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名作を読みませんかコミュの次郎物語  下村湖人  101

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    二 父と子

 相談はとうとうはっきりした結末がつかないままで終ってしまった。
 平尾は、自分は総務の一人として、他の総務ともよく相談したうえ、あす校友会の委員全部に集まってもらってこの問題を提案したい、それまでは何ごともおたがいの間だけで決定するわけにはいかない、と主張し出したのである。

 次郎も、新賀も、梅本もそれには正面から反対も出来ず、平尾の肚を見すかしながらも承知するよりほかなかった。
 馬田はにやにや笑って次郎の顔を横目で見ながら、「それがほんとうだよ。」と言い、大山はその満月のような顔をよごれた手拭でゆるゆるとふきながら、「それもよかろうな」と言った。

 それでみんなは間もなく帰って行ったが、そのあと、次郎はすぐ畑に出た。
 なかば行きがかりからではあったが、血書のことを言い出してしまったのが、かえって彼の心をおちつかせ、自分だけはもう何もかもきまってしまったような気持に彼はなっていたのだった。

 畑には、めずらしく俊三が出ていた。
 次郎を見ると、
 「もうみんな帰った?
  どうきまったんだい?」
 「どうもきまらないよ。
  あす委員が全部集まってからきめるんだ。」
 「なあんだ、あいつら、わざわざここまでやって来て、そんなことか。」

 二人が話していると、鶏舎の方から、もうとうに帰っていたはずの道江が走って来た。
 そして息をはずませながら、俊三とおなじことを次郎にたずねた。
 「道江さんには関係ないことだよ。」
 次郎はそっけなく答えて、草をむしりはじめた。

 さっき階段をのぼって来て、だしぬけに道江に話しかけた馬田の顔が、この時、ふしぎなほどはっきり彼の眼にうかんで来たのだった。

 「ひどいわ。」
 次郎は道江のしょげたような視線を感じた。
 しかし、答えない。

 すると俊三が、
 「あす、校友会の委員が集ってきめるんだってさ。」
 「そう?」
 と、道江はいくらか安心したように、

 「あたし、次郎さんがひとりで主謀者みたいになるんじゃないかと思って、心配していたわ。」
 俊三は「ぷっ」と軽蔑するように笑い、横をむいて苦笑した。
 道江は、二人がまじめに自分を相手にしてくれそうにないので、さすがに腹を立てたらしく、彼女にしてはめずらしく蓮っ葉に、
 「さいなら!」
 と言うと、そのまま、おもやの方にも行かず、表に出て行ってしまった。

 次郎は、あとを追いかけて、彼女と馬田との関係を問いただしてみたいような衝動を感じながら、草をむしっていたが、彼女のすがたが見えなくなると、
 「もう誰かにしゃべったんじゃないかね。」
 「何をさ?」
 俊三はとぼけたような顔をしている。

 「留任運動の話さ。」
 「留任運動をやるってこと、道江さんにも、もう話したんかい。」
 「うむ……」

 次郎はまごついた。
 俊三は、かまわず、
 「話したんなら、しゃべったってしようがないよ。
  さっき鶏舎で母さんに何かこそこそ言っていたが、その話かも知れないね。」
 次郎はやけに草を引きぬき、旱天つづきでぼさぼさした畑の土を、あたりの青い菜っ葉にまきちらした。

 それは、道江や、馬田や、自分自身に対する腹立たしさからばかりではなかった。
 道江をまるで眼中においてない俊三の態度が、変に彼の気持をいらだたせたのである。
 しかし、夕方になって風呂にひたった時には、彼はもう何もかも忘れて、一途に血書のことばかり考えていた。

 湯ぶねのふちに頭をもたせて、見るともなく眼のまえの棚を見ていた彼は、ふと、その上に、父の俊亮がいつも使う西洋かみそりがのっているのに眼をとめた。
 彼は、めずらしいものでも見つけたように、いそいで湯ぶねを出てそれを手にとった。
 そしてその刃をひらいて、しばらくじっと見入っていたが、やがて指先で用心ぶかくそれをなでると、またそっともとのところに置き、何か安心したようにからだをこすりはじめた。

 夕飯をすましてからの彼は、門先をぶらぶら歩きまわったり、二階の自分の机のそばに坐りこんだりして、はた目には何かおちつかないふうに見えたが、頭の中では、血書の文句をねるのに夢中だった。

 簡潔で、気品があり、しかも強い感情のこもった表現がほしい。
 しかし、それが詩になってしまってはいけない。
 世間普通の人にも、すらすらと受けいれられるような文句でなければならないのだ。
 そう思うと、詩を作るになれた彼の頭は行きつもどりつするのだった。

 そのために、彼は、お芳が台所のあとかたづけを、めずらしく女中のお金ちゃんだけに任して、いそいで大巻をたずねたのも、そのあと間もなく徹太郎がやって来て、俊亮と座敷の縁で何か話しこんでいたのも、まるで知らないでいたほどだったのである。

 彼が、どうやら自分で満足するような文句をまとめあげたのは、もう真暗になった門先をぶらついていた時だった。
 彼は、それをノートに書きしるすために、いそいで家にはいり、階段をのぼりかけたが、その時はじめて徹太郎の来ているのに気がつき、思わず立ちどまって耳をすました。

 「時勢が時勢でないと、こんなことはむしろ美しいことですがね。」
 徹太郎の声である。話はもう大よそすんだらしい口ぶりである。
 「次郎がどこまで考えてそんなことをやろうとしているのか、とにかく、あとで私からよくききただしてみることにしましょう。」
 「ええ、そうなすった方がいいと思います。
  ほっておいて世間をさわがすようなことになっても、つまりませんからね。
  じゃ失礼します。」

 次郎はいそいで階段を上りながら、徹太郎叔父も、学校の先生だけあって、やはりこんな場合には事なかれ主義らしい、という気がして、ちょっとさびしかった。
 道江がお芳か姉の敏子(徹太郎の妻)かにしゃべったのはもうたしかであり、そのあまりなたよりなさには、むかむかと腹も立った。

 俊三はもうその時には蚊帳のなかでいびきをかいていた。
 次郎には、なぜか、俊三がにくらしくもあわれにも思えた。
 そして、机によりかかってじっといびきに耳をかたむけるうちに、子供のころの自分の生活に、よかれあしかれ、あんなにも探いかゝわりをもっていた肉親のひとりが、今はまったく別の世界に住んでいる。
 人間というものは、年月がたつにつれ、こうして次第にわかれわかれになって行くものだろうか、などと考えて、変な気持になって行った。

 しかしノートをひらいて血書の文句を書き出した時には、彼はもう一途な力強い感情におされて、徹太郎のことも、道江のことも、俊三のことも忘れていた。
 そして、書き終った文句を何度も何度もよみかえしたあと、足音をしのばせるようにして階下におりていったが、やがてもどって来た彼の手には、父の西洋かみそりと一枚の小皿とがにぎられていた。

 彼はその二つの品を机の上に置いて、しばらくそれに見入った。
 家が没落して売立がはじまった時、そのなかにまじっていた刀剣のことが、ふと彼の記憶によみがえって来た。
 すると、眼のまえの西洋かみそりが何かそぐわない、うすっぺらなもののように感じられてならなかった。

 しかし、そんな感じはほんの一瞬だった。
 彼はすぐかみそりの刃をひらいた。
 そして、いつ、誰に、どこできいたのか、また、それが果して定法なのかどうかはっきりしなかったが、血判や血書には、左手のくすり指の指先をすじ目に切るものだということが頭にあったので、その通りに指先をかみそりの刃にあて、おなじ左手のおや指で強く、それをおさえながら、思いきりすばやく、一寸ほど横にすべらせた。

 つめたいとも、あついともいえぬような鋭い痛みが、一瞬指先に感じられた。
 しかし、そのあとは何ともなかった。
 血も出ていない、次郎はしくじったと思った。
 しかし、そう思っておや指のささえをゆるめたとたん、赤黒い血が三日月形ににじみ出し、それが見る見るふくらんで、熟した葡萄のようなしずくをつくった。

 次郎はいそいでそれを小皿にうけた。
 つぎつぎにしたたる血が、たちまちに、小皿の中央に描いてあった藍絵の胡蝶の胴をひたし、翅《はね》をひたし、触角《しょくかく》をひたしていった。

 次郎は、表面張力によってやや盛りあがり気味に、真白な磁器の膚《はだ》をひたして行く自分の血を、何か美しいもののように見入った。
 そしてそれからおよそ三十分の後には、彼は一枚の半紙に毛筆で苦心の文句を書きあげていたが、その三十分間ほど彼にとって異様に感じられた時間はこれまでになかった。
 それはちょうど氷のはりつめた湖の底に炎がうずまいているような、静寂と興奮との時間であった。

 もっとも、字があまり上手でないうえに、使いなれない毛筆を血糊にひたしての仕事だったので、濃淡が思うようにいかず、あるところはべっとりと赤黒くにじんでいるかと思うと、あるところはほとんど血とは思えないほどの黄色っぽい淡い色になっていて、全体としてはいかにも乱雑に見えた。

 しかし、一ヵ所も消したり書き加えたりしたところがなく、また、一字一字を見ると、下手ながらも極めて正確で、誰にも読みあやまられる心配はなかった。
 文句にはこうあった。



 知事閣下並に校長先生

 私たち八百の生徒は、昨今名状しがたい不安に襲われています。
 それは、私たちの敬愛の的である朝倉道三郎先生が突如として我校を去られようとしていることを耳にしたからであります。

 私たちにとって、朝倉先生を我校から失うことは、私たちの学徒としての生命の芽を摘《つ》みきられるにも等しい重大事であります。
 私たちは、これまで、朝倉先生を仰ぐことによって私たちの良心のよりどころを見出し、朝倉先生に励まされることによって愛と正義の実践に勇敢であり、そして朝倉先生と共にあることによって真に心の平和を味わうことが出来ました。

 朝倉先生こそは、実に我校八百の生徒にとって、かけがえのない心の燈火であり、生命の泉であったのであります。
 私たちは、朝倉先生が我校を去られる真の理由が何であるかは全く知りません。

 しかし、それが先生自ら私たちを教えるに足らずと考えられた結果でないことは、これまでの先生の私たちを導かれた御態度に照らしても明らかであります。
 また、私たちは、先生が、いかなる事情の下においても、教育家として社会から指弾《しだん》されるような言動に出られようとは、断じて信じることが出来ません。
 従って、私たちは、先生が我校を去らなければならない絶対の理由を発見するに苦しむものであります。

 知事閣下、並に校長先生、願わくは八百学徒の伸びゆく生命のために、また、我校の平和のために、そして、国家社会に真に正しい道義を確立するために、朝倉先生が永く我校に止まられるよう、あらゆる援助を賜わらんことを。

 右血書を以て謹んでお願いいたします。
   昭和七年六月二十七日



 次郎は、年月日を書いたあと、すぐその下に自分の姓名を書こうとしたが、それは思いとまった。
 もし多数の生徒たちが墨書で署名するようだったら、自分も人並に墨書する方がいいと思ったからである。

 指先の出血はまだ十分とまっていず、くるんだ紙が真赤にぬれていた。
 彼はもう一枚新しい紙をそのうえに巻きつけながら、窓ぎわによって、ふかぶかと夜の空気を吸った。
 空には無数の星が宝石のように微風にゆられていた。

 彼はそれを眺めているうちに、自分が血書をしたためたことが、何か遠い世界につながる神秘的な意義があるような気がし出し、昼間馬田にそれを野蛮だと非難された時、どうして反駁《はんばく》が出来なかったのだろう、と不思議に思った。

 興奮からさめるにつれて、心地よいつかれが彼の全身を襲って来た。
 彼は窓によりかかったまま、ついうとうととなっていた。
 すると、
 「次郎、蚊がつきはしないか。」
 と、いつの間に上って来たのか、俊亮がすぐまえにつっ立ってじっと彼の顔を見おろしていた。

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