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名作を読みませんかコミュの次郎物語  下村湖人  144

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 次郎は少佐の言うことにも一理あるような気がしないでもなかった。
 とりわけ日本の使命とか理想とかいう言葉には、何かしら心がひかれ、その内容について、もっと説明してほしいという気もした。

 しかし、彼にとって何より大事なのは、人間の誠実だった。
 誠実な人間の思想だけが信するに足る思想だ。
 下劣な策略だけに終始している少佐のいうことに、何の権威《けんい》があろう。
 そう思って彼は相変らず少佐の顔を見つめたまま、默りこくっていた。

 少佐は、次郎がまだ少しも自分に気を許していない様子を見てとると、さすがにむかむかした。
 生意気な!
 という気持が胸をつきあげるようだった。
 サイダーや、羊かんや、西瓜が、運ばれたままちっとも手をつけられず、テーブルの上にならんでいるのを見ると、いよいよ腹が立った。

 しかし、腹を立ててしまっては、せっかく私宅にひっぱって来た甲斐がない。
 学校でならとにかく、私宅にまでひっぱって来て失敗したとあっては、配属将校の面目にもかかわる。
 それに、こういう頑固な生徒を改心させてこそ、思想善導の責任も十分果せるというものだ。
 そう思って彼はじっと腹の虫をおさえた。

 そして、強いて微笑しながらたずねた。
 「どうだい、わしの気持はわかるかね。」
 「わかります。
  それで、どんなことですか、先生が僕にききたいと仰しゃるのは。」

 次郎はもう面倒くさそうだった。
 「いや、大したことでもないさ。
  どうせ大たいわかっていることでもあるし、――」
 と、少佐はわざとのようにそっぽを向いて言ったが、

 「つまり、大事なのは君らの思想なんだ。
  それで、朝倉先生が最後にどんなことを君らに言われたか、それがききたいんだ。
  それをきいたうえで、なお君に話すことがあるかも知れんがね。」

 次郎はちょっと考えた。
 が、思いきったように、
 「これからは、良心の自由が守れないような悪い時代が来るから、
  しっかりするようにって言われたと思います。」

 「良心の自由が守れない?」
 「ええ、つまり時代に圧迫されたり、だまされたりして、
  誰もが自分の良心どおりに動けなくなるっていう意味だったと思います。」
 「ふむ。
  それで君はどう思う。」

 「ほんとうだと思います。
  朝倉先生は、うそは言われないんです。」
 「先生が言われたから、そのまま信じるというんだね。」
 「そうです。
  僕はりっぱな先生の言われることなら信じます。」

 「しかし――」
 と、少佐は何か意見を言おうとしたが、思いかえしたように、
 「まあいい。
  まあ、それはそれでいいとして、ほかに何か言われたことはないかね。」

 「要点はそれだけだったんです。」
 「満州事変については何も言われなかったんだね。」
 次郎はまたちょっと考えた。

 しかし、やはり思いきったように、
 「言われました。
  ああいう事件は、どうかすると、国民に麻酔薬をのまして、
  反省力をなくさせる危険がある、といったような意味だったと思います。」
 「そんなことを言われたのか。」

 「僕、はっきり言葉は覚えていないんです。」
 「しかし、大たいそんな意味だったんだね。」
 「そうだと思います。」
 「それについて君はどう思う?
  やはりその通りだと思うかね。」

 「思います。」
 「それも朝倉先生が言われたから信じるというんだな。」
 「そうです。」
 「ふうむ。
  それで、ゆうべ集まったのは幾人ぐらいだった?」

 「三十人ぐらいです。」
 「名まえもむろんわかっているだろうね。」
 「わかっています。」
 「あとでわしまでその名前を届けてくれないかね。」
 「そんな必要がありますか。」
 「ある。」
 「じゃあ、届けます。」

 二人の問答はもう何だか喧嘩腰だった。
 「ついでに、もう一つたずねるが、――」
 と、少佐は次郎の顔をにらみすえながら、
 「白鳥会は今後もつづけてやるつもりなのか。」
 「やるつもりです。」
 「朝倉先生がいられなくても?」

 「ええ、やります。
  朝倉先生もつづけてやるのを希望していられるんです。」
 「すると、これからはどこで集まるんだ。」
 「僕のうちで集まります。」
 「君のうちで?
  しかし、先生は?」

 「先生はなくてもいいんです。」
 「生徒だけで集まろうというんだね。」
 「そうです。」
 「そんなこと、君のお父さんに相談したのか。」
 「しました。」
 「許されたんだね。」

 「ええ、許しました。」
 「ふうむ、――」
 と、少佐はしばらく眼を伏せていたが、
 「いったい、どうして君のうちで集まることになったんだ。」
 「みんなで決めたんです。」
 「しかし誰かそれを言い出したものがあるだろう。」

 「言い出したのは朝倉先生です。」
 「朝倉先生が?
  それはゆうべのことか。
  それとも……」
 「ゆうべです。」
 「すると、その時、君のお父さんも、その場にいられたんだね。」
 「居りました。」
 「すぐ賛成されたのか。」

 「ええ、すぐ賛成しました。」
 「まえもって先生と相談されていたようなことはなかったかね。」
 「知りません。」
 「これからの集まりには、お父さんはどうされる?」
 「どうするか知りません。」
 「朝倉先生に代って、みんなを指導されるような話はなかったね。」
 「父にはそんなことは出来ないんです。」

 少佐はにやりと笑った。
 次郎は、その笑い顔を見ると、たまらなく腹が立って来た。
 彼はいきなり立ちあがって、
 「僕、もう帰ってもいいんですか。」
 少佐の笑顔はすぐ消えた。

 彼はじっと次郎を下から見あげていたが、また急に作り笑いをして、
 「いや、ありがとう。
  たずねることはもうほかにはない。
  しかし、君に忠告して置きたいことが一つ二つあるんだ。まあ、かけたまえ。」
 次郎はしぶしぶまた腰をおろした。

 少佐はひげをひねりはがら、眼をぱちぱちさせたあと、少しからだを乗り出して言った。
 「君は案外単純な人間だね。」
 次郎自身にとって、およそ単純という批評ほど不似合な批評はなかった。
 彼は、それを滑稽にも感じ、皮肉にも感じて、われ知らずうすら笑いした。

 「単純なのはいい。
  単純な人間は正直だからね。
  君のさっきからの答えぶりなんか、全く正直だった。
  その点で、わしはきょう君と話してよかったと思っている。
  しかし、単純も単純ぶりで、君はどうかすると怒りっぽくなる。
  それが君の一つのきずだ。
  気をつけるがいい。」
 少佐はそこでちょっと言葉をきって、次郎の顔をうかがった。

 次郎は、怒りっぽいという批評は必ずしも不当な批評でないという気がして、ちょっと眼をふせた。
 「しかし、怒りっぽいぐらいは、まあ大したことではない。
  それよりか、――これは今の場合、特に君にとって大切なことだと思うが、
  迷信家にならないように気をつけることだ。
  とかく、単純な人間は迷信に陥りやすいものだからね。」

 次郎にはまるでわけがわからなかった。
 少佐自身としては、そんな表現を用いたことが何か哲学者めいた、一世一代の思いつきのように思え、また、それがきっと次郎の急所をつくにちがいないと信じ、内心大得意でいたが、次郎にしてみると、迷信などという言葉は、あまりにも自分とは縁遠い言葉だったのである。

 二人はただ眼を見あっているだけだった。
 「わからんかね。」
 少佐がしばらくして言った。
 「わかりません。
  僕が迷信家になりそうだって仰しゃるんですか。」
 「そうだよ、もうすでに迷信家になっているんだよ。」

 「どうしてです。」
 「朝倉先生の言われたことだと、君は無条件に信じているんだろう。」
 今度は多少の手ごたえがあったらしかった。

 次郎はじっと考えた。
 しかし、間もなく彼はきっぱりと答えた。
 「信ずる価値のあるものを信ずるのは、迷信ではありません。」

 少佐は二の矢がつげなかった。
 しかしぐずぐずしているわけにはいかない。
 「価値のあるなしは、どうして決めるんだ。」
 「自分で決めます。」
 「すると朝倉先生が言われたから何もかも信ずる、というわけではないんだね。」
 「むろんです。
  自分で正しいと思うから信ずるんです。
  しかし、朝倉先生の言われたことで、これまで一度だって、
  まちがっていたと思った事はありません。」

 「それが迷信だよ。
  現にまちがっていたればこそ、この学校を去られることにもなったんではないかね。」
 「ちがいます。
  先生は権力《けんりょく》の迫害にあわれたんです。」
 「何?
  権力の迫害?」
 「そうです。
  迫害です。
  そしてその権力こそ迷信のかたまりです。」

 「本田!
  言葉をつつしめ!」
 「僕はあたりまえのことを言っているんです。
  先生こそつつしんで下さい。」
 「默れ!
  失敬な。」

 「僕は道理に服従します。
  おどかされても默りません。」
 二人はいつの間にか立ちあがっていた。
 「君は、いったい、秩序ということをわきまえているのか。」
 「わきまえています。」
 「わきまえていて、よくもそんな無礼なことが言えたな。」

 「道理に従うのが秩序です。
  無法な権力に屈しては秩序は守れません。」
 「何だと?
  すると君は、わしが無法な権力をふるっているとでも思っているのか。」

 「思っています。
  朝倉先生は正しかったんです。
  権力の迫害にあわれたんです。
  それは間違いのないことです。
  それを間違いだといっておさえつけるのは無法です。
  無法な権力です。」

 次郎は真青な顔をして、頬をふるわせていた。
 少佐の顔も青かった。
 彼は歯を食いしばって次郎をにらんでいたが、ふうっと一つ大きな息を吐き出すと、言った。
 「それほど強情を張るんでは、もう仕方がない。
  せっかく君のために計ってやるつもりだったが、わしもこれで手をひく。
  もう用はないから帰れ。」

 次郎はきちんとお辞儀をして部屋を出た。
 少佐は部屋につったったまま、そのうしろ姿を見おくった。
 玄関で、次郎が靴をはき終ってうしろをふりかえると、洋間と反対側の日本間の入口から、女の顔がのぞいていた。
 それはあざけるような眼をした少佐夫人の真白な顔だった。

 そとに出ると、彼の気持は案外おちついていた。言うべきことを憚《はばか》らず言った、というほこらしい気持にさえ彼はなっていた。
 急にのどの渇きを覚え、むしょうに水がのみたかった。
 彼は駅前に公共用の水道の蛇口があるのを思い出し、大急ぎでそこまで行きつくと、存分にのどをうるおした。

 そして、ほっとした気持になって帰途についたが、間もなくまた思い出されたのは、朝倉先生の険しい眼だった。
 それは不思議なほどあざやかに彼の眼に浮かんで来た。
 とびあがり者!

 そう考えた時に、彼は、駅の待合室で同じことを考えた時以上に、ぎくりとした。
 それは、ついさっき曾根少佐に対してとった自分の態度が、やはり飛びあがりものの態度ではなかったか、と思ったからである。

 彼は車中の朝倉先生を想像した。
 夫人と向きあって、相変らず険しい眼をしてじっと何か考えていられる。
 先生の眼には、もう永久に、あの澄んだ涼しい光はもどって来ない。
 そんなふうにさえ彼には思えるのだった。

 彼は歩く元気さえなくなり、土手にたどりつくと松かげの熊笹の上にごろりと身を横たえた。
 そしてじっと青空に眼をこらしたが、その青空からも、朝倉先生の険しい眼が彼を見つめていたのだった。

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