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名作を読みませんかコミュのジャン・クリストフ  ロマン・ロラン  227

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 二人の魂はいっしょに混和し合っていた。
 生の楽しみに身を投げ出して微笑《ほほえ》んでるグラチアの半睡状態は、クリストフの精神力に触れて覚めていった。

 彼女は精神上の事柄に対して、前よりいっそう直接な能動的な興味を覚えてきた。
 ほとんど書物を読まなかった彼女、と言うよりもむしろ、怠惰な愛着で同じ古い書物を際限もなく読み返していた彼女は、他の種々な思想に好奇心を感じ、やがてそのほうへひきつけられた。

 近代思想界の豊富さを彼女は知らないではなかったが、そこへ一人で踏み込んで行く気は少しもなかった。
 ところが今や自分を導いてくれる同伴者ができたので、もうその世界を恐《こわ》がりはしなかった。

 若いイタリーの偶像破壊者的熱情を長い間きらっていた彼女は、拒みながらもいつしか知らず知らずに、その若いイタリーを理解するところまで引き入れられてしまった。
 しかしこの魂の相互接触の恩恵は、ことに多くクリストフのためになった。

 人がしばしば見てとるとおり、愛においては弱い者のほうがより多く与える。
 それは強い者のほうが少なく愛するからではない。強いほどますます多く取ることを要するからである。

 かくてクリストフは、すでにオリヴィエの精神によって富まされていた。
 しかしこんどの新しい神秘な結合は、それよりもさらに豊饒《ほうじょう》であった。
 というのは、オリヴィエがかつて所有しなかったまれな宝を、喜悦を、グラチアは彼にもたらしたのだった。

 魂と眼との喜悦を、光明を。このラテンの空の微笑みは、ごく賤《いや》しいものの醜さをも包み込み、古い壁の石にも花を咲かせ、悲しみにさえもその静穏な光輝を伝えるのである。

 彼女の伴《とも》としてはちょうど初春があった。
 新生の夢が、よどんだなま温かい空気の中に醸《かも》されていた。
 若緑が銀灰色の橄欖樹《オリーヴ》と交じり合っていた。溝渠《こうきょ》の廃址《はいし》の赤黒い迫持《せりもち》の下には白巴旦杏《しろはたんきょう》が咲いていた。

 よみがえったローマ平野の中には、草の波と揚々たる罌粟《けし》の炎とがうねっていた。
 別墅《べっしょ》の芝生《しばふ》の上には、紫のアネモネの小川と菫《すみれ》の池とが流れていた。
 日傘《ひがさ》のような松のまわりには藤がからんでいた。そして都会の上を吹き過ぎる風は、パラチーノ丘の薔薇《ばら》の香りをもたらしていた。

 二人はいっしょに散歩した。
 彼女は幾時間も東洋婦人めいた惘然《ぼうぜん》さのうちに沈み込んでいたが、それから脱することを承諾したときには、まったく別人になっていた。

 彼女は歩くのを好んだ。
 背が高く足が長くて、丈夫なしなやかな体躯《たいく》の彼女は、プリマチキオのディアナの姿に似ていた。
 七〇〇年代の燦然《さんぜん》たるローマがピエモンテの野蛮の波に沈んでしまった、あの難破の残留物とも言うべき別墅の一つに、二人はもっとも多くやって行った。
 ことに彼らはマテイの別墅を好んでいた。
 それは古代ローマの岬《みさき》とも言うべきもので、寂然《じゃくねん》たるローマ平野の波の末がその足下で消えていた。

 二人はよく樫《かし》の並木道を歩いた。
 並木の奥深い丸天井の中には、はるかな青い丘陵が、美《うる》わしいアルバーノの山の続きが、鼓動してる心臓のように静かにふくらんでいた。

 ローマ人の夫婦墓が道に沿って並んでいて、その憂わしい顔と忠実な握手とを、木の葉がくれに示していた。
 二人は並木道のつきる所に、白い石棺を背にして、薔薇の青葉棚《だな》の下にすわった。前方には寂しい野が開けていた。

 深い平和だった。
 懶《ものう》さに息もたえだえになってるかのような泉が、ゆるやかに水をたれてささやいていた。

 二人は小声で話し合った。
 グラチアの眼は友の眼の上に信じきって注がれていた。
 クリストフは自分の生活や奮闘や過去の苦しみを語った。
 しかしそれらはもう悲しみの色を帯びてはしなかった。
 彼女のそばに彼女の視線の下にあると、すべてが単純で、すべてがあるべきとおりであった。

 彼女のほうでもまた話をした。
 彼は彼女の言ってることをほとんど耳にしなかった。
 しかし彼女の考えは一つとして彼に働きかけないものはなかった。

 彼は彼女の魂と結合していた。
 彼女の眼で物を見ていた。
 彼は至る所に彼女の眼を、深い火が燃えている彼女の静かな眼を見てとった。

 古代の彫像のこわれかけてる美しい顔の中にも、その黙々たる眼の謎《なぞ》の中にも、彼女の眼を見てとった。
 羊毛のような糸杉のまわりや、光線に貫かれてる黒い光った槲《かしわ》の木立の間に、情を含んで笑ってるローマの空の中にも、彼女の眼を見てとった。

 グラチアの眼を通して、ラテン芸術の意義が彼の心に泌《し》み込んできた。
 今まで彼はイタリーの作品には無関心でいた。
 この野蛮な理想主義者、ゲルマンの森からやって来た大熊《おおくま》は、蜜《みつ》のような美しい金色の大理石の快味を、まだ味わうことができなかった。

 ヴァチカン宮殿の古代像は明らさまに彼と相いれなかった。
 それらの間抜けた顔つき、あるいは柔弱なあるいは鈍重な釣《つ》り合い、平凡な丸っこい肉づき、それらのジトンや角闘者などに、彼は嫌悪《けんお》の念をいだいた。

 ようやくわずかな肖像彫刻に趣を見出したばかりだった。
 しかもそのモデルは彼になんらの興味をも起こさせなかった。
 また蒼白《あおじろ》い渋め顔のフィレンツェ人や、貧血で肺病質で様子振り悩ましげな、病弱な貴婦人、ラファエロ前派のヴィーナスにたいしても、彼はやはりに気むずかしかった。

 そして、シスチーナ礼拝堂の実例によって世に盛んになった、
 汗をかいてる赤ら顔の豪傑や闘技者などの動物的な愚鈍さは、彼には肉弾のように思われた。
 ただ一人ミケランジェロにたいしては、その悲壮な苦悶《くもん》や崇高な蔑視《べっし》や貞節な情熱の真摯《しんし》さなどのために、彼もひそかに敬意をいだいた。

 その青年らの謹厳な裸体、狩り出された獣のような荒くれた処女たち、悩める曙、子供に乳房《ちぶさ》をくわえられてる荒々しい眼つきのマドンナ、妻にもほしいような美しいリアなどを、彼はこの巨匠の愛と同じき純潔粗野な愛をもって愛した。

 けれども、この苦しんだ偉人の魂の中に彼が見出したのは、ただ自分の魂の拡大された反響にすぎなかった。

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