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名作を読みませんかコミュの「道標」  宮本 百合子  115

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 伸子は、五ヵ年計画について、ぼんやりした理解をもったまま、モスクワから来てしまっていた。
 ソヴェト同盟の生産は、本来いつも国家計画《ゴス・プラン》にしたがって行われて来ている。
 それぞれの生産部面は、映画制作でさえも、ゴス・プランを検討して、行っている。

 年々に実行されて来ている生産計画が二八―二九年経済年度から一九三三年までの五年間に、特別五ヵ年計画として意義をもつのは、この五年間に生産各部門が、これまでの平均生産額を、倍から二倍以上に上昇させる計画であるという点であった。
 そのことによって、ソヴェトの人民は自分たちの社会主義社会を、一層現実的に強固な基礎におくことが出来る。

 資本主義生産の破綻にうちかって、社会主義国家の独立と自由をまもり、戦争挑発をうちやぶることができる。
 新しく企てられる五ヵ年計画についてどの論説も、演説も強調している点は同じであった。

 モスクワでそれらをたどりたどりよんでいたころ、伸子は、声に出して「わかっている《パニャートノ》」ということがあった。
 そのくらい、五ヵ年計画について語られるすべての言葉は一致していて、この計画の意味は明瞭である。
 と、伸子は当時思っていたのだった。

 文学的な角度からモスクワの生活にはいった伸子は、世界経済について全く貧弱な知識しかもっていなかった。
 階級的生産の知識が不足なところへ、伸子はいきなり彼女流の率直さでソヴェト同盟の計画生産の方式を肯定した。

 その肯定のしかたも伸子流に単純で、しかし具体的であった。
 工場、労働者クラブ、産院、託児所、子供の家、学校、劇場、映画製作所、ソヴェトの運営などと、見学しつづけた伸子は、労働者男女が互にわけあっている社会保障の現実を社会主義の社会というもののよさとして、うけいれずにはいられなかった。

 伸子は、そういう現象から逆に帰納して、社会主義の計画生産の意義をうけいれているのだった。
 一九二七年の十二月に初雪のふるモスクワへついたときから、十数ヵ月の間、伸子はいたるところに、首府であるモスクワ市内ばかりでなく、石油のバクー市でも、石炭のドン・バス地区でも、そこに工業化《インダストリザーチヤ》、電化《エリクトリザーチヤ》というスローガンがかかげられてあるのを見つづけた。
 農村の集団化《コレクティヴィザーチヤ》とともに。

 伸子のあいまいな知識に「五ヵ年計画《ピャチレートカ》」は、それらのスローガンの延長のようにも映った。
 或は、いくつかの連続したスローガンが順次にかたまって、その一点へ来て強い光りを放ち出した、という風にもうけとれていたのだった。

 茶色に古びたパリの大きい部屋の隅に漂着したふる船の中から小柄な上半身をおきあがらせているようなどことなくユーモアのある姿で、野沢義二は蜂谷良作と話している。
 「僕なんかにでも、今のような国際経済の事情になってみると、
  五ヵ年計画の意味ってものが、いくらかのみこめて来るようだな」
 頭に黒いキャップをかぶって部屋着をきた野沢の話しかたは、せき立たない考えの展開にしたがって、言葉を一つ一つ、それぞれの場所に置いてゆくような静かな的確さがあった。

 彼の日頃からのそうした話しぶりに伸子は野沢の天質の特色を感じているのだった。
 野沢義二の専門は哲学であったが、彼は詩作もした。
 フランスの有名な反戦作家のルネ・マルチネの家の私的な団欒《だんらん》に伸子をつれて行ったのも野沢であった。

 「ソヴェトが、こんどの五ヵ年計画をほんとに実現できれば、たしかに大した仕事だな。
  おそらく、やるんだろう」
 蜂谷良作は、チューブからねっとりした何かが押し出されて出て来るような風に話した。
 「しかし、大体、世界じゅうが第一次大戦後は計画経済の方向に向ってはいるんだがね。
  資本主義を何とか救おうとすれば、その方向しかないのは、
  誰にもわかって来ているんだ」

 書物や紙ばさみや新聞がその上にちらかっている野沢の大型デスクのはじにもえているアルコール・ランプのよこで、伸子は、ズボンのポケットに両手を入れて話している蜂谷良作を見つめた。そんなのって、おかしい!
 伸子の心が異議をとなえた。

 社会主義の計画生産と資本主義を救うための計画生産とが、どうして同じ本質の「計画生産」であり得るのだろう。
 「蜂谷さん、この間、資本・労働協定《キャピタル・レーバー・パクト》の話のとき、
  あなたは、資本主義生産に、ほんとの合理性はあり得ないんだって、
  教えて下さったことよ」
 「それはそうさ」
 同じ姿勢のまま、はなれたテーブルのわきにいる伸子を、蜂谷は例の、眉をしかめるような見かたで見て云った。

 「それはそうにちがいないんだ。
  しかし、実際には、資本主義の枠の内でも過渡的に、
  部分的に計画性をもち得る面もあるわけなんだ。
  資本主義だってやっぱり生きているもんだし、
  生きようとしてあらゆる方法を求めるのは必然なんだから……」

 「すると、それは、資本主義の生態の必然てわけなんだろうか、
  それとも生きようとする資本主義のたたかいの方法の一つなんだろうか」
 「あとの方だね」
 「そんなら、つまり改良主義じゃないの。
  それは『偽瞞的な社会民主主義』であるって、あなたが教えて下さる、
  そのものじゃないの」

 蜂谷良作は、椅子にかけている片膝をゆすりながら、ややしばらくだまっていた。
 それから、おもむろに云った。
 「本質はそういうものであるにしろ、資本主義も自由主義時代がすぎて、
  計画性をもたなくちゃならなくなって来ているという事実そのものが、
  今日の歴史の因子《ファクター》なんだ。

  社会主義へ発展すると云っても、
  事実資本主義の中をぬけて行かなけりゃならないんだし、
  その過程でいま改良主義と云われている方法にも、
  プラスとしての価値転換を与えるべきだと思うんだ。

  国によってみんな具体的な事情がちがう。
  したがって社会主義へ向うことは疑いないにしたって、
  一つ一つの過程はどこも同じコースというわけもあり得ない」

 蜂谷良作のいうことをきいているうちに、伸子は見えない精神の扉がすーとひらいて、そのすき間から、彼の考えの遠い奥が見えたように感じた。
 彼は伸子に資本論の講義をはじめ、アメリカの恐慌についてマルクス主義の立場から解説する。

 その面だけみると蜂谷はマルクス主義者のようだけれども、彼の存在の底には、しつこく絶えず触覚をうごかして、マルクス主義とは別の、何かの道を見出そうとしているものがあるらしい。
 そういうことができるものなのだろうか。
 だが現実として彼は、たしかに何かさがしている。
 蜂谷の生活感情を不安定にしているものの本質は、内心のごくふかいところにあるそのさぐりではないだろうか。

 もしそうだとすればホームシックなんかではないと彼が伸子に云ったのもうそでない。
 三人がいる古ぼけて大きい室の中にこそ静かな夜があるが、往来へ出ればごたついて喧噪なパリの裏町のがらんとしたホテルに、がたついたダブル・ベッドも気にならなそうに納っている野沢。

 さらにそこですごされるたのしい時間をものがたるように書物や紙のとりちらかされているデスク。
 彼としての秩序で統一されている野沢の生活の雰囲気においてみると、蜂谷の不安定さは、これまで伸子が気づいていたどのときよりも明瞭に性格づけられてわかるようだった。

 野沢のベッドのところへ、玉子のおかゆを運んだり、蜂谷と自分とはチーズをはさんだパンをかじってコーヒーをのんだりしながら、伸子は、モスクワの下宿にでもいるようにくつろいだ気持になった。
「来てよかったわね、おかゆだってわるくないでしょう」
「久しぶりに煮えたての熱いものをたべるっていいきもちなもんだな。
体のなかが清潔になってゆくようだ」

 伸子が野沢の室でらくらくした気分なのは、その室が十分歩きまわれるだけ広くて、言葉の心配のいらない三人のひとがいて、そこにはベルネの家族の間にはさまっているときのような裏表のひどい、うざっこさがないからだけではなかった。

 伸子がいない今ごろ、ベルネのうちのものは、おおっぴらに葡萄酒の瓶を食卓の上に立てて、念入りのオールドゥブルをたべているのだろう。
 伸子が酒類をのまないことがわかると、ベルネの一家は、食卓から全く葡萄酒をひっこめてしまった。

 伸子を二階からよんで食卓へつく前に、一家のものは自分たちだけで食堂のうらの台所で、食事の前半をすますらしかった。
 家のものは気もちよさそうにほんのりあからんだ顔をならべていて、テーブルの上には、伸子のためにほんの申しわけのかたいソーセージが前菜として出されているような食卓は、酒をのまないからと云って、伸子に親しみぶかいこころもちを与えるやりかたではなかった。

 伸子はフランシーヌの英語を通じてベルネの細君にそのことをどう云っていいかわからなかったし、蜂谷にも告げていない。
 今夜はベルネの食卓をぬけ出して来ている気軽さばかりでなく、蜂谷と伸子との間にある心理的なひきあいが、彼女の側として恋愛的でないことの自然さが段々会得されて来て、伸子は快活になっているのだった。

 C・G・T・Uの本部で、ゴーリキイの「小市民」の公演をすることになっていた。
 野沢はその切符を伸子と蜂谷とに一枚ずつくれた。
 マルチネの家へつれて行ってくれたのが野沢であり、C・G・T・Uの芝居の切符をくれるのが、蜂谷でなくて野沢であり、その野沢は、伸子とまるで別なところで自身の生活を統一させている。

 天体は、宇宙そのものの力で充実しているから運行しながら互にぶつかりあうことが少い。
 野沢義二はそんな風に生きようとしている人なのかもしれない。
 伸子はそう思った。
 それにくらべると、蜂谷良作は、全体が柔かくてふたしかで、潰れると液汁が出る。

 自分はどうなのだろう。
 ぼんやり考えながら、メトロにゆられていた伸子は急に目がさめたように、ああ、そうだ、こんやこそ忘れずに、帰ったら、手紙を書かなければ、と思った。
 最近になって伸子は、マダム・ラゴンデールの稽古をことわろうと思っているのだった。

 パリにいるのもあと半月たらずだったから、マダム・ラゴンデールの稽古のために、観たいものの多いパリの十一月の午後のまんなかの時間をうちにいなければならないことは、伸子にとって不便になって来ている。
 市内から遠くはなれたクラマールまで来るマダム・ラゴンデールのためには、月謝もよけい支払われている。

 あと半月でパリにいなくなる。
 それは伸子にとってわかり切った計画だった。
 それがそんなにわかりきっていて、動かせないようにきまっているということが、伸子に奇妙に思えた。

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