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名作を読みませんかコミュのはつ恋  ツルゲーネフ  12

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 九


 わたしの「情熱」は、その日から始まった。
 忘れもしない、その時わたしは、初めて就職した人が感じるはずの、あの一種の気持と同じものを味わった。
 つまりわたしは、もはやただの子供でも少年でもなくて、恋する人になったのだ。

 今わたしは、その日からわたしの情熱が始まったと言ったが、も一つその上に、わたしの悩みもその日から始まったと、言い添えてもいいだろう。

 ジナイーダがいないと、わたしは気が滅入った。
 何ひとつ頭に浮んでこず、何ごとも手につかなかった。
 わたしは何日もぶっつづけに、明けても暮れても、しきりに彼女のことを思っていた。

 わたしは気が滅入った。
 とはいえ、彼女がいる時でも、別に気が楽になったわけではない。

 わたしは嫉妬したり、自分の小っぽけさ加減に愛想をつかしたり、馬鹿みたいにすねてみたり、馬鹿みたいに平つくばったり、そのくせ、どうにもならない引力で彼女の方へ引きつけられて、彼女の居間の敷居をまたぐ都度、わたしは思わず知らず、幸福のおののきに総身が震えるのだった。

 ジナイーダはすぐさま、わたしが彼女に恋していることを見抜いたし、わたしの方でも、別にそれを匿そうとも思わなかった。
 彼女は、わたしの情熱を面白がって、わたしをからかったり、甘やかしたり、いじめたりした。

 いったい、他人のために、その最大の喜びや、その底知れぬ悲しみの、唯一無二の源泉になったり、またはそれらの、絶対至上にして無責任な原因になったりするのは、快いものであるが、全く私は、ジナイーダの手にかかったが最後、まるでぐにゃぐにゃな蝋みたいなものだったのだ。

 とはいえ、何もわたしだけが、彼女に恋していたわけではなかった。
 彼女の家にやってくる男という男は、みんな彼女にのぼせあがっていたし、彼女の方では、それをみんな鎖につないで、自分の足もとに飼っていたわけなのだ。

 そうした男たちの胸に、あるいは希望を、あるいは不安を呼びおこしたり、こっちの気の向きよう一つで、彼らをきりきり舞いさせたりするのが(それを彼女は、人間のぶつけ合い、と呼んでいた)、彼女には面白くてならなかったのである。
 しかも男たちの方では、それに抗議を申し立てるどころか、喜んで彼女の言いなりになっていたのだ。

 溌剌として美しい彼女という人間のなかには、狡さと暢気さ、技巧と素朴、おとなしさとやんちゃさ、といったようなものが、一種特別な魅力ある混り合いをしていた。

 彼女の言うことなすこと、彼女の身ぶり物ごしのはしはしにも、微妙な、ふわふわした魅力が漂って、その隅々にまで、他人には真似のできぬ、ぴちぴちした力が溢れていた。

 彼女の顔つきも、しょっちゅう変って、やはりぴちぴちしていた。
 それはほとんど同時に、冷笑を表わしもすれば、物思いを表わしもし、情熱の表情にもなるのであった。
 まるで晴れた風のある日の雲の陰のように、軽いすばしこい色とりどりの情感が、絶えず彼女の眼や唇のほとりに、ちらついているのだった。

 彼女にとって、自分の崇拝者は誰もかれも、みんな入用な人物だった。
 ベロヴゾーロフは、彼女から時によっては、『わたしの猛獣さん』と呼ばれたり、時によっては簡単に、『わたしの』と呼ばれたりしていたが、彼女のためとあらば火の中へも飛び込みかねない男である。

 自分の頭の働きにも自信はなし、ほかにこれといった取柄もないとあきらめている彼は、しょっちゅう彼女に結婚を申込んで、ほかの男の言うことは、要するに空念仏に過ぎないと、ほのめかすのであった。

 マイダーノフは、彼女の魂のなかにある詩的な素質のお相手をつとめていた。
 ほとんどすべての文士の多分に漏れず、彼もかなり冷たい人間だったが、それでいて自分がジナイーダを崇拝しているものと、遮二無二相手に思い込ませようとしていたのみか、どうやら自分でも、そう思い込もうとしているらしかった。

 無尽蔵ともいうべき詩句に、彼女への讃美の情を託しては、それを、どこかしら不自然でもあれば真剣でもある感激をもって、彼女に朗読して聞かせる。

 彼女の方では、この男に共鳴する面もあり、いささかおひゃらかし気味でもあった。
 あまりこの男を信用していない彼女は、彼の真情の吐露もいい加減聞き飽きると、プーキシンを朗読させるのだった。それは、彼女の言い草に従えば、空気を清めるためだった。

 次にルーシンは、皮肉屋で、露骨な毒舌をふるう医者だが、彼女というものを一番よく見ており、また誰より深く彼女を愛してもいながら、そのくせ陰でも面前でも、彼女の悪口ばかり言っていた。

 彼女は、この男を尊敬してはいたものの、さりとて決して容赦はせず、時々、一種特別な、さも小気味よげな満足の面持で、彼だってやはり自分の手中にあるのだということを、彼に感づかせるように仕向けるのだった。

 「わたし、コケットなのよ。
  人情なんかないわ。まあ、役者向きの水性なんだわ」
 と、彼女はある日、わたしのいる前で、彼に言ったことがある。

 「あ、いいことがある!
  さ、手を出しなさい。ピンを突き刺してあげるから。
  するとあなたは、この坊ちゃんの手前恥ずかしいでしょうし、
  それに痛くもあるでしょう。
  でもね、あなたは笑って見せてちょうだい。
  いいこと、君子さん」

 ルーシンは赤くなって、顔をそむけ、唇をかみしめたが、結局その手を差出した。
 彼女がピンを突っ刺すと、まさしく彼は笑い出した。
 彼女も声を立てて笑いながら、そのピンをかなり深く刺しこんで、むなしくあちこち外らそうとする彼の眼を、じっと覗き込むのだった。……

 ジナイーダとマレーフスキイ伯爵の関係が、一番わたしにはわかりにくかった。
 なかなか美男子で、如才なく頭のはたらく男なのだが、しかし、ほんの十六歳の少年にすぎないわたしでさえ、この男には何かしら油断のならぬ、うさん臭いところがあるような気がした。

 しかもジナイーダが、それに気づいていないのが、わたしは不思議でならなかった。
 ひょっとすると彼女は、そのうさん臭さに気づいていながら、別にそれが厭でなかったのかもしれない。

 なにしろ教育も変則なら、つきあいや習慣も風変りだし、しょっちゅう母親はそばにいるし、家の内情は貧乏で乱脈だし、かてて加えて、若い娘の身で気まま勝手はしたい放題、それに、ぐるりの連中より一段も二段も上だという意識もあるしというわけで、そうした一切合財があわさって、彼女のうちに、一種こう人を小馬鹿にしたような無頓着さや投げやりな態度を、養ったのである。

 何事がもちあがろうが――よしんばヴォニファーチイが入って来て「砂糖がきれました」と言上に及ぼうが、何か忌わしい世間の陰口が耳に入ろうが、客の中で喧嘩が始まろうが、彼女はただ、豊かな捲髪を一振りして、「くだらない」と言うだけで、けろりとしていた。

 お陰でわたしは、全身の血がカッと燃え立つような思いをすることが、よくあった。
 たとえばマレーフスキイが、まるで狐みたいに狡そうに肩を揺すりながら、彼女のそばへ寄って行って、彼女の掛けている椅子の背に、伊達な格好をしてもたれかかり、さも得意げな、追従たらたらの薄笑いを浮べながら、彼女の耳に何かささやきだす。
 すると彼女は、両手を胸に組んで、まじまじと彼を見つめながら、やがて自分も微笑を浮べ、首を振ったりするのである。

 「あなたは、どこが好くて、マレーフスキイさんなんかを家へ入れるのです?」
 と、ある時わたしは彼女に訊いてみた。
 「だって、あの人の髭、すてきじゃなくて!」と、彼女は答えた。
 「でもそんなこと、あなたの知ったことじゃないわ」

 また別の時、彼女はわたしに、こう言ったことがあった。
 「わたしがあの人を愛してると、あなた思っているのじゃない?
  違うわ。
  わたし、こっちで上から見下ろさなくちゃならないような人は、好きになれないの。

  わたしの欲しいのは、向うでこっちを征服してくれるような人。
  でもね、そんな人にぶつかりっこはないわ、ありがたいことにね!
  わたし、誰の手にもひっかかりはしないわ、イイーだ」

 「すると、決して恋をしないというわけですね」
 「じゃ、あなたをどうするの?
  わたし、あなたを愛していなくって?」
 そう言うと彼女は、手袋の先で、わたしの鼻をたたいた。

 全くジナイーダは、さんざんわたしを慰み物にした。
 三週間の間、わたしは毎日彼女に会っていたが、その間に彼女がわたしに向ってやらなかったことは、何一つ、全く何一つなかった、と言っていいほどだ!

 彼女の方でわたしの家へ来ることは、あまりなかったが、それはわたしにとって痛事ではなかった。
 うちへ来ると、彼女はたちまち、令嬢、つまり公爵令嬢に、早変りしてしまうし、こっちでも彼女を敬遠していた。

 わたしは、母に見破られるのが怖かったのだ。
 母はジナイーダに頗る悪意をいだいて、まるで仇のようにわたしたちを見張っていた。

 父の方は、大して怖くなかった。
 父は、わたしには気がつかない様子だったし、彼女ともあまり話をしなかったが、いざ話す時には、何か特別に気の利いた、もっともらしい話しぶりをしていた。

 わたしは、勉強も読書もやめてしまった。
 郊外散歩や乗馬までも、やめてしまった。
 まるで足に糸をつけられたカブト虫みたいに、わたしはなつかしい傍屋のまわりを、絶えずぐるぐる回っていた。

 いいと言われれば、いつまでだってそこにいたはずだが……そうはいかなかった。
 母の小言もうるさいし、時には当のジナイーダから、追っ立てを食う始末だった。

 するとわたしは、自分の部屋へ引っこもるか、それとも庭のいちばん端まで行って、石造りの高い温室の崩れ残りへよじ登って、道路に面した壁から両足をぶらさげ、何時間も坐ったなりで、一心に眺《なが》めに眺めるのだったが、そのくせ何ひとつ目に入らなかった。

 わたしのそばには、埃をかぶったイラクサの上を、ものうげに白い蝶々が飛びかわしていた。
 元気な雀が一羽、少し先の、半ば割れた赤煉瓦の上に止って、絶えず全身をくるくる回し、尾をひろげて、癇にさわる鳴き声を立てていた。

 相変らず疑ぐりぶかい鴉の群れが、すっかり葉の落ちた白樺の高い高いてっぺんに止って、思い出したようにカアカア鳴いていた。
 太陽と風が、そのまばらな枝の間に、静かにたわむれていた。

 ドン修道院の鐘の音が、時おり、穏やかに陰気に響いてきた。
 わたしはじっと坐って、見つめたり聞き入ったりしているうちに、何かしら名状しがたい感じで、胸がいっぱいになるのだった。

 その中には、悲しみも、喜びも、未来の予感も、希望も、生の恐れも、何から何までが含まれていた。
 けれど当時のわたしは、そんなものは何一つわかりもせず、また、自分の中に沸々とたぎっているすべてのもののうち、どの一つだって、それと名ざすだけの力はなかったろう。
 いや、いっそ、その一切をあげて、ただ一つの名――ジナイーダという名でもって、呼んだかもしれない。

 ところがジナイーダは、猫が鼠をおもちゃにするように、相変らずわたしを弄んでいた。
 急にじゃれついてきて、わたしを興奮させたり、うっとりさせたかと思うと、こんどは手の裏を返すように、わたしを突っぱなして、彼女に近寄ることも、その顔を眺めることも、できないような羽目に落してしまう。

 忘れもしないが、彼女が二、三日ぶっ続けに、とても冷たい態度をわたしに見せたことがある。
 わたしはすっかり怖気づいて、こそこそ彼女たちの傍屋へ這いこんでは、なるべく老夫人のそばに、くっついているようにしたものである。

 しかも折りも折り、夫人はひどく怒りっぽくなっていて、がなり散らしてばかりいたのだ。
 というのは、何か手形の件がうまくゆかないので、もう二度も、区の署長さんと掛け合ったところだったのである。

 ある日、わたしが庭へ出て、例の垣根のそばを通りかかると、ジナイーダの姿が目にとまった。
 彼女は両手をわきについて、草の上に坐ったまま、身じろぎもせずにいる。

 わたしが、そっと遠ざかろうとすると、彼女はいきなり首を上げてさも命令するような合図をした。
 わたしは、その場に立ちすくんだ。
 どういうつもりなのか、一度では呑みこめなかったのだ。

 彼女は、もう一遍合図をした。
 わたしは、すぐさま垣根を飛びこえて、いそいそと彼女のそばへ駆け寄った。
 ところが彼女は、目でわたしを制して、彼女から二歩ほどのところにある小径を、指さして見せた。

 どうしたらいいのかわからず、当惑して、わたしは小径の縁にひざまずいた。
 見ると彼女の顔は真っ蒼で、なんとも言えず痛ましい悲哀と、深い疲れの色が、目鼻だちのくまぐまに刻まれているので、わたしは心臓が締めつけられるような気がして、思わずこう口走った。
 「どうかしたのですか?」

 ジナイーダは片手を伸ばして、何か草の葉をむしると、歯で噛んで、ぽいと向うへ投げた。
 「あなた、わたしがとても好き?」と、やがての果てに、彼女は訊いた。
 「そう?」

 わたしは、なんとも答えなかった。
 いまさら、なんの返事をすることがあろう。
 「そう」と、彼女はなおもわたしを見つめながら、繰返した。

 「そりゃ、そうだわね。まるで同じ眼だもの」そう言い足して、じっと考えこみ、両手で顔を隠した。
 やがて、「わたし、何もかも厭になった」とささやくように言った。

 「いっそ、世界の涯へ行ってしまいたい。
  こんなこと、こらえきれないわ、とてもやってゆけないわ。
  それに、行末はどうなるんだろう!
  ああ、つらい。
  ほんとに、つらい!」

 「なぜですか?」と、わたしは、おずおず尋《たず》ねた。
 ジナイーダは返事をせずに、ただ肩をすくめただけだった。
 わたしは膝をついたまま、すっかり悄気かえって、彼女を見まもっていた。

 彼女の一言一句は、鋭くわたしの胸に突き刺さった。
 わたしはその瞬間、もし彼女の悲しみが消えるものなら、喜んで命を投げ出しもしたろう。

 わたしは、彼女を見つめているうちに、なぜそう辛いのか合点がゆかぬながらも、それでいて、彼女がにわかに堪えがたい悲哀の発作に襲われて、庭へ出てきて、ばったり地面に倒れた有様を、まざまざと心に描いていた。

 あたりは青々と、光に満ちていた。
 風は木々の葉なみをそよがせ、時おり木苺の長い枝を、ジナイーダの頭上で揺すっていた。

 どこかで鳩が、ふくみ声で鳴き、蜜蜂《みつばち》はうなりながら、まばらな草の上を低く飛びかっていた。
 上には空が、優しく青みわたっているが、でもわたしは、なんとも言えずわびしかった。

 「何か、詩を読んでちょうだい」と、ジナイーダは小声で言って、片肘をついた。
 「わたし、あなたが詩を読むところが好きなの。
  あなたのは、まるで歌うみたいだけれど、それで結構よ、若々しくっていいわ。
  あの、『グルジヤの丘の上』を読んで。
  でも、まずお座りなさいな」

 わたしは腰を下ろして、『グルジヤの丘の上』訳注 プーシキンがカフカーズをさまよいながら、遠い恋人を思って作った抒情詩。
 その大意は、
 「グルジヤの丘の上、夜露かかり、アラグヴァの流れ、わが前にざわめく。
  われはわびしく楽しく、わが悲しみは明るし。
  わが悲しみは、ただひとり君の姿にみたされて、このわびごころ、
  何ものの乱し騒がすものもなし。
  かくて胸は、またも燃え、恋いわたる……愛さでやまぬ胸なれば。」を朗読した。

 「愛さでやまぬ胸なれば」とジナイーダは繰返した。
 「そこが、詩のいいところなのね。
  つまり、この世にないことを、言ってくれる。
  しかも、実際あるものより立派なばかりでなく、
  ずっと真実に近いことをまで、言ってくれるのだもの。

  愛さでやまぬ胸なれば。
  ほんとに、しまいと思っても、せずにはいられないんだわ!」

 彼女はまた黙り込んだが、突然ぶるんと身を震わして立ち上がって、
 「さ、行きましょう。
  お母さんのところに、マイダーノフが坐り込んでいるのよ。
  わたしにって、自分で作った叙事詩を持って来てくれたのに、
  ほっぽらかして来てしまったの。

  あの人も今頃は、きっと悄気てるわ。
  でも、仕方がないのよ!
  やがてあなただって、わかる時が来るわ。
  ただね、わたしのこと、怒らないでちょうだいね!」

 ジナイーダは、せかせかとわたしの手を握ると、先に立って駆け出した。
 二人は傍屋に帰った。

 マイダーノフは、やっと印刷になったばかりの自作の詩『人殺し』を朗読しだしたが、わたしはろくに聞いていなかった。
 彼は四脚の短長格を思いっきり声を引き引きがなり立てて、韻が入れかわり立ちかわり、まるで小鈴のような空ろで騒々しい音を立てたけれど、わたしはじっとジナイーダの顔を見たまま、彼女がついさっき言った言葉の意味を、しきりに考えていた。


さらずば、見知らぬ恋がたきが
にわかに君を 奪いゆきしや?


 と、いきなりマイダーノフが鼻声でわめいた時、わたしの眼とジナイーダの眼がぶつかった。
 彼女は伏眼になって、顔を赤らめた。
 彼女が赤くなったのを見ると、わたしはびっくりして、五体が冷えわたった。

 わたしは、もう前々から彼女のことで妬いていたのだが、じっさい彼女が誰かに恋しているという考えは、やっとこの瞬間、わたしの頭にひらめいたのである。
 『さあ大変だ! 彼女は恋をしている!』

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