ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

名作を読みませんかコミュの源氏物語  与謝野晶子・訳  87

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
 四月になった。
 衣がえの衣服、美しい夏の帳《とばり》などを入道は自家で調製した。
 よけいなことをするものであるとも源氏は思うのであるが、入道の思い上がった人品に対しては何とも言えなかった。

 京からも始終そうした品物が届けられるのである。
 のどかな初夏の夕月夜に海上が広く明るく見渡される所にいて、源氏はこれを二条の院の月夜の池のように思われた。

 恋しい紫の女王《にょおう》がいるはずでいてその人の影すらもない。
 ただ目の前にあるのは淡路《あわじ》の島であった。
 「泡《あわ》とはるかに見し月の」などと源氏は口ずさんでいた。


泡と見る淡路の島のあはれさへ残るくまなく澄める夜の月


 と歌ってから、源氏は久しく触れなかった琴を袋から出して、はかないふうに弾《ひ》いていた。

 惟光《これみつ》たちも源氏の心中を察して悲しんでいた。
 源氏は「広陵《こうりょう》」という曲を細やかに弾いているのであった。
 山手の家のほうへも松風と波の音に混じって聞こえてくる琴の音に若い女性たちは身にしむ思いを味わったことであろうと思われる。
 名手の弾く琴も何も聞き分けえられそうにない土地の老人たちも、思わず外へとび出して来て浜風を引き歩いた。

 入道も供養法を修していたが、中止することにして、急いで源氏の居間へ来た。
 「私は捨てた世の中がまた恋しくなるのではないかと思われますほど、
  あなた様の琴の音で昔が思い出されます。
  また死後に参りたいと願っております世界も、
  こんなのではないかという気もいたされる夜でございます」

 入道は泣く泣くほめたたえていた。
 源氏自身も心に、おりおりの宮中の音楽の催し、その時のだれの琴、だれの笛、歌手を勤めた人の歌いぶり、いろいろ時々につけて自身の芸のもてはやされたこと、帝をはじめとして音楽の天才として周囲から自身に尊敬の寄せられたことなどについての追憶がこもごも起こってきて、

 今日は見がたい他の人も、不運な自身の今も深く思えば夢のような気ばかりがして、深刻な愁《うれ》いを感じながら弾いているのであったから、すごい音楽といってよいものであった。

 老人は涙を流しながら、山手の家から琵琶《びわ》と十三絃《げん》の琴を取り寄せて、入道は琵琶法師然とした姿で、おもしろくて珍しい手を一つ二つ弾いた。
 十三絃を源氏の前に置くと源氏はそれも少し弾いた。

 また入道は敬服してしまった。
 あまり上手《じょうず》がする音楽でなくても場所場所で感じ深く思われることの多いものであるから、これははるかに広い月夜の海を前にして春秋の花紅葉《もみじ》の盛りに劣らないいろいろの木の若葉がそこここに盛り上がっていて、そのまた陰影の地に落ちたところなどに水鶏《くいな》が戸をたたく音に似た声で鳴いているのもおもしろい庭も控えたこうした所で、優秀な楽器に対していることに源氏は興味を覚えて、

 「この十三絃という物は、女が柔らかみをもってあまり定《き》まらないふうに弾いたのが、
  おもしろくていいのです」
 などと言っていた。
 源氏の意はただおおまかに女ということであったが、入道は訳もなくうれしい言葉を聞きつけたように、笑《え》みながら言う、

 「あなた様があそばす以上におもしろい音《ね》を出しうるものがどこにございましょう。
  私は延喜《えんぎ》の聖帝から伝わりまして三代目の芸を継いだ者でございますが、
  不運な私は俗界のこととともに音楽もいったんは捨ててしまったのでございましたが、

  憂鬱《ゆううつ》な気分になっております時などに時々弾いておりますのを、
  聞き覚えて弾きます子供が、どうしたのでございますか、
  私の祖父の親王によく似た音を出します。

  それは法師の僻耳《ひがみみ》で、松風の音をそう感じているのかもしれませんが、
  一度お聞きに入れたいものでございます」
 興奮して慄《ふる》えている入道は涙もこぼしているようである。

 「松風が邪魔《じゃま》をしそうな所で、よくそんなにお稽古《けいこ》ができたものですね、
  うらやましいことですよ」
 源氏は琴を前へ押しやりながらまた言葉を続けた。

 「不思議に昔から十三絃の琴には女の名手が多いようです。
  嵯峨《さが》帝のお伝えで女五《にょご》の宮《みや》が名人でおありになったそうですが、
  その芸の系統は取り立てて続いていると思われる人が見受けられない。

  現在の上手《じょうず》というのは、
  ただちょっとその場きりな巧みさだけしかないようですが、
  ほんとうの上手がこんな所に隠されているとはおもしろいことですね。
  ぜひお嬢さんのを聞かせていただきたいものです」

 「お聞きくださいますのに何の御遠慮もいることではございません。
  おそばへお召しになりましても済むことでございます。
  潯陽江《じんようこう》では商人のためにも名曲をかなでる人があったのでございますから。

  そのまた琵琶と申す物はやっかいなものでございまして、
  昔にもあまり琵琶の名人という者はなかったようでございますが、
  これも宅の娘はかなりすらすらと弾きこなします。
  品のよい手筋が見えるのでございます。

  どうしてその域に達しましたか。
  娘のそうした芸をただ荒い波の音が合奏してくるばかりの所へ置きますことは、
  私として悲しいことに違いございませんが、
  不快なことのあったりいたします節にはそれを聞いて心の慰めにいたすこともございます」

  音楽通の自信があるような入道の言葉を、源氏はおもしろく思って、今度は十三絃を入道に与えて弾かせた。
 実際入道は玄人《くろうと》らしく弾く。

 現代では聞けないような手も出てきた。
 弾く指の運びに唐風が多く混じっているのである。
 左手でおさえて出す音などはことに深く出される。

 ここは伊勢《いせ》の海ではないが「清き渚《なぎさ》に貝や拾はん」という催馬楽《さいばら》を美音の者に歌わせて、源氏自身も時々拍子を取り、声を添えることがあると、入道は琴を弾きながらそれをほめていた。

 珍しいふうに作られた菓子も席上に出て、人々には酒も勧められるのであったから、だれの旅愁も今夜は紛れてしまいそうであった。
 夜がふけて浜の風が涼しくなった。

 落ちようとする月が明るくなって、また静かな時に、入道は過去から現在までの身の上話をしだした。
 明石へ来たころに苦労のあったこと、出家を遂げた経路などを語る。
 娘のことも問わず語りにする。源氏はおかしくもあるが、さすがに身にしむ節《ふし》もあるのであった。

 「申し上げにくいことではございますが、あなた様が思いがけなくこの土地へ、
  仮にもせよ移っておいでになることになりましたのは、
  もしかいたしますと、長年の間老いた法師がお祈りいたしております神や仏が、
  憐《あわれ》みを一家におかけくださいまして、
  それでしばらくこの僻地《へきち》へあなた様がおいでになったのではないかと思われます。

  その理由は住吉の神をお頼み申すことになりまして十八年になるのでございます。
  女の子の小さい時から私は特別なお願いを起こしまして、
  毎年の春秋に子供を住吉へ参詣《さんけい》させることにいたしております。

  また昼夜に六回の仏前のお勤めをいたしますのにも自分の極楽往生はさしおいて、
  私はただこの子によい配偶者を与えたまえと祈っております。
  私自身は前生の因縁が悪くて、こんな地方人に成り下がっておりましても、
  親は大臣にもなった人でございます。

  自分はこの地位に甘んじていましても、
  子はまたこれに準じたほどの者にしかなれませんでは、
  孫、曾孫《そうそん》の末は何になることであろうと悲しんでおりましたが、
  この娘は小さい時から親に希望を持たせてくれました。

  どうかして京の貴人に娶《めと》っていただきたいと思います心から、
  私どもと同じ階級の者の間に反感を買い、敵を作りましたし、
  つらい目にもあわされましたが、私はそんなことを何とも思っておりません。

  命のある限りは微力でも親が保護をしよう、
  結婚をさせないままで親が死ねば海へでも身を投げてしまえと私は遺言がしてございます」
 などと書き尽くせないほどのことを泣く泣く言うのであった。

 源氏も涙ぐみながら聞いていた。
 「冤罪《えんざい》のために、思いも寄らぬ国へ漂泊《さまよ》って来ていますことを、
  前生に犯したどんな罪によってであるかとわからなく思っておりましたが、
  今晩のお話で考え合わせますと、深い因縁によってのことだったとはじめて気がつかれます。

  なぜ明瞭にわかっておいでになったあなたが早く言ってくださらなかったのでしょう。
  京を出ました時から私はもう無常の世が悲しくて、
  信仰のこと以外には何も思わずに時を送っていましたが、
  いつかそれが習慣になって、若い男らしい望みも何もなくなっておりました。

  今お話のようなお嬢さんのいられるということだけは聞いていましたが、
  罪人にされている私を不吉にお思いになるだろうと思いまして、
  希望もかけなかったのですが、それではお許しくださるのですね。
  心細い独《ひと》り住みの心が慰められることでしょう」
 などと源氏の言ってくれるのを入道は非常に喜んでいた。


ひとり寝は君も知りぬやつれづれと思ひあかしのうら寂しさを


 私はまた長い間口へ出してお願いすることができませんで悶々《もんもん》としておりました
 こう言うのに身は慄《ふる》わせているが、さすがに上品なところはあった。

 「寂しいと言ってもあなたはもう法師生活に慣れていらっしゃるのですから」
 それから、


旅衣うら悲しさにあかしかね草の枕《まくら》は夢も結ばず


 戯談《じょうだん》まじりに言う。

 源氏にはまた平生入道の知らない愛嬌《あいきょう》が見えた。
 入道はなおいろいろと娘について言っていたが、読者はうるさいであろうから省いておく。
 まちがって書けばいっそう非常識な入道に見えるであろうから。

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

名作を読みませんか 更新情報

名作を読みませんかのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング