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名作を読みませんかコミュの「次郎物語」  下村 湖人  18

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 するとお祖母さんが、
 「なむあみだぶ、なむあみだぶ。」
 と、念仏をとなえた。
 例の老人たちがすぐそれに和した。

 お祖父さんも、口の中でそれを唱えながら眼をつぶったが、しばらくすると、また眼を開いて、
 「俊亮、きょうは家の見納めがしたい。
  未練かな。」
 俊亮は、その意味がのみこめなくて、みんなの顔を見まわした。
 「未練かな。」
 と、お祖父さんは、もう一度そう言って、しずかに眼をとじた。

 「どうなさろうというんです?」
 俊亮は病人の顔を覗きこんだ。
 「戸板。
  戸板をもって来い、わけはない。」
 病人の眼がまたかすかに開いた。
 みんなはすぐその意味がわかった。

 で、正月に餅を並べる時の大きな戸板が、間もなく納屋から運びこまれた。
 そして病人を敷蒲団ごとその上にのせると、みんなでそれを抱えて、そろそろと家じゅうをまわり歩いた。
 次郎は、恭一や俊三と一緒に、その後について廻ったが、人数の多いわりに、いやに静粛だった。

 みしりみしり畳をふむ音と、おりおり老人たちの口から洩れる念仏の声とが、陰気な調和を保って、次郎の耳にしみた。
 仏間に這入ると、すでに、新しい蝋燭《ろうそく》に火がともされていて、仏壇が燦爛《さんらん》と光っていた。
 念仏の声が急に繁くなった。

 次郎は、いつぞやそこでお祖母さんを転がした時のことをふと思い浮べたが、念仏の声に圧せられて、その思い出もすぐ消えてしまった。
 お祖父さんは、どの部屋に這入っても、うなずくような恰好をしてみせた。
 次郎は、これまで自分に大して交渉のなかったお祖父さんのそうした表情を珍しく思った。
 そして、それが何となくなつかしいもののようにすら思えて来た。

 二階を除いて、部屋という部屋は、ほとんど一巡された。
 そして、再び離れの病室に落ちつくまでには、おおかた小半時もかかった。
 病人は疲れてすぐ眠った。
 傾きかけた日が障子を照らして、室内はいやに明るかった。
 病人が眠ったのを見ると、みんなはぞろぞろと部屋を出て、あとには俊亮とお祖母さんと次郎とだけが残った。

 次郎は不思議にお祖父さんの顔から眼を放したくなかった。
 そのくぼんだ眼と、突き出た頬骨と、一寸あまりにも延びた黄色い顎鬚《あごひげ》とが、静かな遠いところへ彼を引っぱっていくように思えたのである。
 「次郎は賢いね。」
 お祖母さんは、病人の足を擦《さす》ってやりながら言った。

 次郎は、お相母さんにこんな口を利《き》かれると、きっとそのあとに、いやな仕事を言いつかるのを知っていたので、いつもなら、すぐ反感を抱くところだったが、今日は不思議に何とも感じなかった。
 そして、相変らず默って、お祖父さんの顔ばかり見つめていた。
 お祖母さんも、それっきり、念仏を唱えるだけで何とも言わなかった。

 すると今度は俊亮が、
 「次郎お菓子が食べたけりゃ、あそこに沢山ある。」
 と、違棚の方に眼をやりながら言った。
 そこには見舞の菓子折がいくつも重ねてあった。
 「もう口をあけたのが無いんだよ。
  今度新しいのをあけたら、恭ちゃんや俊ちゃんと一緒にあげるから、我慢おし。」
 お祖母さんが、はたから、ずるそうな眼をして次郎を見ながら言った。

 次郎は急に不愉快になった。
 さっき「賢い」と言われたのまでが、皮肉に感じられて仕方がなかった。
 で、父に気を兼ねながらも、ぷいと部屋を出てしまった。
 彼は、すぐその足で、二階にかけ上って、冷たい畳の上に寝ころんだ。
 畳の上には、柿の枯葉が一枚舞いこんでいた。

 彼は祖母に対して、彼がこれまで感じていたのとは、ちがった反感を覚え出した。
 それは、今までのような乱暴をしただけでは治まりのつきそうもない、いやに陰欝《いんうつ》な反感だった。
 そうした反感の原因が、祖母の言葉にあったのか、それを言った時と場所とが悪かったためなのか、それとも、彼の気持がこのごろ沈んでいたせいなのか、それは誰にも判断が出来ない。

 とにかく、彼は、今までにない、いやな気分になって、永いこと天井を見つめていた。
 部屋はいつの間にかうす暗くなって来た。
 お祖父さんの顔がはっきり浮かんで来る。
 ちっとも恐くはない。
 つづいてお祖母さんの顔が見える。
 彼は思わず拳《こぶし》を握って、はね起きそうな姿勢《しせい》になったが、すぐまたぐったりとなった。

 しばらくすると、久しく思い出さなかったお浜たちの顔が、つぎつぎに浮かんで来る。
 不思議なことには、お浜や、弥作爺さんや、お鶴の顔よりも、眉の太い勘作や、やぶにらみのお兼などのきらいな顔の方が、はっきり思い出される。
 それでも彼は、遠い以前の校番室の夜の団欒《だんらん》を回想して、いくぶん心が落着いて来た。

 が、それもほんの暫くだった。
 足にさわる畳の冷えが、また彼を現実の世界に引きもどした。
 彼は自分が現在何処にいるかをはっきり意識すると、淋しさと腹立たしさとのために、じっとしてはいられなくなって、ごろごろと畳の上にころがり始めた。
 僕は本当にこの家の子だろうか。
 ふと、そんな疑問が湧いて来た。

 すると、無性にお浜がなつかしくなって、涙がとめどなく流れた。
 すっかり暗くなった頃、俊亮が手燭《てしょく》をともして二階に上って来た。
 彼はしばらく立ったまま次郎の様子を見ていたが、
 「次郎、そんな真似はよせ。
  風邪を引くぞ。
  ほら、いいものを持って来た。
  一人で好きなだけ食べたらさっさと降りて来るんだぞ。」
 手燭《てしょく》を畳の上に置きながら、そう言って、何か重いものを次郎の背中の近くにほうり出した。
 そして、そのまま下に降りて行ってしまった。

 次郎は、動きたくなかった。
 しかし、知らん顔をしているのも、父にすまないような気がしたので、父が梯子段《はしごだん》を降りきった頃に、ともかく起き上って、父が置いていったものを見た。
 それは新しい菓子折だった。
 そっと蓋《ふた》をとってみると、中にはまだ三分の二ほどのカステラが残っていた。
 それにナイフが一本入れてあった。

 次郎はむしろあっけにとられた。
 甘いものが箱ごと自分の自由になるというようなことは、彼の経験の世界から、あまりにもかけ離れたことだったのである。
 彼は少し気味わるくさえ感じた。
 そしてちょっと父の心を疑ってみた。

 が、彼は急いでそれを打消した。
 それは、さっきの父の言葉が、いつもの快活な親しみのある調子をもって、彼の心に蘇《よみがえ》って来たからである。
 彼は急に食慾をそそられた。
 で、彼はすぐカステラにナイフを入れはじめた。
 むろんそう沢山食べるつもりではなかった。

 しかし、食べているうちにやめられなくなって、何度もナイフを入れた。
 そのうちに、彼は、あんまり慾ばって食べたら父に軽蔑されはしないだろうか、と心配し出した。
 見ると残りがちょうど箱の半分ほどになっている。
 切口がでこぼこで非常に体裁がわるい。
 彼はそれを直すために、もう一度うすく切りとって、それを食べた。
 そしてナイフを箱の隅に入れ、蓋をした。

 やっぱり、僕は父さんの子だ。
 彼はその時しみじみとそう思った。
 しかしまた、彼は考えた。
 だが、どうして僕にだけ次郎なんていう名をつけたんだろう。
 恭ちゃんはお祖父さんの名から、俊ちゃんは父さんの名からとってつけてあるんだのに。

 尤も、この疑問は、これまでにもたびたび彼の心に浮かんでいたことなので、少し慣《な》れっこになっていたせいか、さほどに気にはかからなかった。
 そして、いつとはなしに、彼は、カステラの箱をこのままここに置いたものか、それとも階下に持って行ったものかと、しきりにそのことを考えていた。
 そのうちに、ふと、階下で人々のざわめく気配がし出した。

 次郎は、はっとして、カステラの箱を小脇に抱えるなり、階段を降りて、大急ぎで離室《はなれ》の方に行った。
 離室は人の頭で真っ黒だった。
 大ていの人は立ったまま病人を見つめていた。
 次郎がその間をくぐるようにして前に出た時には、ちょうど医者が注射を終ったところであった。

 「大丈夫でしょう、ここ一二日は。
  しかし今日のような御無理をなすっちゃいけませんね。」
 と、医者は俊亮の耳元に口をよせて、囁《ささや》くように言った。
 「よほど静かにやったつもりですが、……」
 「どんなに静かでも、これほどの御病人を動かしたんでは、たまりませんよ。」
 間もなく医者は出て行った。
 みんなも安心したように、ぞろぞろとそのあとにつづいた。

 部屋には、家の者全部と念仏好きの老人たちだけが残った。
 次郎は、その時まで、まだ突っ立ったままでいたが、急にあたりががらんとなったので、自分もそこに坐ろうとした。
 そのはずみに、彼は自分がカステラの箱を抱えていることに気がついて、急に狼狽《ろうばい》した。

 「次郎、お前何を抱えているんだね。」
 と、お民が先ずそれを見つけて言った。
 みんなの視線が次郎に集まった。
 するとお祖母さんが、
 「おや、カステラの箱じゃないのかい。
  さっきお茶の間においたのが急に見えなくなったと思ったら、まあ呆れた子だね。」
 声はひくかったが、毒々しい調子だった。

 「なあに、私か次郎にやったんです。
  次郎、まだ残ってるなら、恭一や俊三にもわけてやれ。
  まさか、みんなは食えなかったんだろう。」
 俊亮はにこりともしないで言った。
 変にそぐわない空気が部屋じゅうを支配した。

 次郎は箱を恭一の前に置いて、父のそばに坐った。
 彼の心は妙にりきんでいた。
 永いこと沈默が続いた。
 そのうちに、次郎の眼は、次第に病人の顔に吸いつけられたが、まだ心のどこかでは祖母と母とを見つめていた。

 お祖父さんがいよいよいけなくなったのは、それから三日目の夜だった。
 次郎たちはもう寝ていたが、起されてやっと臨終の間にあった。
 念仏の声が入り乱れている中で、彼も、鳥の羽根で御祖父さんの唇をしめしてやった。
 「御臨終です。」
 医者の声は低かったが、みんなの耳によく徹《とお》った。

 次郎は、半ば開いたお祖父さんの眼をじっと見つめながら、死が何を意味するかを、子供心に考えていた。
 彼はその場の光景を恐ろしいとも悲しいとも感じなかった。
 ただ、死ねば何もかも終るんだ、ということだけが、はっきり彼の頭に理解された。
 最初に声をあげて泣き出したのは、お祖母さんだった。
 誰も彼もが、その声に誘われて鼻をすすった。

 「三日前から、もう自分の臨終を知って、家の中まで見廻るなんて、
  何という落ちついた仏様でしょう。」
 お祖母さんは、声をふるわせながら、そう言って、仏の瞼《まぶた》をさすった。
 「ほんとうに。」
 「ほんとうに。」
 お祖母さんに合槌をうつ声が、そこここから聞えた。
 そして、また一しきり念仏の声が室内に流れた。

 次郎は、しかし、やはり悲しい気分にはなれなかった。
 お祖母さんは、きっとまたそのうちにカステラのことを思い出すだろう。
 彼はそんなことを考えていた。
 しかしそれは決して、お祖母さんに対する皮肉や何かではなかった。
 「死ねば何もかも終る」という彼の考えが、「死ななければ何一つおしまいにはならない」という考えに移っていったまでのことだったのである。

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