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名作を読みませんかコミュの次郎物語  下村湖人  70

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 三人はしきりに頭をかいた。
 やがて里芋が焼け、話がいよいよはずんだ。
 老人は、「若いうちは無茶もええが、筋金《すじがね》の通らん無茶は困るな。」と言った。
 「あすはわしが案内してええところを見せてやる。」とも言った。
 また、
 「そろそろ引きかえして、日田町に一晩泊り、
  そこから頼山陽を学んで筑水下りをやってみてはどうじゃな。」とも言った。

 時計はとうとう一時を二十分ほどもまわってしまった。
 それに気づくと、老人は、
 「さあ、もう今夜はこのくらいにして、おやすみ。寝床はめいめいでのべてな。
  夜具はこの中に沢山はいっているから、すきなだけ重ねるがええ。」
 と、うしろの押入の戸をあけて見せ、

 「炉の中に夜具を落したり、足をつっこんだりしないように、気をつけてな。
  便所はこちらじゃよ。」
 と、障子をあけて縁側を案内してくれ、しまいに炉火に十分灰をかぶせて部屋を出て行った。

 三人は、床についてからも、老人は何者だろう、とか、自分たちは藁小屋の中で夢を見ているんではないだろうか、とか、そんなことをくすくす笑いながら、かなり永いこと囁き合っていたが、次郎はその間に、ふと、正木のお祖父さんと大巻のお祖父さんのことを思い出し、三人の老人を心の中で比較していた。

 翌朝眼をさますと、もう縁障子には日があかるくさしていた。
 起きあがってみて、彼らが驚いたことには、畳の上にも、ふとんの中にも、藁屑《わらくず》がさんざんに散らかっていた。
 彼らは、幸い縁側の突きあたりの壁に箒が一本かかっているのを見つけて、大急ぎでその始末をした。

 家はずいぶん広いらしく、近くに人のけはいがほとんどしなかったが、掃除をどうなりすました頃、三十四五歳ぐらいの女の人が十能に炭火をいれて運んで来た。
 「おやおや、お掃除までしてもらいましたかな。
  ゆうべは、よう寝られませんでしたろ。」
 と、彼女はきちんと坐りこんで、三人のあいさつをうけ、それから、まじまじと次郎を見ていたが、
 「お母さんが、心配していなさりませんかな。
  早う帰って安心させてお上げ。」
 次郎はただ顔を赧《あか》らめただけだった。

 朝飯は、茶の間で家の人たちといっしょによばれた。
 広い土間の隅の井戸端で洗面を終ると、そのまま食卓に案内されたが、ゆうべにひきかえて、そこにはもうたくさんの顔がならんでいた。
 「さあ、さあ。」
 と、七十ぐらいの、品のいい、小作りなお婆さんがまず三人に声をかけた。

 お婆さんと同じちゃぶ台には、三人の男の子がならんでいて、めずらしそうに次郎たちを見た。
 昨夜の老人の顔はそこには見えなかった。
 次郎たちのためには。べつのちゃぶ台が用意されていた。
 大沢がお婆さんにあいさつをしてそのそばに坐ると、恭一と次郎とがつぎつぎにその通りをまねた。

 さっきの女の人がちゃぶ台にのせてある飯櫃《びつ》と汁鍋の蓋をとって、
 「さあさ、めいめいで勝手に盛ってな。」
 と、自分は子供たちのちゃぶ台にお婆さんに向きあって坐った。
 次郎たちには、葱の味噌汁がたまらなくおいしかった。
 何杯もかえているうちに、顔がほてって汗をかきそうだった。

 食事中に、お婆さんが一人でいろんなことを訊《たず》ね、いろんなことを話した。
 その話で、三人はおおよそ家の様子も想像がついた。
 昨夜の老人は村長で、今朝も早く何か特別の用があって出かけたらしい。
 子供たちの父になる人は、五六里も離れたところの小学校の校長だが、土曜日に帰って来るのだそうである。

 「お爺さんは、今日はな、十時頃までに役場の用をすまして帰って来るけに、
  それまであんたたちに待ってもろたら、と言うとりましたが。
  また滝にでも案内しようと思うとりますじゃろ。」
 お婆さんは、そう言って、歯のぬけた口をつぼめ、ほっほっほっと笑った。
 食事がすむと、子供たちは、いかにも次郎たちに気をひかれているような様子で、学校に行った。

 老人は、それから間もなく帰って来たが、すぐ三人のために弁当の用意を命じ、自分は炉のはたで一通の手紙をしたためた。
 「滝まで行って来るでな。」
 お婆さんにそう言って、老人が三人をつれ出したのは、ちょうど十時頃だった。
 三人はいつものようにお礼の金を置くことも忘れてしまい、渡された竹の皮包みの弁当をぶらさげて、老人のあとについた。

 老人の足は矍鑠《かくしゃく》たるものだったが、それでも三人の足にくらべるとさすがにのろかった。
 しかし、滝までは三十分とはかからなかった。滝は、老人がみちみち自慢したとおり、世に知られないわりには頗る豪壮なもので、幅数間の、二尺ほどの深さの水が、十丈もあろうかと思われるほどの断崖を、あちらこちらに大しぶきをあげて落下していた。

 滝壺に虹があらわれ、岩角の氷柱がさまざまな色に光っていたのが、いよいよ眺めを荘厳にした。
 名を半田の滝というのだった。
 寒さも忘れて三十分ほども滝を眺めたあと、三人が老人にわかれを告げると、老人は、懐《ふところ》からさっき書いたらしい手紙を出して、
 「たいがいにして日田まで下るんじゃ。
  日田に行ったら、この宛名の人をたずねて行けばええ。
  中にくわしく書いておいたでな。」
 と、それを大沢にわたした。

 大沢は、手紙を押しいただいたまま、いつものとおりには言葉がすらすらと出なかったらしく、何かしきりにどもっていた。
 手紙の宛名には日田町○○番地田添みつ子殿とあり、裏面には白野正時とあった。

 三人は、それから、その日とその翌日とを、やはり無計画のまま、やたらに歩きまわった。
 その間に、竜門の滝という古典的な感じのする滝を見たり、何度も小さな温泉にひたったりした。
 そしてふところもいよいよ心細くなったので、白野老人のすすめに従って、それからは、まっすぐに日田町に下ることにした。

 日田町までは一日がかりだった。
 町について田添ときくと、すぐわかった。
 りっぱな医者のうちだった。
 一晩厄介になっているうちにわかったことだが、みつ子というのはその医者の奥さんで、白野老人の末女に当るのだった。

 この人がまた非常に親切で、歳はもう四十に近かったが、まるで専門学校程度の、聰明で快活な女学生のようだった。
 筑水下りの船も、前晩からちゃんと約束しておいてくれたらしく、朝の八時頃には、家のすぐ裏の河岸に、日田米をつんだ荷船がつながれていた。
 船賃も夫人が払ってくれた。

 三人はまるでお伽噺の世界の人のような気持になって船に乗った。
 船が下り出すと、みつ子夫人は河岸からしきりに手巾《ハンカチ》をふった。
 「無計画の計画も、こううまく行くと、かえって恐ろしい気がするね。」
 大沢は船が川曲をまわって手巾が見えなくなると、二人に言った。
 次郎も恭一も、急流を下る爽快さを味うよりも、何か深い感慨にふけっているというふうだった。

 川幅の広いところには、鴨が群をなして浮いていたが、次郎はそれにもほとんど興味をひかれないらしかった。
 大沢が、
 「鉄砲があるといいなあ。」
 と言うと、彼は妙に悲しい気にさえなるのだった。

 そして船が巖の間をすれすれに急湍《たん》を下る時にも、叫び声一つあげず、じっと船頭の巧みな櫂《かい》のつかい方に見入り、かつて何かで読んだことのある話を思い出していた。
 それは、水に溺れかかったある偉大な宗教家が救助者に身を任せきって、もがきもしがみつきもしなかったという話だった。

 船が久留米に近づいて、水の流れがゆるやかになったころ、彼はこっそり恭一に向かって言った。
 「無計画の計画ってこと、僕も少しわかったような気がするよ。」

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