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名作を読みませんかコミュのジャン・クリストフ  ロマン・ロラン  226

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 クリストフの眼には涙が浮かんできた。

 「おうそんなことは、私は望みません。
  けっして望みません。
  あなたが私のせいで私のために苦しまれるくらいなら、
  むしろ私はどんな不幸にも甘んじます。」
 「あまり心を動かしなすってはいけません。
  ねえあなた、私はこんなことを申しながら、
  おそらく自分に媚《こ》びてるのかもしれませんもの。
  たぶん私は、自分をあなたの犠牲にするほど善良な女ではないかもしれません。」

 「それでけっこうです。」
 「でもこんどは、あなたのほうが私の犠牲になられるとしてみます。
  すると私はやはり自分で苦しむことになるでしょう。
  それごらんなさい、どちらにしたって解決がつかないではありませんか。
  今のままにしておきましょうよ。
  私たちの友情よりりっぱなものがありますでしょうか?」

 彼はやや苦々しげに微笑《ほほえ》みながら頭を振った。
 「ええそれで結局、あなたは十分私を愛していられないんです。」
 彼女もやや憂わしげにやさしい微笑を浮かべた。

 ちょっと溜《た》め息をついて言った。
 「そうかもしれません。
  あなたのおっしゃるのは道理《もっとも》です。
  私はもう若々しくはありません。
  私は疲れております。

  あなたのようにごく強い者でないと、生活に擦《す》り減らされるのです。
  ああ、時とすると、私はあなたをながめていて、
  十八、九歳の悪戯《いたずら》青年ででもあるような気がすることがあります。」

 「それはどうも!
  こんなに老《ふ》けた頭をし、こんなに皺《しわ》が寄り、
  こんなに萎《しな》びた色艶《つや》をしてるのに!」

 「あなたがお苦しみなすったこと、
  私と同じくらいに、おそらく私以上に、お苦しみなすったことは、
  私にもよくわかっております。
  それは私にも見てとられます。

  けれどあなたはときどき、青年のような眼で私をお見になります。
  そしてあなたから新しい生の泉が湧《わ》き出るのを、私は感ずるのです。
  私自身はもう枯れてしまっています。

  ああ、昔の熱情のことを考えてみますと!
  だれかが言いましたように、それはほんとにいい時でした。
  私は実に不幸でした!

  今では私はもう、不幸であるだけの力ももちません。
  ただ一筋の細い生命があるばかりです。
  あえて結婚をしてみるだけの勇気もありません。

  ああ、昔でしたら。
  昔でしたら!
  私の知ってるどなたかがちょっと合図をしてくだすっていたら!」

 「そしたら、そしたら、言ってください……。」
 「いいえ、無駄《むだ》ですわ。」
 「で、昔、もし私が……
  ああ!」
 「え、もしあなたが?
  そんなことを私は何も申しはしません。」

 「私にはわかっています。あなたは残酷です。」
 「ただ私は昔狂人でした、それだけのことですわ。」
 「それはなおひどい言葉です。」

 「ねえあなた。
  私はあなたを苦しめるようなことは一言も申せないんです。
  だからもう何にも申しますまい。」
 「でも、言ってください。
  何か言ってください。」

 「何を?」
 「何かいいことを。」
 彼女は笑った。
 「笑っちゃいけません。」

 「そしてあなたは、悲しんではいけません。」
 「どうして悲しんではいけないんでしょう?」
 「その理由がないんですもの、確かに。」

 「なぜです?」
 「あなたをたいへん愛してる女の友だちが一人いますから。」
 「ほんとうですか。」
 「私がそう申すのに、お信じなさらないのですか。」

 「それをも一度言ってください。」
 「そしたらもう悲しみなさいませんか。
  それでもう十分におなりになりますか。
  私たちの貴《とうと》い友情で満足できるようにおなりになりますか?」

 「そうせざるを得ません。」
 「ほんとに勝手な人ですこと!
  それであなたは私を愛してるとおっしゃるのですか?
  ほんとうは、あなたが私を愛してくださるよりも、
  もっと深く私はあなたを愛していると思いますわ。」

 「ああ、もしそうだったら!」
 彼はあまりに愛の利己心に駆られてそう言ったので、彼女は笑った。
 彼も笑った。
 彼はなお執拗《しつよう》に言った。
 「言ってください。」

 ちょっと、彼女は口をつぐみ、彼をながめ、それから突然、彼の顔に自分の顔を寄せて、接吻《せっぷん》した。
 いかにも不意のことだった。
 それは彼の心にひしと響いた。

 彼は彼女を両腕に抱きしめようとした。
 が彼女はもう離れていた。
 その客間の入り口に立っていて、彼女は彼をながめながら、口に指をあてて、「しッ!」と言った。

 そして姿を隠した。

 そのとき以来、彼はもう自分の愛を彼女に語らなかった。
 そして彼女との関係も前ほど窮屈ではなくなった。
 わざとらしい沈黙と押えかねた激情とが交互に起こってくる状態だったのが、今や単純なしみじみとした親しみとなった。

 それこそ腹蔵なき友情の恩恵である。
 もはや言外の意味を匂《にお》わせることもなく、幻影もなく恐れもなかった。
 二人はそれぞれ相手の心底を知っていた。

 クリストフが、癪《しゃく》にさわる無関係な連中の中でグラチアといっしょにいて、客間の常例たるつまらぬ事柄を彼女が彼らと話してるのを聞いて、いらいらしだしてくると、彼女はそれに気がつき、彼のほうをながめて微笑《ほほえ》んだ。

 それでもう十分だった。
 彼は自分たち二人がいっしょにいることを知った。
 そして心の中が和らいでいった。

 愛するものが自分の前にいると、人の想像力はその毒矢を奪われる。
 欲望の熱はさめる。
 愛するものを眼前に所有してるという清浄な楽しみのうちに、魂はうっとりと沈み込む。

 その上グラチアは、そのなごやかな性質の暗黙の魅力を、周囲の人々の上に光被していた。
 身振りや音調のあらゆる誇張は、それがたとい無意識的なものであっても、単純でなく美《うる》わしくない何かのように彼女の気を害した。
 そういうところから彼女はいつしかクリストフに影響を与えていった。

 自分の憤激に加えた轡《くつわ》を噛《か》みしめた後、彼はしだいにおのれを押えることができるようになり、いたずらな荒立ちに浪費されることがないだけにいっそう大きな力を、しだいに得てくるようになった。

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