院などでよく見るような――を鳴らすことになっていたが、次郎がその前に立って木槌《きづち》をふるおうとしていると、荒田老の例の付き添いの男――鈴田《すずた》という姓《せい》だった――が、塾長室から急いで出て来てたずねた。

 「懇談会はどこでやるんです。」
 「さっき食事をした畳敷きの広間です。」
 「あ、そう。」
 と、鈴田はすぐに塾長室に引きかえした。
 そして、次郎がまだ板木を打っている間に、荒田老の手を引いて広間にはいって行った。
 次郎が板木を鳴らしおわって広間にはいったときには、荒田老はもう窓ぎわに、鈴田とならんでどっしりとすわりこんでいた。

 次郎が床《とこ》の間《ま》のほうを指さして、
 「どうぞこちらに。」
 というと、鈴田はだまって手を横にふり、ただ眼だけをぎらぎら光らした。
 やがて朝倉夫人が炊事場のほうから手をふきふきやって来て、しも手の入り口から中にはいった。

 ほとんど同時に、朝倉先生もかみ手のほうの入り口からはいって来た。
 二人は代わる代わる荒田老に上座《かみざ》になおってもらうようにすすめた。
 しかし老は、黒眼鏡を真正面に向けたまま黙々としてすわっており、鈴田は眼をぎらつかせて手を横にふるだけだった。

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