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名作を読みませんかコミュのジャン・クリストフ  ロマン・ロラン  222

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 クリストフはアルプスの連山から出て、客車の片隅《かたすみ》にうとうとしながら、清らかな空と山腹に流れている光とを見たとき、あたかも夢をみてるような気がした。
 どんよりした空と薄暗い日の光とは山脈の彼方《かなた》に残されていた。

 その変化があまりに急激だったので、初め彼は喜びよりもさらに多くの驚きを感じた。
 しばらくたってからようやく、麻痺《まひ》していた彼の魂はしだいに弛《ゆる》んでき、彼を閉じ込めていた外皮は裂けてき、心は過去の影から脱してきた。

 その日が進むに従って、柔らかな光が彼を抱き包んだ。
 そして彼は今まで存在していたすべてのものの記憶を失って、うちながめることの喜びをむさぼるように味わった。

 ミラノの平野。
 産毛《うぶげ》の生《は》えたような水田を網目形に区切ってる青っぽい運河、その運河の中に映ってる日の光。
 褐色《かっしょく》の細葉を房々《ふさふさ》とつけ、捩《ねじ》れた面白い体躯《たいく》の痩《や》せたしなやかさを示してる、秋の樹木。橙《だいだい》色や金縁や淡碧《うすみどり》に縁取られた重畳してる線で、地平を取り囲みながら、柔らかな輝きを見せている雪のアルプス連山、ダ・ヴィンチ式の山々。

 アペニン山脈に落ちてくる夕闇《ゆうやみ》。ファランドルのように何度も繰り返し引きつづく律動《リズム》をもって、蜿蜒《えんえん》とつづいてる険しい小山を、曲がりくねって降りてゆく列車。

 そして突然、坂道の麓《ふもと》に、あたかも接吻《せっぷん》のように人を迎える、海の息吹《いぶ》きと橙樹《とうじゅ》の香。海、ラテンの海とその乳光色の光、そこには翼をたたんだ幾群もの小舟が、ゆったりと浮かんで眠っている。

 海岸の一漁村で汽車は止まったまま動かなかった。
 大雨のためにジェノヴァとピサとの間の隧道《すいどう》が崩壊した、ということが旅客らに伝えられた。

 どの列車もみな数時間遅延していた。
 クリストフはローマ直行の切符をもっていたが、他の乗客らの物議をかもしたその不運を、かえって非常に喜んだ。
 彼は歩廊《プラット・ホーム》に飛び降り、停車の時間を利用して、海の景色にひかされて出かけて行った。

 彼はすっかり海にひきつけられたので、一、二時間後に列車が汽笛を鳴らしてふたたび進行しだしたときには、小舟に乗っていて、列車が通り行くのを見ながら「御機嫌《ごきげん》よう!」と叫んでやった。
 輝かしい夜に、輝かしい海の上で、若い糸杉に縁取られた岬《みさき》に沿って、舟を漂わした。

 そして彼はその村に腰をすえて、たえず愉快に五日間を過ごした。
 長い断食を済ましてむさぼり食う人のようであった。
 飢えたすべての官能で輝いた光をむさぼり食った。

 光よ、世界の血液よ、人の眼や鼻や唇《くちびる》や皮膚のあらゆる毛穴から肉体の底まで滲《し》み込む、生の流れよ、パンよりもなおいっそう生命には必要な光よ――北方の覆面をぬいでる純潔な燃えたった真裸の汝《なんじ》を見る者は、どうして今まで汝を所有せずして生きることができたかをみずから怪しみ、もはや汝を欲望せずには生き得ないことを知るであろう。

 五日間クリストフは太陽に酔いしれた。
 五日間彼は自分が音楽家であることを忘れた。
 それは初めてのことだった。

 彼一身の音楽は光に変わっていた。
 空気と海と土地、太陽の交響曲《シンフォニー》。
 そしてこの管絃楽団を、イタリーはなんという先天的技能をもって使役し得てることぞ!

 他の国民はみな自然に従って彩《いろど》っている。
 イタリーは自然と協力している。太陽とともに彩っている。
 色彩の音楽。

 すべてが音楽であり、すべてが歌っている。
 金色の亀裂《きれつ》のある真赤《まっか》な往来の壁面、上方には縮れっ毛の二本の糸杉、周囲には紺碧《こんぺき》の空。

 青色の建物の正面の方へ赤壁の間を上っていってる、急な白い大理石の石段。
 杏子《あんず》色やシトロン色や仏手柑《ぶつしゅかん》色などさまざまの色で、橄欖樹《オリーヴ》の間に輝いてるそれらの家は、木の葉の中のみごとな果実のように見える。

 イタリーの幻覚は肉感的である。
 汁《しる》の多い芳しい果実を舌が喜ぶように、人の眼は色彩を喜ぶ。
 その新しい御馳走《ごちそう》の上へ、クリストフは貪婪《どんらん》な食欲で飛びついていった。

 これまで灰色の幻像にばかり限られていた禁欲生活の補いをつけた。
 運命のために息をふさがれていた彼の豊饒《ほうじょう》な性質は、これまで用いなかった享楽の力を突然意識しだした。

 その力は差し出された餌食《えじき》を奪い取った。
 芳香、色彩、人声や鐘や海の音楽、空気と光との快い愛撫。

 クリストフはもう何事をも考えなかった。
 法悦のうちに浸った。
 彼がそれから我に返るのは、出会う人々に自分の喜びを伝えんがためばかりだった。

 相手は雑多だった。
 皺《しわ》寄った鋭い眼をし、ヴェネチアの元老のような赤い縁無し帽をかぶってる、自分の船頭である老漁夫――激しい憎悪でくろずんでる獰猛《どうもう》なオセロ風の眼をぎょろつかせながらマカロニーを食べる、無感無情な人物である、唯一の会長者たるミラノ人――料理の盆を運ぶのに、ベルニニの描いた天使のように、首を傾《かし》げ腕や胴をねじらす、料理店の給仕――通行人に青枝付きの香橙《オレンジ》を差し出して路上で物乞《ものご》いをし、追従《ついしょう》的な流し目を使う、聖ヨハネみたいな少年。

 また、駅馬車の奥に頭を下にして寝そべりながら、鼻唄《はなうた》のいろんな端くれを不意に歌い出す馬車屋をも、彼はよく呼びかけた。
 カヴァレリア・ルスチカナを小声で歌ってる自分自身にふと気づいて驚いた。
 旅の目的はまったく忘れてしまっていた。
 早く目的地へ着いてグラチアに会いたいことも、すっかり忘れていた。

 そしてついにある日、なつかしい彼女の面影が浮かんできた。
 それを描き出したのは、往来で出会った一つの眼差《まなざし》だったか、荘重な歌うような一つの声の抑揚だったか、それを彼は覚えなかった。

 しかしそのときは、橄欖樹《オリーヴ》に覆《おお》われた四方の丘、濃い影と強い日光とにくっきり浮き出されてるアペニン連山の高い光った頂、香橙《オレンジ》の林、海の深い呼気など、周囲のすべてのものから、女の友のにこやかな顔が輝き出した。

 空気の無数の眼によって、彼女の眼は彼をながめていた。
 あたかも薔薇《ばら》の木から一輪の花が咲き出すように、彼女はその土地から咲き出していた。

 そこで彼は、ふたたびローマ行きの汽車に乗ってどこにも降りなかった。
 イタリーの追憶にも過去の芸術の都にもさらに興味がなかった。
 ローマでも、何にも見なかったし、何にも見ようとはしなかった。

 そして通りがかりに最初見てとったもの、無様式な新しい街衢《がいく》や四角な大建築などは、もっとローマを知りたいとの念を起こさせはしなかった。

 到着するとすぐに彼はグラチアのところへ行った。彼女は彼に尋ねた。
 「どこを通っていらしたんですか。ミラノやフィレンツェにお寄りになりましたか。」
 「いいえ。」と彼は言った。「寄ってどうするんです?」

 彼女は笑った。
 「面白い御返辞ですこと! ではローマをどうお思いになりますか。」
 「なんとも思いません。」と彼は言った。「まだ何にも見ていませんから。」
 「それでも……。」

 「何にも見なかったんです、記念の建物一つも。
  旅館からまっすぐにあなたのところへ来ましたから。」
 「ちょっと歩けばローマは見られますよ。
  あの正面の壁を御覧なさい。
  そこに当たってる光を見さえすればいいんですよ。」

 「私はあなただけを見てるんです。」と彼は言った。
 「ほんとにあなたはわからない人ですね、
  ご自分の考えしか見ていらっしゃらないんですね。
  そして何時《いつ》スイスをお発《た》ちになりましたの。」

 「一週間前です。」
 「では今まで何をしていらしたんですか。」
 「知りません。
  偶然海岸のある地に止まったんです。
  どういう所だか注意もしませんでした。
  一週間眠っていました。

  眼を開いたまま眠っていたんです。
  何を見たか自分でも知りません、何を夢みたか自分でも知りません。
  ただあなたのことを夢みたようです。
  たいへん愉快だったことを知っています。
  けれどいちばんいいことには、何もかも忘れました。」

 「ありがとう。」と彼女は言った。
 (彼はそれを耳に入れなかった。)
 「何もかも、」と彼は言いつづけた、
 「そのときあったことも、前にあったことも、すっかり忘れてしまいました。
  私はふたたび生き始めた新しい人間のようになっています。」

 「ほんとうにそうですわ。」と彼女はにこやかな眼で彼をながめながら言った。
 「この前お目にかかったときからすっかりお変わりなさいましたね。」
 彼もまた彼女をながめた。そして記憶の中の彼女とやはり異なってるように思った。

 けれども彼女は二か月前と変わってるのではなかった。
 ただ彼がまったく新しい眼で彼女を見てるのだった。
 彼方《かなた》スイスでは、昔のころの面影が、年若いグラチアの軽い影が、彼の眼と眼前の彼女との間に介在していた。

 ところが今では、北方の夢はイタリーの日の光に融《と》かされていた。
 彼は白日の光の中に、恋人の実際の魂と身体とを見た。

 パリーにとらわれてた野の仔山羊《こやぎ》とは、また、彼女の結婚後間もなくある晩出会ってやがて別れたおりの、聖ヨハネみたいな微笑《ほほえ》みをしてる若い女とは、彼女はいかに違ってたことだろう!
 ウンブリアの小さな娘から、美しいローマ婦人の花が咲きだしていた。

 真の色艶、堅固なる瑞々しき身体。
 その姿体は調和のとれた豊満さをそなえていた。
 その身体は高慢な懶《ものう》さに浸っていた。
 静安の天性が彼女を包んでいた。

 北方人の魂がけっしてよく知り得ないような、日の照り渡った静寂と揺《ゆる》ぎない観照とをむさぼる性質をそなえており、平和な生活を官能的に享楽する性質をそなえていた。

 彼女が昔どおりになお持ってたものは、ことにその大なる温良さであって、それが他のあらゆる感情の中にまで織り込まれていた。
 しかし彼女の晴れやかな微笑《ほほえ》みのうちには、新たないろんなものが読みとられた。

 ある憂鬱《ゆううつ》な寛大さ、多少の倦怠《けんたい》、一抹の皮肉、穏和な良識など。
 彼女は年齢のためにある冷静さを得ていて、心情の幻にとらわれることがなく、夢中になることがあまりなかった。

 そして彼女の愛情は、クリストフが押えかねてる情熱の激発にたいして、洞察《どうさつ》的な微笑を浮かべながらみずから警《いまし》めていた。
 それでもなお彼女は、弱々しい点もあり、日々の風向きに身を任せることもあり、一種の嬌態《きょうたい》を見せることもあった。

 彼女はその嬌態をみずからあざけってはいたが、強《し》いて捨て去ろうとはしなかった。
 事物にたいしてもまた自己にたいしても少しも逆らわなかった。
 きわめて温良でやや疲れた性質の中に、ごく穏やかな宿命観をもっていた。

 彼女は多くの訪問客を迎えていたし、客を選択することを――少なくとも表面上――あまりしなかった。
 しかし彼女の親しい人々は、たいてい同じ階級に属していて、同じ空気を呼吸し、同じ習慣にしつけられていたので、その社会はかなり同分子的な調和を形造っていて、クリストフがフランスで聞かされたものとはきわめて違っていた。

 その大部分は、外国人との結婚によって活気づけられてる、諸方の古いイタリー系統の者だった。
 彼らのうちには、表面的な超国境主義が支配していて、四つのおもな国語と西欧四大国民の智嚢《ちのう》とが安らかに混和していた。

 各民族がそれぞれ自分の割当を、ユダヤ人はその不安を、アングロ・サクソン人はその沈着を、そこにもち寄っていた。
 しかしすべては間もなくイタリーの坩堝《るつぼ》の中に溶かされていた。

 略奪者たる大貴族の跋扈《ばっこ》した幾世紀かが、一民族の中に、たとえば猛禽《もうきん》の倨傲《きょごう》貪欲《どんよく》な面影を刻み込むときには、その地金は変化することがあっても、印刻はそのまま残るものである。もっともイタリー的らしく見えるそれらの相貌《そうぼう》のあるもの、ルイーニ式の微笑、ティツィアーノ式の肉感的な平静な眼差《まなざし》、アドリア海やロンバルディア平原の花は、ラテンの古い土地に移し植えられた北方の灌木《かんぼく》の上に咲いているのだった。

 ローマの絵具板の上で溶かされた色はどんなものであろうと、それから出て来る色は常にローマの色である。

 クリストフは自分の印象を分析することができずに、多くは凡庸でありあるものは凡庸以下であるそれらの魂から発する、多年の教養と古い文明との香を、わけもなく感心してしまった。
 そのとらえがたい香はごく些々《ささ》たるものにつながれていた。

 懇切な優雅さ、意地悪と品位とを保ちながら愛想を見せることのできる、挙措《きょそ》のやさしさ、または、眼差や微笑や、機敏で呑気《のんき》で懐疑的で雑多で軽快である才知などの、高雅な繊細さ。困苦しいものや横柄なものは何もなかった。

 書物的なものは何もなかった。
 ここでは、鼻眼鏡越しに人を窺《うかが》うパリー客間の心理家や、ドイツの軍人万能主義の大先生などに、出会う恐れは少しもなかった。
 彼らは単に人間であり、きわめて人間的な人間であって、昔のテレンティウスやスキピオ・エミリアヌスなどの友人らと同じだった……。

 予は人なり

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