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名作を読みませんかコミュのジャン・クリストフ  ロマン・ロラン  192

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 世にもっとも愛してるものを失い、悲しみに悶《もだ》え、自分のうちに死をになってはいたが、それでも彼には、豊富な強暴な生の力があって、それが悲嘆の言葉のうちにも爆発し、眼や口や身振りから輝き出てきた。

 しかしそういう力の中心には、侵蝕《しんしょく》的な蛆虫《うじむし》が住んでいた。
 クリストフはときどき絶望の発作にかかった。それは急激な疼痛《とうつう》だった。

 じっと落ち着いて、読書につとめたり、散歩したりしてるうちに、突然、オリヴィエの微笑が、その懶《ものう》げなやさしい顔が浮かび……心に刃《やいば》を刺される気がして……彼はよろめき、唸《うな》りながら胸を押えた。

 あるとき、彼はピアノについて、昔のような熱心さで、ベートーヴェンの一節をひいていた……とにわかに、ひくのをやめ、そこに倒れ伏して、肱掛椅子《ひじかけいす》の布団《ふとん》に顔を埋めながら、叫び泣いた。
 「ああ、君……。」

 もっともいけないのは、「すでに生きた」という印象だった。
 彼はたえずその印象を受けた。
 同じ身振り、同じ言葉、同じ経験の不断の反覆を、いつも見出した。

 彼はすべてのことを知っていたし、すべてのことを予見した。
 昔のある面影を思い起こさせるような顔だちは、昔彼がその人から聞いたと同じ事柄を、言おうとしていた――(彼は前もってそれを確かに知り得た)――そして実際言っていた。

 同じような人々は、同じような経過をとって、同じ障害にぶつかり、同じく身を磨《す》りへらしていた。

 「恋のやり直しほど世に懶きものはないということが真であるとするならば、すべてのやり直しはさらにいかほど懶いことであろう!
 それは人の気を狂わせるようなものだった。

 クリストフはそれを考えまいとつとめた。
 生きるためにはそれを考えないことが必要だったからであり、そして彼は生きたかったからである。

 それこそ、恥辱の念からまた憐憫《れんびん》の念から自己を知りたがらない痛ましい欺瞞《ぎまん》であり、底に隠れてる不可抗な生の欲求である。

 慰安がないことを知りながら、慰安を創《つく》り出す。
 生には存在理由がないことを知らせられながら、生きる理由をこしらえ出す。
 自分以外のだれにもかかわりのないときでさえ、自分は生きなければならないと思い込む。

 必要によっては、死者も自分に生きよと励ましてるのだと想像するだろう。
 そして実は、言ってもらいたいと思う言葉を死者に無理に押しつけてるのだということを、みずからよく知っているのである。
 なんたる惨めなことであろう!……

 クリストフはまた自分の道を進みだした。
 彼の足取りは昔の確実さを回復したかのようだった。

 心の扉《とびら》は苦悶《くもん》にたいしてまた閉められた。
 彼はその苦悶をけっして他人に語らなかった。
 彼自身も苦悶と差し向かいになることを避けた。
 彼は落ち着いてるように見えた。

 ほんとうの苦しみは、それがみずからこしらえた深い寝床の中に、平静な様子で横たわって、あたかも眠ってるがように見えるけれど、しかしなおそこで、魂を腐蝕《ふしょく》しつづけるものである。――とバルザックは言っている。

 クリストフをよく知ってる人で、クリストフが行ったり来たり話したり作曲したり笑いまでするのを――(彼は今では笑っていたのである!)――よく観察する者があったならば、この活気に燃えたった眼をしてる強健な男のうちに、その生の奥底に、ある破壊されたものがあることを、感じたであろう。

 彼は生に立ち直ってからは、糊口《ここう》の方法を安全にしなければならなかった。
 その町を去ることは彼にとって問題であり得なかった。
 スイスはもっとも安全な避難所だった。
 そしてまた、どこでこれ以上の親切な待遇を見出し得よう?

 しかし彼の自尊心は、友の世話になってるという考えに晏如《あんじょ》たることができなかった。
 ブラウンは言い逆らって、何も受け取ろうとしなかったけれど、彼はある音楽教授の口を見つけて、一定の宿料を払い得るようになるまでは、安心がゆかなかった。

 それはたやすいことではなかった。
 彼の革命的暴挙の噂《うわさ》は広まっていた。
 そして中流人の家庭では、危険人物だとされてる男、もしくは結局並みはずれた人物だとされ、その結果あまり「穏当」でない人物だとされてる男を、家に入れることをいやがった。

 それでも、彼の音楽上の名声とブラウンの尽力とで、四、五の家庭に近づくことができた。
 それらの家庭は、さまで小心翼々としてないかあるいはいっそう好奇心に富んでるかしていて、おそらく芸術上の見栄から奇を衒《てら》いたがってたのであろう。
 とは言え、きわめて注意深く彼を監視して、師弟の間に適宜な距離を保たしめていた。

 ブラウンの家では、生活が一定の規則正しい方式で整えられた。
 午前中は各自に自分の仕事にかかった。
 医師は往珍に出かけ、クリストフは教えに出かけ、ブラウン夫人は買い物や信心深い仕事におもむいた。

 クリストフはたいていブラウンより先に一時ごろ帰ってきた。
 ブラウンは自分の帰りを待たせないようにしていた。
 それで彼は若い夫人といっしょに食卓についた。

 それはあまり愉快なことではなかった。
 彼女は彼に同情をもっていなかったし、彼は彼女に何にも話すことがなかった。
 そういう感じを彼女は意識せざるを得なかったが、しかし少しも打開しようとは骨折らなかった。

 彼女は化粧にも才知にも気を配らなかった。
 クリストフへこちらから先に言葉をかけることなんか嘗《かつ》てなかった。
 挙動や服装の無作法さ、その無器用さや冷淡さは、クリストフのように女性の優姿に敏感な者を、すべて遠ざけるほどだった。

 クリストフはパリー婦人の霊妙な優美さを思い起こしては、アンナをながめながら、こう考えずにはいられなかった。
 「なんて醜いんだろう!」

 でもそれは正当ではなかった。
 やがて彼は、彼女の髪や手や口の美しさに気づいた。
 いつもそらされてばかりいる彼女の視線にたまに出会うと、その眼の美しさに気づいた。

 しかし彼の判断はそのために変わりはしなかった。
 彼は礼儀上彼女へ強《し》いて話しかけた。
 話題を見つけるのに骨が折れた。
 彼女はそれを少しも助けてくれなかった。

 二、三度彼は、町のことや夫のことや彼女自身のことを尋ねかけてみた。
 が何にも聞き出し得なかった。
 彼女はありふれた答えばかりをした。
 つとめて微笑《ほほえ》んでいたが、その努力も不愉快な感じを与えるものだった。

 微笑は無理なものであり、声は重々しかった。
 一語一語語尾を切り、一句一句に苦しい沈黙がつづいた。
 クリストフもついにはできるだけ話しかけなくなった。
 彼女にはそのほうがありがたかった。

 医師が帰ってくると二人はほっとした。
 医師はいつも上機嫌《じょうきげん》で、騒々しくて、せかせかして、俗っぽくて、好人物だった。
 盛んに食い飲み語り笑った。

 彼といっしょだとアンナも少し口をきいた。
 しかし二人の話はたいていいつも、食べてる料理のことや品物の価のことばかりだった。

 時とするとブラウンは、彼女の宗教上の仕事や牧師の説教などについて、彼女をからかって面白がった。
 すると彼女は固苦しい様子をし、食事が済むまでむっつり黙り込んだ。

 彼はまたしばしば往診の話をした。
 好んで嫌《いや》な患者のことを述べたて、あまり微細にしゃべりたてるので、クリストフは憤慨した。

 ナプキンを食卓に放り出し、嫌悪《けんお》の渋面をして立ち上がった。
 それがブラウンには面白かった。
 ブラウンはすぐに話しやめて、笑いながらなだめた。
 がそのつぎの食事のときにもまた話し出した。

 病気に関するそれらの冗談には、冷然たるアンナを歓《よろこ》ばせる力があるかのようだった。
 彼女は沈黙を破って、突然神経質に、何かしら動物的な笑いをたてるのだった。
 おそらく彼女は自分が笑ってる事柄にたいしては、クリストフに劣らぬ嫌悪《けんお》の情を覚えていたのであろう。

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