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名作を読みませんかコミュの「道標」  宮本 百合子  142

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        十二


 このメーデーに、日本では川崎に武装した労働者の行進が行われた。
 プラウダに次々報道される各国のメーデーのニュースのなかに、そういう記事を見出したとき、伸子は、衝撃をうけた。

 伸子は、日本がどういうことにか成ったかと思った。
 「革命的な数百名の労働者が武器をもって行進したってあるけれど。
  でも、なぜ?」
 一九一八年の米騒動のときのような意味があるわけではないらしかった。
 武装するということも全国的に行われたのではなくて、そんなことのあったのは川崎市でだけのことらしかった。

 「武装したなんて、変なみたいな話だな。
  どうせおまわりとぶつかるのが関の山なんだろうのに、武装なんて」
 伸子たちの部屋の入口よりにおかれている補助ベッドに腰かけている若い画家の蒲原順二が、素子の不審を註釈するように、

 「このごろ、とてもひどいですよ」
 伸子たちの知らない日本を説明した。
 「市電のストライキのときだって、従業員はしずかにしていたのに、
  いきなり催涙弾をぶっぱなしたんですから」
 「あなた、ごらんになったの?」
 「僕は去年の暮にもうベルリンだったから、現場は見ません、
  『戦旗』に出ていた写真、みませんでしたか」

 伸子たちは、メーデーの半月ばかり前から思いもかけず、ベルリンからモスクワへ来た若い画家の蒲原順二と、一つホテルの部屋に雑居生活をしているのだった。
 蒲原は気をくばって、夜着物をぬいで寝るときとか、朝起きて女二人の身じまいする間、場をはずして、伸子や素子の迷惑にならないようにふるまった。

 そのかぎりでは、一人の男が、二人の女の中にまじった生活も大した煩わしさではなかったが、そもそも、蒲原順二が伸子と素子の生活に出現したいきさつは唐突だった。
 ある午後В《ヴ》・О《オ》・К《ク》・С《ス》(対外文化連絡協会)から伸子に電話がかかって来た。
 このごろは、あまりВ・О・К・Сへ出かけない伸子に、是非たのみたいことがあるから、すぐ来てくれるように、というのだった。

 「何の用なのかしら」
 また日本から、芝居か映画関係の人が来て、その交渉の助手のような用でもあるのかと思った。
 「あなたをよべばいいのに」
 仕度をしながら、伸子はいくらかこぼす口調だった。
 「あなたなら、言葉もちゃんとわかるんだのに」

 「わたしは、いやだよ。
  ぶこちゃんがいいのさ。わたしのつっかえつっかえの正しいロシア語より、
  ぶこの一斉射撃の方が、結局役に立つんだろう。
  数の中から、必要な言葉をひろうこつさえわかれば、
  結構ぶこちゃんのロシア語がてっととりばやいんだ」
 「ともかく行って見よう。わたしに出来ないことだったら、ちゃんと、ことわるわ」
 「そうさ、もちろん、それでいいさ」

 В《ヴ》・О《オ》・К《ク》・С《ス》の二階にノヴァミルスキーを訪ねると、彼の机のわきにまだ若い一人の日本の男が腰かけていた。
 その青年は、入って行った伸子を見ると、すこし腰をうかすようにして伸子を見知った表情を浮べた。

 ノヴァミルスキーは、
 「おお、サッサさん」
 立ち上ってひどく背の高い上体を机ごしにこちら側の伸子の方へ折りまげ、伸子の手を握った。
 「どうぞ、おかけ下さい」

 伸子がかけると、彼は、机に両肱をついてぐっと体をもたせかけ、例の、喉仏が一オクターヴも下ってついているようなめずらしいバスの声ではじめた。
 「こういうわけです、佐々さん。
  ここにいる日本の青年は、さっきベルリンから来た画家です。
  ヘル・ジュンジ・カンバーラ」

 ノヴァミルスキーは、伸子に蒲原順二を紹介した。
 「彼は、ドイツ語を話します。
  しかし、ロシア語は全然知りません。
  いかがでしょう、何とかあなたとヨシミさんとで、
  彼を落付けるようにしてやって頂けますまいか」
 伸子は、何だか話がさかさなような気がした。

 В《ヴ》・О《オ》・К《ク》・《ス》は、こういう人にモスクワ滞在の便宜をはかる、組織であるはずなのだ。
 「わたしには、ことがらがよく理解されないんです。
  どうして、わたしたちが彼を、世話しなければならないんでしょう。
  個人的に」
 そう云っているうちに、伸子には、いろいろ具体的な疑問がわいた。

 「わたしたちは、ベルリンで彼に会っていません。
  いまはじめて会ったばかりです」
 蒲原順二が、ほんとにちっともロシア語を知らないのか、あるいは少しはわかってきいているのか、伸子はそういうことにかまわず、文法のあやしいロシア語で、ためらわず話した。

 「彼がどんな画家であるか、わたしはそれを知りません。
  ベルリンで彼がどのように生活して来たか、わたしたちは、それも知らないんです。
  あなたに、それらのことがわかっていらっしゃるんでしょうか」
 「わたしも知りません。
  だが、彼はベルリンで描いた絵を数点もって来ています、
  それは今、美術部のものが見ていますが。
  ちょっと待って下さい」

 ノヴァミルスキーは席をたって大股に机の角をまわり、廊下の方へ出て行った。
 ノヴァミルスキーのいるところは接客室とも云うべきところで、美術・宣伝部は、階段の反対側にある広間だった。
 二人きりになると、蒲原順二という青年画家は日本人同士のくつろぎのあらわれた表情になって、

 「どうも、すみません」
 伸子に世話になることがきまっているように挨拶した。
 「いいえ。
  でもいきなりで。
  いつおつきになったの?」
 「二時間ばかり前、停車場からタクシーでまっすぐここへ来たところなんです。
  日本へ帰る前、是非いちどモスクワへ来たかったし、
  モスクワで知っているところと云えばВ・О・К・Сしかないもんですから」

 蒲原順二は、去年の十二月はじめからベルリンにいたということだった。
 伸子がその同じ十二月にパリからモスクワへ帰るとき、列車を乗りつぐ時間、ベルリンにいた。
 往きにベルリンで暮した数日の間つきあった川瀬勇にも会ったが、蒲原という名は話に出なかった。

 蒲原は、一ヵ月はモスクワに滞在して、ロシア画家の作品ばかりを蒐集してあるトレチャコフスキー美術館や新しいプロレタリア画家たちの仕事について知りたいというのだった。
 「僕のドイツ語はたよりないんですが、僕の画を見た上で、
  こっちのプロレタリア美術家連盟へ紹介してもらえるかもしれないらしいんです。
  もしそういうことになれば、僕がここで何か描いて、
  モスクワにいる間の費用ぐらいは出そうなんですが」

 蒲原と伸子とが、待ちあぐねかけたとき、ノヴァミルスキーが部屋へ戻って来た。
 「およろこびします。
  ヘル・カンバーラ」
 彼はドイツ語でそう云いながら、安心と戸惑いで若い顔をうすくあからめた蒲原の手を握った。

 「サッサさん。カンバーラさんの絵の技術は、美術部で承認されました。
  すぐ、プロレタリア美術家同盟への紹介を彼におわたしします。
  同盟は彼に仕事を与えます。
  そして、経済上の援助もいたします」
 「ようございましたこと!」
 伸子は、ノヴァミルスキーが云ったとおりを蒲原につたえた。

 「深く感謝します」
 礼をのべながら、蒲原順二は、まだ知りたいことがのこっているという風な瞬きをした。
 伸子もその気もちは同じだった。
 「それでは、同盟の事務所へ彼を案内すれば、彼の宿を紹介してもらえるでしょうか?」

 「そのことです、サッサさん」
 ノヴァミルスキーは、バスの声を一層低いバスにして、
 「あなたの御親切に期待しなければならないところです。
  われわれは彼に仕事を与えることは出来ます。
  しかし残念ながら宿の世話は困難です。
  彼はモスクワへ来るまでの金をもっていたので、
  目下のところ宿のために支出することができないんです」

 「そうなの?
  蒲原さん」
 「小遣いぐらいは何とかなるんですが……」
 ノヴァミルスキーは、
 「そういう次第なんです」
 おおきくうなずいて、伸子の眼を見た。

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