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名作を読みませんかコミュのはつ恋  ツルゲーネフ  13

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 十


 わたしの本当の責苦は、その瞬間から始まった。
 わたしは頭が痛くなるほど考えつめたり、思案を重ねたり、考え直したりしながら、勿論できるだけこっそりと、執念ぶかくジナイーダを見張っていた。

 彼女に或る変化が生じたことはもはや明白だった。
 彼女は一人で散歩に出かけて、長いこと歩き回っていた。
 時によると、客たちに顔を見せずに、何時間も自分の部屋に引っこもっていた。

 それまでは、ついぞなかったことである。
 わたしは突然、ひどく目が見えだした。
 少なくも、見えだしたような気がした。

 『あいつじゃないかしら? それとも、いっそあいつかな?』
 とわたしは、彼女の崇拝者の一人からまた一人へ、せわしなく思いを馳《は》せながら、胸の中で自問するのだった。

 なかんずくマレーフスキイ伯爵は、(もっとも、こんなことを認めるのは、ジナイーダのため心外の至りだったが)ほかの誰よりも危険人物のように、ひそかにわたしは思っていた。

 わたしの炯眼は、残念ながら自分の鼻の先までしか届かず、また折角のわたしの密計も、誰ひとり瞞しおおせることはできなかったらしい。
 少なくともドクトル・ルーシンは、じきにわたしの腹を見抜いた。

 とはいえ彼だって、近頃は様子が変って、めっきり痩せもしたし、相変らず笑い上戸ではあったものの、その笑い声は妙に鈍く、毒を含んで、短くなったし、平生の軽い皮肉や、とってつけたような冷笑癖は、我にもない神経質ないらだちに変っていた。

 「ねえ君、なんだってそうしょっちゅう、ここへやって来るんです」と彼は、ある日ザセーキン家の客間で二人きりになった時、わたしに言った。
 令嬢はまだ散歩から帰って来なかったし、夫人のがみがみ声が中二階でしていた。
 小間使と喧嘩していたのだ。

 「若いうちにせっせと勉強しとかにゃならんのに、どうしたことです?」
 「僕が家で勉強してるかどうか、あなたにはわからないでしょう」とわたしは、いささか高飛車に言い返したが、たじたじの気味もないことはなかった。

 「何が勉強なものですか?
  そんなこと、君の頭にありはしませんよ。
  だがまあ、これ以上何も言いますまい。

  君の年頃では、まあ無理もないからな。
  ただし君の見当は、大いに狂っているですよ。
  この家がどういう家か、それが君には見えんのですか?」

 「なんのことだか、わかりませんね」と、わたしは空とぼけた。
 「わからないって?
  そりゃますますいかん。
  僕は義務として、一言君に注意します。

  我々甲羅をへた独身ものは、ここへ来ても、さしつかえない。
  なんのことがあるものですか?
  我々は鍛錬ができてるからびくともしないです。

  ところが君は、まだ皮膚が弱い。
  ここの空気は、君には毒ですよ。
  ほんとですとも、うっかりすると伝染しますぞ?」

 「どうしてです?」
 「どうもこうもあったものですか。
  いったい君は、いま健康ですか?
  果してノーマルな状態にありますか?
  君がいま感じていることは、君のためになりますか、いいことですか?」

 「でも、僕が何を感じてるというんです?」と、わたしは言ったが、心の中では、なるほど医者の言う通りだと思った。
 「いやいや、君は若い、まだ若い」と医者は、さもこの二つの言葉の中に、わたしに対する何かひどく侮蔑的な感じが籠めてありでもするような、そんな言いぶりで言葉を続けた。

 「ごまかそうたって駄目ですよ。
  だってまだまだ、君の心にあることは、ちゃんと顔に出ているもの、ありがたいことにね。
  だがしかし、こんな話をしたって始まらない。
  第一この僕にしたって、こんな所へ来るはずはないんですよ。

  もしも……(医者は歯をくいしばった)……もしも、
  僕がこんな唐変木でなかったらね。
  ただ一つ、僕が不思議でならんのは、君のような頭のいい人が、
  自分のすぐそばで起っていることに、どうして気がつかないんだろうな?」

 「でも、何が起っているんです」と、わたしは素早く相手を受けて、すっかり緊張した。
 医者は、妙に嘲るような同情の色を浮べて、わたしをじろりと見た。

 「なるほど、僕も大したものだ」と彼は、ひとり言のように言った。
 「頗《すこぶ》るもって、この人の耳に入れとく必要のあることだて。
  まあ要するに」と、そこで声を高めて、

 「もう一遍言いますが、ここの雰囲気は君にはよくない。
  君はここで、いい気持になっているが、油断大敵ですぞ!
  そりゃ温室のなかだって、やはりいい匂いはするが、
  そこで暮すわけにはゆかんですからね。
  ねえ! 悪いことは言わないから、またあのカイダーノフ先生に戻りたまえ」

 公爵夫人が入って来て、歯が痛いと医者にこぼしだした。
 やがてジナイーダが現われた。
 「そうそう」と、夫人は言い足した。

 「ねえドクトル、この子を叱ってやって下さいな。
  一日じゅう、氷水ばかり飲んでいるんですよ。
  それが、体にいいことでしょうかねえ、胸が弱いくせに」

 「なぜ、そんなことをなさるんです?」と、ルーシンが訊いた。
 「やったら、どうなるとおっしゃるの?」
 「なんですって? 風邪を引いて、死ぬかもしれませんよ」
 「ほんと?
  まさか?
  でも、かまやしない。
  それが当然だわ!」

 「おやおや!」と、医者はうなった。
 夫人は出て行った。
 「おやおや」と、ジナイーダは口真似をして、
 「生きることが、そんなに面白いかしら?
  ぐるりを見回して御覧なさい。
  どう、よくって?

  それともあなたは、わたしがそれさえわからない、
  感の鈍い女だと思ってらっしゃるの?
  わたしは、氷水を飲むといい気持なの。
  だのにあなたはこんな人生が、束のまの満足のために、
  危険を冒してはならないほど大事なものだと、
  真顔でわたしに説教なさるおつもりね。
  わたし、もう幸福なんかどうでもいいの」

 「つまり、その」と、ルーシンが皮肉った。
 「気まぐれと自分勝手。
  この二語にあなたは尽きるんですな。
  あなたという人は、全部この二語のうちにありますよ」

 ジナイーダは、神経質に笑い出した。
 「証文の出しおくれよ、ドクトル先生。
  案外、目が利かないのねえ。
  だいぶ手おくれだわ。
  眼鏡でも、おかけになったら?

  わたし今、気まぐれどころじゃないの。
  あなた方をからかったり、自分を笑いものにしたり。
  そんなこと、何が面白いものですか!
  自分勝手だとおっしゃるけれど……ね、ヴォルデマールさん」

 と、そこで突然ジナイーダは方角を変えて、小さな足をトンと鳴らした。
 「そんな憂鬱な顔をしないでよ。
  わたし、人に同情されることなんか大嫌い」
 彼女は足早に出て行った。

 「君には毒だ。全く毒だよ、ここの空気は、ねえ君」と、またルーシンはわたしに言った。

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