ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

名作を読みませんかコミュの源氏物語  与謝野晶子・訳  77

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
 出発前二、三日のことである。
 源氏はそっと左大臣家へ行った。
 簡単な網代車(あじろぐるま)で、女の乗っているようにして奥のほうへ寄っていることなども、近侍者には悲しい夢のようにばかり思われた。

 昔使っていた住居(すまい)のほうは源氏の目に寂しく荒れているような気がした。
 若君の乳母(めのと)たちとか、昔の夫人の侍女で今も残っている人たちとかが、源氏の来たのを珍しがって集まって来た。

 今日の不幸な源氏を見て、人生の認識のまだ十分できていない若い女房なども皆泣く。
 かわいい顔をした若君がふざけながら走って来た。
 「長く見ないでいても父を忘れないのだね」
 と言って、膝(ひざ)の上へ子をすわらせながらも源氏は悲しんでいた。

 左大臣がこちらへ来て源氏に逢(あ)った。
 「おひまな間に伺って、なんでもない昔の話ですが、
  お目にかかってしたくてなりませんでしたものの、

  病気のために御奉公もしないで、官庁へ出ずにいて、
  私人としては暢気(のんき)に人の交際もすると言われるようでは、
  それももうどうでもいいのですが、
  今の社会はそんなことででもなんらかの危害が加えられますから恐かったのでございます。

  あなたの御失脚を拝見して、私は長生きをしているから、
  こんな情けない世の中も見るのだと悲しいのでございます。
  末世です。
  天地をさかさまにしてもありうることでない現象でございます。
  何もかも私はいやになってしまいました」
 としおれながら言う大臣であった。

 「何事も皆前生の報いなのでしょうから、根本的にいえば自分の罪なのです。
  私のように官位を剥奪(はくだつ)されるほどのことでなくても、
  勅勘(ちょっかん)の者は普通人と同じように生活していることは、
  よろしくないとされるのはこの国ばかりのことでもありません。

  私などのは遠くへ追放するという条項もあるのですから、
  このまま京におりましてはなおなんらかの処罰を受けることと思われます。
  冤罪(えんざい)であるという自信を持って京に留まっていますことも、
  朝廷へ済まない気がしますし、今以上の厳罰にあわない先に、
  自分から遠隔の地へ移ったほうがいいと思ったのです」
 などと、こまごま源氏は語っていた。

 大臣は昔の話をして、院がどれだけ源氏を愛しておいでになったかと、その例を引いて、涙をおさえる直衣(のうし)の袖(そで)を顔から離すことができないのである。
 源氏も泣いていた。
 若君が無心に祖父と父の間を歩いて、二人に甘えることを楽しんでいるのに心が打たれるふうである。

 「亡(な)くなりました娘のことを、私は少しも忘れることができずに悲しんでおりましたが、
  今度の事によりまして、もしあれが生きておりましたなら、
  どんなに歎(なげ)くことであろうと、短命で死んで、
  この悪夢を見ずに済んだことではじめて慰めたのでございます。

  小さい方が老祖父母の中に残っておいでになって、
  りっぱな父君に接近されることのない月日の長かろうと思われますことが、
  私には何よりも最も悲しゅうございます。

  昔の時代には真実罪を犯した者も、これほどの扱いは受けなかったものです。
  宿命だと見るほかはありません。
  外国の朝廷にもずいぶんありますように冤罪にお当たりになったのでございます。

  しかし、それにしてもなんとか言い出す者があって、世間が騒ぎ出して、
  処罰はそれからのものですが、どうも訳がわかりません」
 大臣はいろいろな意見を述べた。

 三位(さんみ)中将も来て、酒が出たりなどして夜がふけたので源氏は泊まることにした。
 女房たちをその座敷に集めて話し合うのであったが、源氏の隠れた恋人である中納言の君が、人には言えない悲しみを一人でしている様子を源氏は哀れに思えてならないのである。

 皆が寝たあとに源氏は中納言を慰めてやろうとした。
 源氏の泊まった理由はそこにあったのである。
 翌朝は暗い間に源氏は帰ろうとした。

 明け方の月が美しくて、いろいろな春の花の木が皆盛りを失って、少しの花が若葉の蔭(かげ)に咲き残った庭に、淡く霧がかかって、花を包んだ霞(かすみ)がぼうとその中を白くしている美は、秋の夜の美よりも身にしむことが深い。隅(すみ)の欄干によりかかって、しばらく源氏は庭をながめていた。

 中納言の君は見送ろうとして妻戸をあけてすわっていた。
 「あなたとまた再会ができるかどうか。
  むずかしい気のすることだ。
  こんな運命になることを知らないで、逢えば逢うことのできた頃にのんきでいたのが残念だ」
 と源氏は言うのであったが、女は何も言わずに泣いているばかりである。

 若君の乳母(めのと)の宰相の君が使いになって、大臣夫人の宮の御挨拶(あいさつ)を伝えた。
 「お目にかかってお話も伺いたかったのですが、悲しみが先だちまして、
  どうしようもございませんでしたうちに、もうこんなに早くお出かけになるそうです。
  そうなさらないではならないことになっておりますことも、
  何という悲しいことでございましょう。
  哀れな人が眠りからさめますまでお待ちになりませんで」

 聞いていて源氏は、泣きながら、


鳥部(とりべ)山燃えし煙もまがふやと海人(あま)の塩焼く浦見にぞ行く


 これをお返事の詞(ことば)ともなく言っていた。

 「夜明けにする別れはみなこんなに悲しいものだろうか。
  あなた方は経験を持っていらっしゃるでしょう」
 「どんな時にも別れは悲しゅうございますが、
  今朝(けさ)の悲しゅうございますことは何にも比較ができると思えません」
 宰相の君の声は鼻声になっていて、言葉どおり深く悲しんでいるふうであった。

 「ぜひお話ししたく存じますこともあるのでございますが、
  さてそれも申し上げられませんで煩悶(はんもん)をしております心をお察しください。

  ただ今よく眠っております人に今朝また逢ってまいることは、
  私の旅の思い立ちを躊躇(ちゅうちょ)させることになるでございましょうから、
  冷酷であるでしょうがこのまままいります」
 と源氏は宮へ御挨拶(あいさつ)を返したのである。

 帰って行く源氏の姿を女房たちは皆のぞいていた。
 落ちようとする月が一段明るくなった光の中を、清艶(せいえん)な容姿で、物思いをしながら出て行く源氏を見ては、虎(とら)も狼(おおかみ)も泣かずにはいられないであろう。

 ましてこの人たちは源氏の少年時代から侍していたのであるから、言いようもなくこの別れを悲しく思ったのである。
 源氏の歌に対して宮のお返しになった歌は、


亡(な)き人の別れやいとど隔たらん煙となりし雲井ならでは


 というのである。

 今の悲しみに以前の死別の日の涙も添って流れる人たちばかりで、左大臣家は女のむせび泣きの声に満たされた。

 源氏が二条の院へ帰って見ると、ここでも女房は宵(よい)からずっと歎(なげ)き明かしたふうで、所々にかたまって世の成り行きを悲しんでいた。

 家職の詰め所を見ると、親しい侍臣は源氏について行くはずで、その用意と、家族たちとの別れを惜しむために各自が家のほうへ行っていてだれもいない。

 家職以外の者も始終集まって来ていたものであるが、訪(たず)ねて来ることは官辺の目が恐ろしくてだれもできないのである。
 これまで門前に多かった馬や車はもとより影もないのである。

 人生とはこんなに寂しいものであったのだと源氏は思った。
 食堂の大食卓なども使用する人数が少なくて、半分ほどは塵(ちり)を積もらせていた。
 畳は所々裏向けにしてあった。

 自分がいるうちにすでにこうである、まして去ってしまったあとの家はどんなに荒涼たるものになるだろうと源氏は思った。

 西の対(たい)へ行くと、格子(こうし)を宵のままおろさせないで、物思いをする夫人が夜通し起きていたあとであったから、縁側の所々に寝ていた童女などが、この時刻にやっと皆起き出して、夜の姿のままで往来するのも趣のあることであったが、
 気の弱くなっている源氏はこんな時にも、何年かの留守(るす)の間にはこうした人たちも散り散りにほかへ移って行ってしまうだろうと、そんなはずのないことまでも想像されて心細くなるのであった。

 源氏は夫人に、左大臣家を別れに訪(たず)ねて、夜がふけて一泊したことを言った。
 「それをあなたはほかの事に疑って、くやしがっていませんでしたか。
  もうわずかしかない私の京の時間だけは、
  せめてあなたといっしょにいたいと私は望んでいるのだけれど、

  いよいよ遠くへ行くことになると、
  ここにもかしこにも行っておかねばならない家が多いのですよ。
  人間はだれがいつ死ぬかもしれませんから、
  恨めしいなどと思わせたままになっては悪いと思うのですよ」

 「あなたのことがこうなった以外のくやしいことなどは私にない」
 とだけ言っている夫人の様子にも、他のだれよりも深い悲しみの見えるのを、源氏はもっともであると思った。

 父の親王は初めからこの女王(にょおう)に、手もとで育てておいでになる姫君ほどの深い愛を持っておいでにならなかったし、また現在では皇太后派をはばかって、よそよそしい態度をおとりになり、
 源氏の不幸も見舞いにおいでにならないのを、夫人は人聞きも恥ずかしいことであると思って、存在を知られないままでいたほうがかえってよかったとも悔やんでいた。

 継母である宮の夫人が、ある人に、
 「あの人が突然幸福な女になって出現したかと思うと、
  すぐにもうその夢は消えてしまうじゃないか。
  お母(かあ)さん、お祖母(ばあ)さん、今度は良人(おっと)という順に、
  だれにも短い縁よりない人らしい」

 と言った言葉を、宮のお邸(やしき)の事情をよく知っている人があって話したので、女王は情けなく恨めしく思って、こちらからも音信をしない絶交状態であって、そのほかにはだれ一人たよりになる人を持たない孤独の女王であった。

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

名作を読みませんか 更新情報

名作を読みませんかのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング