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名作を読みませんかコミュのはつ恋  ツルゲーネフ  8

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 五


 公爵夫人は約束通り母を訪ねて来たが、母の気に入らなかった。

 わたしは二人の会見の場に居あわさなかったけれど夕食の時母が父に物語った言葉によると、あのザセーキナという公爵夫人は、どうもひどく俗っぽい女《ファム・トレ・ヴュルゲール》らしく思われる。

 あの夫人は、どうぞ自分のためにセルギイ公爵に運動してくれとしつこくせがんで、ほとほと母をうんざりさせた。

 あの夫人はしょっちゅう何かしら訴訟や事件を起こしていて――それも卑しい金銭問題《ド・ヴィレーン・ザフエール・ダルジャン》なのだから――てっきりとんでもない食わせ者に違いない、といった散々の評判だった。

 それでいながら母は、あの夫人を娘さんと一緒に明日の夕食に招いた、と言い足した。
 (この『娘さんと一緒』という言葉を耳にすると、わたしは鼻を皿の中へ突っ込まんばかりにした)

 とにかくあの夫人は隣どうしではあり、名のある人でもあるから、というのが理由だった。

 これに対して父は母に、今やっとあの奥さんがどういう人かを思い出したと告げた。
 それによると父は若い頃、今は亡いザセーキン公爵を知っていた。
 立派な教育はあったけれど、薄っぺらな下らん男で、パリに長らく行っていたため、『パリっ児《パリジャン》』と呼ばれていた。

 彼は大層金持だったが、カルタで全財産をすってしまい――どういうわけだか、まあ金が目当てだったらしくも思えるが――とは言え選びさえすれば、もっといい相手はあったのに(と父は言い足して、冷たい微笑を漏らした)――どこかの下役人の娘と結婚して、その結婚ののち、投機に手を出して、今度は完全に破産してしまった。

 「どうぞあの夫人が、お金を貸してくれなどと言い出さなけりゃいいが」と、母はすかさず言った。
 「それも大いにあり得ることだね」と、父は平然として言った。

 「あの奥さん、フランス語を話すかね?」
 「それが成っていないの」
 「ふん。まあ、そんなことはどうでもいい。
  君は今、あの人の娘さんも招待したとか言ったね。
  誰かが言っていたっけが、とても可愛《かわい》らしい、
  教育のある娘だそうじゃないか」

 「へえ! じゃその娘さん、お母さんに似なかったわけですのね」
 「父親にもね」と、父は応じて、――「あの男は教育こそあったが、しかし頭がなかったよ」
 母はほっと溜息をついて、考え込んでしまった。
 父も黙ってしまった。
 わたしはこの会話の間じゅう、ひどく照れくさかった。

 夕食が済むと、わたしは庭へ出て行ったが、鉄砲は持たなかった。
 わたしは、『ザセーキン家の庭』へは近寄るまいと心に誓ったつもりだったが、うち勝ちがたい力に引かされて、ふらふらその方へ足が向いて――しかもそれが、無駄ではなかった。

 わたしが垣根のそばまで行くか行かないうちに、ジナイーダの姿が眼に入ったのだ。
 今度は彼女一人だった。
 両手で小さな本をささえて、ゆっくり小径を歩いていた。
 向うはわたしに気づかなかった。

 わたしはあやうくやり過ごしそうになったが、はっと気がついて、咳払いをした。
 彼女は振向いたが、立ち止りもしないで、まるい麦わら帽子についている幅の広い水色のリボンを、片手で払いのけると、ちらとわたしに眼をそそぎ、軽くほほえんだなり、またもや眼を本へ落してしまった。

 わたしは庇のついた帽子を脱いで、しばらくその場で迷っていたが、やがて重い物思いに沈みながら、そこを離れた。

 『あのひとにとって、わたしはなんだろう《ク・スュイ・ジュ・プール・エル》?」とわたしは、(どうした風の吹《ふ》きまわしか)フランス語で考えた。

 聞き覚えのある足音が、後ろで響いた。
 振返ってみると――こっちへ、例の速い軽快な足どりでやってくるのは、父だった。

 「あれが公爵令嬢かね?」と、父が尋ねた。
 「お嬢さんです」
 「はて、お前あの人を知ってるのかい?」
 「けさ公爵夫人の所で会ったんです」

 父は立ち止ったが、急に踵でくるりと回ると、とって返して行った。
 そして、垣根越しにジナイーダと肩を並べる辺まで行くと、父は丁寧に彼女に会釈をした。

 彼女も会釈を返したが、幾分びっくりしたような色を顔に浮べて、本を下へおろした。
 父の後ろ姿を見送っている彼女の様子が、わたしには見えた。
 わたしの父の服装はいつも、とてもりゅうとして、独特の味があって、しかもさっぱりしたものだった。
 けれどこの時ほど父の姿がわたしに、すらりと格好よく見えたこともなかったし、その灰色の帽子が、こころもち薄くなりかけた捲毛の上に、すっきり合って見えたこともなかった。

 わたしはジナイーダの方へ行こうとしたが、彼女はわたしには眼もくれず、また本を上へあげると、向うへ行ってしまった。

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