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名作を読みませんかコミュのジャン・クリストフ  ロマン・ロラン  209

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 その日の晩――(謝肉祭肉食日の前の水曜日だった)――ブラウンは町から二十キロ離れた所に、診察に呼ばれていった。
 翌朝でなければ帰って来られなかった。

 アンナは夕食に降りて行かずに、自分の室に残った。
 誓っていた暗黙の約束を実行するのに、その夜を選んだのだった。
 けれども、クリストフへは何にも言わないで、一人で実行しようと決心した。
 彼女は彼を軽視していた。

 こう考えていた。
 「あの人は約束した。
  けれど、あの人は男で、利己主義で嘘《うそ》つきで、自分の芸術をもっているし、
  すぐに忘れてしまったろう。」

 それにまたおそらく、温情なんかはなさそうに見える彼女の激烈な心の中にも、友にたいする憐れみの情を起こす余地があったであろう。
 ただ彼女はあまりに粗剛であまりに熱烈だったから、それをみずから認めていなかったのである。

 ベービは、奥様からよろしく言ってくれと頼まれたことだの、奥様が少し加減が悪くて休息したがってることだのを、クリストフに言った。
 それでクリストフは、ベービの監視のもとに一人で夕食をした。

 ベービはその饒舌《じょうぜつ》で彼をうんざりさした。
 彼に口をきかせようとしていた。
 他人の誠意を信じやすいクリストフでさえ、ある疑念を起こしたほどの過度の熱心さで、アンナに味方して滔々《とうとう》と述べたてた。

 クリストフもちょうどその晩を利用して、アンナと決定的な話をつけるつもりだった。
 彼もこのうえ延ばすことはできなかった。
 あの悲しい日の夜明けにいっしょにした約束を、忘れてはいなかった。

 アンナから求められたそれを果たすつもりでいた。
 しかしそういう二重の死のばかばかしさを見てとっていた。
 それは何事をも解決しはしないし、その悲しみと不名誉とはブラウンの上に及んでくるに違いなかった。

 もっともよい方法は、二人がたがいに別れることであり、自分がも一度立ち去ってみる、少なくとも彼女と離れているだけの力があるならば、立ち去ってみることである、と彼は考えた。

 無益な試みをやってみたあとのこととて、それができるかは疑わしかった。
 しかし、もしも堪え得ない場合には、だれにも知れないようにして、一人で最後の手段に訴えるだけの隙《ひま》は常にある、と彼は考えた。

 彼は夕食のあとに、ちょっと逃げ出して、アンナの室へ上がって行きたかった。
 しかしベービは彼のそばを離れなかった。
 平素彼女は早めに仕事を終えるのだったが、その晩はいつまでも台所の後片付けを終えなかった。

 そしてクリストフがもう彼女からのがれたと思ってると、彼女はアンナの室に通じる廊下に、戸棚《とだな》をすえつけることを考え出した。

 クリストフは彼女がどっしりと腰掛に落ち着いてるのを見た。
 一晩じゅう動きそうもないのを悟った。彼女を積み重ねられた皿《さら》といっしょに投げ出したい気が、むらむらと起こってきて仕方なかった。

 しかし彼は我慢をした。
 奥様の様子はどうであるか、挨拶《あいさつ》をしに行くことはできまいか、それを見に行ってくれと願った。

 ベービはやって行き、もどってきて、意地悪い喜ばしさで彼を見守りながら、奥様の気分はよいほうであるが、眠りたいからだれも来てくれるなとのことだった、と言った。
 クリストフはむっといらだって、読書をしてみたが、それもできないで、自分の室に上がっていった。

 ベービは燈火が消えるまで窺《うかが》っていて、寝ずの番をしてやろうと誓いながら自分も室に上がっていった。
 家じゅうの物音が聞こえるように、扉《とびら》を半ば開いておくだけの注意までした。

 しかし悲しいかな彼女は、寝床にはいるとすぐに眠った。
 しかもその眠りは、夜が明けない限りは、雷が鳴ろうとまたいかに好奇心が強かろうと、なかなか覚《さ》めそうもないほど深いものだった。
 その眠りはだれにも知れずにはいなかった。
 鼾《いびき》の音が階下までも響いていた。

 クリストフはその耳馴《な》れた音を聞くと、アンナのところへやって行った。
 彼女に話をしなければならなかった。
 彼は一種の不安に駆られていた。
 扉のところまでいってその把手《とって》を回した。
 扉は締めきってあった。

 彼は静かにたたいた。
 返辞がなかった。
 彼は錠前に口を押し当てて、低い声で頼み、つぎにはしつこく頼んだ。

 なんの動きもなければ、なんの音もしなかった。
 アンナは眠ってるのだといくら考えても、ある心痛にとらえられた。
 そして中の様子を聞き取ろうといたずらにつとめながら、扉《とびら》に頬《ほお》をつけていると、敷居のところから漏れてくるらしいある臭気に打たれた。

 彼は身をかがめてそれを嗅《か》ぎ分けた。
 ガスの臭《にお》いだった。
 彼の血はぞっと凍った。
 ベービの眼を覚《さ》ますかもしれないことなんかは考えもしないで、扉を揺《ゆ》すぶってみた。が扉はびくともしなかった。

 彼はそれと悟った。
 アンナは居室につづいてる化粧室に、小さなガス暖炉をもっていた。
 その口を開け放したのだった。
 もう扉を打ち破らなければならなかったけれど、クリストフはその惑乱のうちにも理性を失わないで、どんなことがあってもベービに聞かれてはいけないということを思い出した。

 彼は無言のうちに、扉の一方を力をこめて押してみた。
 扉は丈夫でよく締まっていて、肱金《ひじがね》の上に軋《きし》っただけで、少しも動かなかった。

 他にも一つ扉が、アンナの室とブラウンの書斎との間にあった。
 彼はそこに駆けていった。
 その扉も同じく締っていた。

 しかしその錠前は外側についていた。
 彼はそれをもぎ取ろうと企てた。
 それは容易なことではなかった。
 木にうちつけてある四つの太い捻釘《ねじくぎ》を引き抜かねばならなかった。

 彼はただナイフをしかもっていなかった。
 そして何にも見えなかった。
 というのは、蝋燭《ろうそく》の火をともしかねた。
 火をともせば、室じゅうを爆発させる恐れがあった。

 彼は手探りで、一本の捻釘の頭にナイフを差し込むことができ、つぎにも一本の頭に差し込むことができたが、ナイフの刃は欠けるし自分は怪我《けが》をした。
 捻釘がばかばかしく長いように思われ、いつまでたっても引き抜けそうになかった。

 そして同時に、冷たい汗が全身に流れるほどの気忙《きぜわ》しないいらだちのうちに、幼時の思い出が一つ頭に浮かんだ。
 十歳のころ、罰としてまっ暗な室に閉じこめられたときのことを思い出した。
 彼はその錠前をはずして家から逃げ出したのだった。

 ついに最後の捻釘が取れた。
 錠前がはずれて鋸屑《おがくず》がばらばらと落ちた。
 クリストフは室の中に駆け込み、窓に駆け寄ってそれを開いた。

 冷たい空気がどっと流れ込んできた。
 クリストフは家具につまずきながら、暗闇《くらやみ》の中に寝台を見つけ出し、手探りでアンナの身体を探りあて、その動かない足を震える手で毛布越しにさわり、胴体まで及ぼしていった。

 アンナは寝床の上にすわって震えていた。
 窒息の初めの徴候を感ずるだけの隙《ひま》もなかったのである。
 室は天井が高かった。よく合わさらない窓や扉《とびら》の隙間《すきま》から空気が通っていた。

 クリストフは彼女を両腕に抱いた。
 彼女は激しく身を引き離しながら叫んだ。
 「あっちへ行ってください!
  ああ、あなたは何をしたんです?」

 彼女は彼を打った。
 しかし激情にくじけて、枕の《まくら》上に倒れ伏した。
 そしてすすり泣いた。

 「おお、また今までどおりのことが!」
 クリストフは彼女の両手を執りながら彼女を抱擁し、彼女を叱《しか》り、やさしいまた手荒い言葉を言ってやった。

 「死ぬんですか! 私を打ち捨てて。一人で死ぬんですか!」
 「あああなたは!」と彼女は痛ましげに言った。
 その調子には、こういう意味が十分こもっていた。

 「あなたは、あなたは生きるのが望みです。」
 彼はきびしい言葉を発して彼女の意志をくじいてやりたかった。
 「馬鹿な真似《まね》をしますね!」と彼は言った。
 「家を爆発させるかもしれないのが、わからないんですか。」

 「それが私の望みです。」と彼女は憤然として言った。
 彼は彼女の宗教上の恐れを呼び覚《さ》まそうとした。
 それは急所だった。
 彼がそこに触れるや否や、彼女は泣き声を立てて言ってくれるなと願った。

 彼は彼女のうちに生きる意志を呼びもどす唯一の方法であると考えて、なお無慈悲に言いつづけた。
 彼女はもうなんとも言わないで、痙攣《けいれん》を起こしたようにしゃくり上げていた。

 彼が言い終えると、彼女は恨みをこめた調子で言った。
 「もうそれで御満足でしょう。
  たいへん骨折ってくだすって、私をすっかり絶望さしておしまいなすった。
  そしてこれから、私はどうしたらいいんでしょう?」
 「生きるんです。」と彼は言った。

 「生きるんですって!」と彼女は叫んだ。
 「生きることはとてもできないのが、おわかりにならないんですか。
  何にも御存じないんですね。
  何にも御存じないんです!」

 彼は尋ねた。
 「何かあったんですか。」
 彼女は肩をそびやかした。
 「こうなんです。」
 彼女は短い切れ切れの言葉で、今まで彼に隠していたことをすっかり話した。

 ベービの間諜《かんちょう》、灰、ザーミとの場面、謝肉祭、さし迫ってる恥辱。
 彼女はそんなことを話しながら、恐怖のあまり自分でこしらえ出した事柄と、当然恐るべき事柄とを、もう見分けがつかなかった。

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